先日、娘が電車に乗った時のこと
席があいていたので座りかけていた娘の背後に
向こうから突進してきたおばさんが荷物を突っ込んだ!
思わず「なんですか?!」と問う娘に
おばさんは自分が座りたいのだと主張する
朝から嫌な人間に出会ったものだと思っていたら
その日は更にプライドの塊のような人にもふりまわされ
疲れきって家に帰ってきた
わたしに似て気の強い娘は
昔だったら何らかの形でケンカをしただろう
でも今は黙っている
腹立ちまぎれのただのケンカは物事を解決しないし
自分の品も下げることになるわけで
もう大人になった娘はその辺はわきまえている・・・が
帰ってからも怒りは収まらない様子だった
その日はちょうど息子が休みの日で
仕事のこととか、色んな話をしている時に
”難しい人”についての話になった
自分がどういう人間であるかを本人が分かっておらず
ただ自分本位の基準で生きて、もめごとを起こし
結果的に嫌われてしまう人のことを
”かわいそうな人”と表現することがある
どんな人も自分が好かれていないことには敏感なので面白くないが
中でも更に難しいのは、反省だけは絶対しないと決めている人だろう
とはいえ、「自分が間違っていると思ったら生きていけない!」と宣言する人の姿は
強そうには見えても幸せとは思えない、、、
わたしは怒り心頭の娘に
息子の教えてくれた話を具体的にしながら
「嫌な人に出会った時、”嫌な人”と思うとますます腹が立つけど
”かわいそうな人”と思うと怒りが半減する気がするよね」と言うと
娘は笑いながら答えた
「もう半分以下になったわ〜」
どんなに腹の立つことがあっても
こうして心の余裕ができたら何とかやっていける
そうでなければ、”嫌な人”をやりこめることばかりを考えてしまうだろう
”復讐心”は人を間違った方向へ誘導し
燃えるほどに心はすさんでくる
一方、”かわいそうな人”への思いは”あわれみ”だ
そもそも何が”かわいそう”なのかと言えば
一般的に「あの人も良いところはあるのにもったいない」といった話があるように
せっかくの持ち味が上手く出ていないということと
それ以前に、本人が自分の持ち味を理解していないところが
実にかわいそうなのだと思う
だから、かわいそうな人はかなり強いコンプレックスも抱えていて
その解決方法が分からないので
自分が上手く行かない辛さを八つ当たりしながら発散し
ますます人にうとまれる負のスパイラルに陥っている
もし自分の良さを知っていたら、そんなに卑屈にならずに済んだだろうし
持ち味を生かす道を歩んでいれば、それなりに認められもしただろう
どんな人でも自分を理解してくれる人に出会ったら嬉しくなるものだ
それが、その人の持つ良さを見出そうとしてくれる人であれば
心を閉ざした人にも変化が起こる
娘は、以前実習で訪れた場所で、気むずかしい子どもに出会った
みんなは彼への対応に苦慮していたが
彼が得意とする将棋を一緒に、しかも真剣にやっているうちに仲良くなったという
娘自身は将棋をやったことはなかったが
その子が本当に好きなものに自分も一緒に取り組むことで
彼のことが少しずつ分かってきたという
そういった自分への理解が彼にとっては嬉しかったのだろう
自分に自信のない人は、しばしば人と比べては
「わたしには何もない」と言うけれど
この世に生まれた人はみな、何らかの使命を持ち
それにふさわしい資質を備えている
だが、それが目立つものでなければ面白くないと思い
しかも、あれもこれもとたくさんのものを与えられなければ
満足しないかもしれない
人の心は弱く、欲深くなれば限りがないからだ
「マタイによる福音書25章」に登場する有名な『タラントのたとえ話』では
それぞれに与えられた財産をどう生かしていくのかという姿勢が問われている
この通貨”タラント”は、”タレント(能力・才能)”の語源だ
5タラントと2タラントをあずかった人は
すぐにそれを生かして働き、財産を倍にしたが
1タラントをあずかった人は、土に埋めて何もしなかった
そして、その”与えられたものを生かさない”ことを主人からとがめられ
彼はたった1つのタラントも失っていくのだった
こうして人は「わたしには何もない」という状態を自ら招くことになる
失敗して何かを失うよりも何もしない方がマシ・・
その生き方は、かつてのわたしも陥っていたのでよくわかる
確かに失敗しなければ表面的なダメージはないけれど
生きていてちっとも面白くないという内面のダメージは大きく
人間は何らかの生きがいを持っていないと
「自分は何のために生きているのだろう?!」との疑問をいだくようになる
その問いの答えは、自分が何かやってみないと分からないが
与えられているタラントは決して同じではないので
人と比べた時点で、自分のタラントを見失ってしまうのは残念なことだ
日本にはいつ頃からか「努力すれば何でもできる」という考え方があって
そういう教育を受けた世代は
がむしゃらに走った末に現実を知り、やがて疲れ果ててしまった
高度経済成長期の人々の望みは
ただ上を目指すことに集中したけれど
それに疲れた人々が”癒し”を求めるようになったのは
わたしが社会人になって以降だと記憶している
そもそも”癒し”なんて言葉は教会以外では聞いたこともなかったし
”ストレス”という言葉も昔はなかった
一方、社会の方も少しずつ変わってきている
昔は何かすごいことをする人だけが注目されたが
今は目立たないところで
”その人らしく生きている人”も評価されるようになった
古い教育の名残のある世代は
それでもまだ今も”勝ち組思想”にほんろうされていても
若い世代は、”自分なりの幸せ”の意味を理解し
自分に合うことを見つけて頑張っている人を素晴らしいと感じ
反対に、理想ばかりで空回りしている人を”痛い人”と呼ぶ
そして、この”痛い人”は
プライドが高すぎて自分本来の姿が見いだせない”かわいそうな人”でもある
先に、”かわいそうな人”への思いは”あわれみ”だと書いた
”あわれみ”という言葉は
自分の弱さを知る人には救いの言葉となるが
プライドの高い人にはしゃくにさわるかもしれない
わたしも若い頃は
”あわれみ”と聞いても何かみじめな印象があったような気がする
それでも、”あわれみ”は愛から来ているから
本当は誰でも欲しいはずだ
人は、他者へのあわれみを忘れて争い
自分へのあわれみを忘れて道に迷う
この世に、”何もない人”は存在しないというのは
誰もが大きなあわれみのうちに生かされているということ
「愛は寛容であり、愛は情け深い」
人間とことん切羽つまると、最後はここにたどりつく
(2014.11.14)
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