いいかげんな話



<理想と現実 6〜聞く耳ある者>

先日わたしは、ちょっとしたことで息子に対してキレた
その日は”資源ゴミ”を出す日だったので
大量にたまったダンボールや新聞紙を
ゴミ収集場所まで車に積んで運んでと頼んだのだが
息子はそれを手作業で運び始めた
「だから車で運んでって言ったじゃない?!」と言うと
「面倒くさいから手で運べばいいよ」と言う
わたしはこの”面倒くさい”という一言にイラッとして
「もういいよ!自分でやるから!!」と、さっさと車のキーを取りに行き
荷物を積み込み始める
その間も息子は黙々と手作業でダンボールを抱えて運んで
最後にわたしが収集場所に車で到着したところで降ろす作業を手伝った

わたしはその後も、息子の”面倒くさい”に対して腹を立てていたが
息子が説明していた言葉を思い出し、だんだん冷静になると
どうやらわたしが勘違いをしていたらしいと気づいた

そもそも、わたしは息子の”面倒くさい”との言葉を
ゴミ出しそのものが面倒なのだと受け取っていた
ところが息子としては、このくらいの量だったら車を出さなくても
手作業で往復した方が早いと考えていたのだ
実際に、車に荷物を積み込む作業にも手間がかかるわけで
これを息子は”面倒くさい”と言ったわけだ
しかも息子自身はその手作業を自分一人でやるつもりだったのに
これもわたしが勘違いして
わたしも一緒に荷物をもって往復するのだと思い込んでいた

理由が分かってみれば何でもないことだけど
カッとなると、相手が一生懸命説明している事も頭に入らないし
聞きたくないとまで思ってしまうのは
親であるわたしの方が立場が上との感覚があるからかもしれない

特に親子の間のように
年配者が若い人に対して勘違いしている場合
それを素直に認めて謝るのは結構難しいように思う
わたし自身は今回の事をすぐ息子に謝ったし
基本的には自分の非を認めて謝ることを恥と思わないが
それでも親としての面子が全くないわけじゃないことを
今回も改めて教えられた気がする
だから、自分で意識して「今ちゃんと謝っておかないと」と自分を押し出さなければ
そのままズルズルと何もなかったかのようにしてしまうかもしれないなと思った

昔も今も、”親は子どもに謝るべきではない”との考え方は存在し
それは、親の権威が失われないためだ等と言うが
今やこういうやり方は、親の権威どころか信用を失う元になるとわかっていても
変えられない人は結構いるんじゃないだろうか
人は自分が正しいと思っている方が自信をもって生きられるので
間違っているかもしれないと思うことは難しく
年齢が上であれば、相手より物事を知っているとのオゴリもあるだろう

”人間は自分が信じたいことを喜んで信じるものだ”
『ガリア戦記』の中でジュリアス・シーザーが記しているこの言葉は
人間の弱さをよく表している
この言葉は”人は見たいものしか見ない”との別表現もあるように
人間は自分の信じる正しさ以外の話に耳を傾けることは難しい

だが、人の話をよく聞いてみると
自分が何も知らなかった事に気づくことは多く
その相手が子どもであっても
親とは違ったモノの見方に驚いたり感心したりすることもある

自分と考え方が違う人の話に耳を傾けなければ
自分の心(理想)は揺るがないので楽だけれど
それでは現実を知らない単なる井の中の蛙でしかない

今年の水仙も花は2本しか出てこなかった
suisen2015123.jpg

これについては昨年も同じことを書き
その時に原因も解決方法もはすでに教わったにも関わらず
ちゃんと植替えをしなかったため
同じ結果になってしまったと思われる
自分に都合の良い思考回路になって
今年はもしかして咲くかも?なんて期待しても
現実はこれだ、、

あの人は人の言うことを聞かない・・・と
人のことはよく気がつくものだが
自分はどうなのか?
身近な日常にこそ、自分に問いかけるべき課題がある


(2015.1.24.)



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