前回、『進化論』の「共存共栄説」について記したが
息子自身は
”強い者と弱い者がそれぞれの個性を発揮しながら「共存共栄」する世界”を理想としつつも
その実現はかなり難しいだろうと語った
「世の中の、特に”上の人”の考え方はなかなか変わらないからね」
”上の人”とは
広く言えば、上に立って(その時代を)リードしてきた人のことをさしている
では、この理想を妨げる”上の人の考え方”とは何かといえば
一言で言えば”自分の栄光”だ
例えば、老舗のお菓子屋さんで、同じお菓子を作っている店が他にもある時
「うちが本家だ」「うちが元祖だ」という争いが起こることがある
職人は自分の作るものへの愛があり
それが広く知られ、食べてもらえることを喜びとするが
そこに「自分たちこそ一番」という誇りと、商売繁盛の欲がミックスした結果起こるのが
ライバルをたたいて一人勝ちしようとする争いだ
このように、自分のお菓子に対する心よりも
自分の(店の)名を広めることが主になってしまっているケースはよくあることだと思う
この「自分のプライド主体」の考え方が当たり前だと思って生きてきた人に
変えろというのは相当難しいだろう
それほど、人間はプライドに執着する生き物だからだ
大学院生になって半年がたつ娘は
学生としての立場と、音楽家としての立場を両方持つ中途半端な位置にいて
活動範囲が広くなるほど、色んな音楽家と接する機会も多くなるが
音楽に対する考え方にも、各々に相当の違いがあることがわかってきている
音楽大学では(一部の音大を除き)基本的にはクラッシック音楽しか教えない
だから、音楽=クラッシックであり
それ以外のジャンルは音楽として認めない人も結構いる
それはそれで個人の信念の問題だから自由だが
色んなジャンルの音楽があふれているこの時代に
その感覚は、”クラッシック=お高くとまっている”と誤解を招くように思う
クラッシック音楽そのものは確かに素晴らしいけれど
それをやっている人の考え方によっては
せっかくの名曲も遠い世界のものになり
プライドの高いマニアだけのものになってしまうかもしれない
それはとてももったいないことではないだろうか
その音大の中にあって、娘は仲間と共に
ミュージカルやアニメの歌から古い歌謡曲まで取り入れながら
色んなイベントや施設などで積極的に活動してきた異色の存在でもある
彼女のスタンスは
まずはお客さんの層にあわせた選曲をすること
そこに自分たちのやりたい曲をすり合わせながらコンサートを構成していく
その時一番に伝えたいのは「音楽の楽しさ」だ
それを全力で伝えた結果としてお客さんに喜んでもらえたら
自然と評判も付いてくる
音楽の良さを伝えるには、自分が高い位置にいたのでは何も始まらない
お客さんも演奏者も一緒に楽しむ演奏会こそ娘の理想とするところだし
大きなホールでの本格的なクラッシック演奏会も
小さなイベントでの和気あいあいのミニコンサートも
どれが一番いいとかダメとか比べるのではなくて
それぞれが必要に応じて「住み分け」「共存」し
その結果として音楽が広く普及していくことへの願いを
分かる人はわかってくれるはずだとも考えている
そんな娘が通っている大学はカトリック系で
入学した時には、初めてミサに出席したり、神父さんやシスターと接したり
どれもみな珍しいことばかりだった
世界史でも習うように、同じキリスト教でも、カトリック教会とプロテスタント教会は不仲で
歴史上さまざまな争いが起きている
うちの教会は
キリスト教がカトリックやプロテスタントに分かれて行く前の「初代教会」の立場をとっているので
どちらにつくという感覚はないのだが
どういう立場の教会であれ
「聖書通りの一番正しい教会」を名乗る教会は山ほどあることを知っている
現に、わたしたちが元いた教団もそうだったし
「一番正しい教会」にいるという自負心は、信仰者の心の支えともなるものだった
だが、キリストの名を伝えるべきキリスト教会が
各々自分の教会の名前を宣伝することが主になっているとすれば
それは前述の「元祖だ」「本家だ」の争いと変わらないことになる
娘は、カトリックの人たちと接しながら
今やカトリック教会もプロテスタント教会も反目することをやめ
お互いに協力していこうという動きがあると聞かされた
これは10年前の同窓会で、わたしの高校時代の恩師からも持ちかけられたことだが
その動きは思うようには進んでいないらしい
それでも、そういう動きが出てきているという事は
「どうにかしなくてはならない」との危機感があるということだ
聖書を用い、キリストの愛を語りながら
それが実生活に反映されなければ誰が信用するだろう
もはや誰が一番と競う時代は過ぎ去っていることを
心ある人々は気づいている
人間は、何か誉められることで自信を持つ生き物だから
一生懸命やっている事で「評価されたい」「認められたい」と思うのは自然だとしても
自分が誉められることだけが主目的になると
残念ながら周りからは愛されなくなってしまうだろう
どんなに強く見える人も、自分が愛されていないことには敏感だ
その寂しさは、プライドで埋めることはできない
だが、上記の繰り返しになるが
この「自分のプライド主体の考え方」が当たり前だと思って生きてきた人に
変えろというのは相当難しい
それは、長年大事に培ってきたものを捨てろというに等しく
頑張ってきたことも無駄であったかのように思えるのだがら
変われないのも無理はない
だから、それは「世界の違う人」として考えて
それぞれ自分は「自分の世界」を生きて行けば良いのだと思う
その自分の世界が「愛を主体にした世界」であれば
(この道は世間的には負け組と言われるかもしれないけれど)
感情的にならず、知恵をもって摩擦を避け
自分に与えられた持ち味を生かすことができる人生になるだろう
そんな人生こそ最も幸いだとわたしは確信している
(2014.10.23)
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