いいかげんな話



<2.大丈夫>

先日、ある人の「産後うつ」の話を聞いていた時
そのきっかけが「母乳信仰」によるものだったことを知り
ああわたしも息子を産んだ時、母乳にこだわる病院で苦労したなあと
当時の事を懐かしく(といっても良い思い出ではないけど)思いだした

現在24歳の息子が生れた時
わたし自身は特に母乳に対してこだわりはなく
かといって、体型が崩れるのが嫌という理由でミルクにするとか
そういう不自然なことも全く考えなかったが
まさか自分の子が母乳を飲めない子だとは想像していなかった

だから、母乳はたくさん出ているのに
ちっとも飲めない息子に対してどう接したらいいのかわからず
哺乳瓶なら受け付けるので、とりあえず搾乳して飲ませていたら
看護師さんから「飲むのが楽な哺乳瓶に慣れさせてはダメ!」と強く言われ
おなかがすいて泣く息子を一晩中抱きながら
自分も泣きたい気持ちでいっぱいだったことを思い出す

それから退院するまでの間はずっとこの調子で
こっそり哺乳瓶をとりに行ってミルクを作りたくても
母乳が出ているわたしはミルクに安易に走るべからず!と叱られ
入院中はわたしも息子も散々だった

そのため退院時には息子の体重はぐっと減り
それでも「母乳で頑張って」と送り出されたが
これからどうしようと戸惑っているわたしに
母はすぐにミルクを買ってきて「これを飲ませよう」と言ってくれた
おかげで息子はそれから飢えることなくすくすく成長し
わたしも寝る時間ができてホッとする
その後、何度か試してみても息子は哺乳瓶しか受け付けず
そのまま完全にミルクで育っていった

一方、次に生れた娘もきっと母乳は飲まないのだろうと思っていたら
こちらは意外にも最初から当たり前のように吸いついて飲み始めたので
同じ赤ちゃんでもこんなに違うものなのかととても驚き
飲む子も飲まない子も、あるいは母親の母乳が出るも出ないも
みんな全然事情が違っても不思議ではないのだと
わたしはこの時勉強したのだった

よく、「当たり前」という言葉を簡単に使うけれど
その「当たり前」の基準は人(あるいは時代)によって差があり
そこにまた人が勝手な説を打ち立てる
こうして、残念ながら「当たり前」の範囲から外れてしまった者は
自分は失格者なのだと劣等感をいだくようになることから
それが「うつ病」にもつながっていく場合があるなんて
勝手な説を言い出す人も問題ありだが
一方で、それにふりまわされる自分もどうなのかと
よく考えてみなくてはならないだろう
ただ、本人が自信を失い、戸惑っている時
身近に「大丈夫」と言ってくれる人がいたら心強い

さて、息子と違い、最初からずっと母乳で育っていた娘だが
8か月の頃、急に断乳を強いられることになるのもまた予想外のことだった
それはちょうど夫の胃がんの手術にわたしが付き添うことになったためで
その時初めて数日間わたしから離れることになった娘のことをどうしようかと
わたしは母に相談した
すると母はあっさり「離乳食だけでも大丈夫よ」と言い
「母乳がないと夜泣くんじゃないかな」と心配するわたしに
「泣いたら抱っこするから大丈夫」と笑って言った
そして、その言葉の通り
娘はその日から完全に離乳食に移行し
いっさい夜泣きもなく
まるで何事もなかったかのようにおばあちゃんの家で機嫌よく過ごしたのだった

わたしの母は、初めての子育ての時、育児書を読んで混乱したらしく
あんなものは読むもんじゃないよと常々わたしに語っていた
子どもなんて理屈や理想通りにはいかないのが「当たり前」と
特に身近な人が前もって幅のある育児を教えてくれたら
産後うつに陥る人も少なくなるのだろうなあと思う

自らの経験(失敗)を通して
「いいかげん」を知っているからこそ言える「大丈夫」の言葉には
人を安心させるものがある
不安を解消するために(安心感を得るために)
人はあれこれ先回り(ある時には暴走)してみるけれど
なかなか自分の思うようにはいかない経験を積むことで
どの程度「いいかげん」でも「大丈夫」なのかの「幅」を知り
かえってそれが自分の自信になっていくというのも面白いものだ
そして、自信を持って「大丈夫」と言ってもらえたら
自信のない人はそれだけで勇気が出る

目先のことは失敗に見えても
それでもうすべてがダメになっていくわけじゃない
世の中は不安な情報で満ちているけれど
そんな中でも、お互いに自分の持っている「大丈夫」をシェアできたら
もっと穏やかなものが広がっていくんじゃないかと
わたしはそこに希望を置いてみている


(2013.2.20)



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