いいかげんな話
<3.1か0か(有るか無いか)思考>
「病気をきっかけに、自分は周りに対して優しくなったと思う」
病気なんて誰も好んでなりたくはないが
こんな話を聞くことは、けっして珍しい事ではない
この言葉の意味するところはいくつかあって
一般的によくあるのが
病気を通して人の痛みを知り、自分の弱さも知ることにより
人間として丸みが出たというもの
弱い人への思いやりが生れるのは、その人の心が成長している証だ
また、ちょっと違うケースでは
自分の病気を気にする余り、周りへのおせっかいができなくなり
結果的にあれこれうるさく指図しなくなったというのもある
特に、世話好きで何かと手を出したくなる人や
心配性でついついあれこれ言いたくなる人の場合
こうして強制的にブレーキがかかることもあるらしい
先日も
病気を通して「行き過ぎた自分」に気づいた人の話を聞きながら
ここに気づける人は幸いだと思った
これまで人のためになると信じてやってきたことが
単なるお節介だなんて知るのはショッキングだけど
結果的に、自分も周りも楽になるなら
気づけて本当に良かったと思う
更には、病気になることで、周りの人々の優しさに気づくことも多い
がむしゃらに走っている時には見えなかった大切なものが見えるようになったと
そこから得るものの大きさを思うことで
病気とも穏やかに向き合っていけるのだという人は
病気を、単なる悪ではなく
うまく付き合っていく相手と見なしているのだろう
実際に
大きな病気を持ちながらも前向きに生きている人の姿は
周りの人に勇気を与えるものだ
本人にとっては
それは仮に「あきらめ」から出ているものだとしても
結果的に人の役に立つのは素晴らしいことだと思う
ましてや
病気を通して何かつかむものがあるなら
病気=不幸の元とは決して言えないし
その経験を伝えることは
病気だからすべてがダメになるわけじゃないのだと
周りに安心感を贈ることにもなるだろう
「この人と一緒に居るとホッとするよね」
と言われる人の共通点は
周りに安心感を与える何かをもっていることで
それは自分の中に「好い加減」の思考のゆるさを持っているところから
自然に生れてくるものなのだと思う
そして、この「思考のゆるさ」とは
言いかえれば「許し」であり
自分で決めたシナリオ通りに人生が進まなくても
別のシナリオもありなのだと、思考の幅を広げることができれば
それが心の成長にもつながっていくだろう
教会には、何か問題が起こることでパニックに陥った人がよく訪れる
普段、「思考のゆるさ」を持たずに生活している人ほど
その狭い思考の範囲から外れたことはすべて”この世の終わり”に匹敵するレベルに思えるので
この考え方が自分を追い詰めていくのだ
これを一般的に「1か0か(有るか無いか)思考」と呼び
「中間」というあいまいでゆるい考え方のない、潔癖で完全主義の人がこれに相当する
わたしは、かつて自分もそんな生き方をしていた時代があるので
そういう人の持つ「生き苦しさ」のシステムを知っている
なぜ苦しいのか
それは、この世に完璧がないのに、いつまでも完璧を求め続けているからに他ならない
では、苦しいのになぜいつまでもやめられないのか
それは身近にこの苦しさを克服した見本がないからだ
というのも
そもそも人の思考の原点は親にあり、親は更にその親から同じような思考を継いでいる
一番身近にいる人から教わったことは
ちょっとやそっとでは変わらない
もし、自分が悪い事をしているならば
人は(良心をもっていれば)それをいつかは止めたいと思うだろう
だが、完全主義で潔癖の人は基本的に良い事をしている
悪い事は止めやすくても、良い事を止めるのは容易ではない
これまでも、石けんの話や母乳のことなどで書いてきたように
これが完全に安全で正しいものと信じているからこそ、それを止めるのが難しいのだ
わたしの母も「1か0か思考」傾向のある人だが
それでも、母乳問題の時にはわたしに安心感を与えてくれた事を思うと
すべてにおいて「1か0か思考」ではないのだろう
そしてわたしは、わたしと同様にこの思考傾向を継ぐ娘に対して
更にゆるく接している
そうでなければ、娘はいつも緊張してパニックに陥りっぱなしになるかもしれないから
娘が生まれつき持っているらしい「耳管狭窄症」は
それを治す薬も対処する方法もなく
時々鼻の下に手を当てて「耳抜き」することで音が聞こえるように自分で調整するしかない
娘が歌う動画では、たいていその様子が映っており
格好が悪いので止めたいのだが
今のところはこれしか耳管が開く方法がないのだ
そんな悩ましい病気ながら
これが体の緊張と密接な関係があることはわかっている
体がゆるめば、耳管は開いて聞こえやすくなり
そのためには、まず心がゆるむことが必要になる
どんなに医学が進歩しても
世の中には原因も対処方法もわからない病気がたくさんあって
どんなに検査しても病名すら分からない病気を抱えた人が
最後にわらをもすがる思いで教会を訪れる
そういう意味で、教会に居ると不思議な病気の人に出会う機会があり
そのたびに、人間てやっぱり絶対完璧ではいられないのだと痛感するのだった
(2013.3.3)
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