いいかげんな話



<理想と現実 7〜過去の清算>

昨年11月
『牧師先生のご意見をお聞かせ下さい』という件名のメールが来た
内容は当教会にあてたものではなく
日本最大の某キリスト教団に対する問いかけで
なおかつ政治的なものだったため無視していたら
その後何度も同じ内容のメールが届いている

今は単立教会になっているわたしたちの教会が元いた教団には
”政治的なことには一切関与しない”という初代監督からの勧めがあった
このことについては、わたしは特に疑問も関心も持ってこなかったが
今はそれを本当に賢明なことだと思う

メールの内容は
教団が長年支援してきたという”ある問題”についての政治運動の件で
昨今その問題の真偽の根拠がくつがえされたことから
支援してきた立場としてどう責任をとるのか追及するものとなっていた
かつては責任追求する側だった立場が逆転し
今はただ沈黙を守っている様子を見ると
人間の判断する”思いこみの正義感”に駆られた行動の結末は
きっと想像を越えたものとなっているのだろう

一方、今回の騒動で教団の責任を追求する側もまた
追い詰めることだけが目的である可能性があり
その容赦ない批判は、お世辞にも好感のもてる内容ではなかった
人間には誰かを吊し上げることで快感を得る傾向があるが
人生に不満を抱えていればなおさら復讐心も燃えるというもの
だが、「恨み」や「憎しみ」の中には「愛」はなく
徹底的に蹴落としあう先にあるのは明るい未来ではない

今から28年前のこと
神学校を卒業間近だったわたしは、東京に住む友人を教会に誘った
彼女は教会に対してとても興味を持ち
”救い”についての話を聞いて喜んで洗礼も受けたが
わたしが最後に語ったある内容がひっかかり
それ以降もう教会へは来ていない
で、その”ある内容”とは、
社会的に大きな問題を起こしている”異端”と呼ばれる教会の話だ
わたしにとっては、自分の所属する教会が
そういう問題のある教会ではないと言いたかっただけなのだが
それについて彼女は
「自分が正しい事を主張するために別の教会の悪口を言う必要はないでしょう?」
「わたしは先の話でここの教会は良いと思ったけど、その話を聞いたら嫌になったわ」
と言った
これにはさすがにぐうの音も出なかった事を今でも思い出す

わたしはそれ以来、問題のある教会について話すことに慎重になった
宗教と過激な危険思想とは紙一重なので
きちんと説明するのはとても重要だが
行き過ぎると批判そのものに熱心になる可能性は大いにあるだろう
ただ、当時のわたしは、友人から指摘されるまで
自分のやっている事が普通だと思っていたのは
世の中が「批判」というものに対して
まだ考え方が成熟していなかったからだと思う

少なくとも現在は
批判だけでは問題は解決せず
人の信用も得られないことはわかる時代になった
では、自分なら何をどうするのだろうか?と、自ら考え
そしてそれを行動に移し、一定の効果を示せた時
初めて人は話を聞いてくれるようになる

このように
誰かに対して自分の信じる正義の話をする時には
話す本人にどれだけ信用があるかが問われることになるわけで
理想を語ることも、その反対にあるものを批判することも簡単だけれど
そこで止まってしまったら誰も信用してはくれないのだ

先日、ある友人と電話で長話になった際も
「わたしたちにとって一番大切なのは
正義を押し売りすることじゃなくて、信用される生き方をすることでしょう」
という話で意見が一致した
人間社会に間違いや失敗はつきもので
どの世界にも”負の遺産”はあり
過去の人を糾弾するような動きは常にあると思われる
だが、人の過ちをとことん追求する姿は決して品の良いものではなく
そこには未来のビジョンが具体的に語られるわけでもなく
過去の過ちから学んだ新しい動きがあるわけでもないとすれば
何をもって信用を得るのだろうか

更には、過ちを追求する時に必ず要求される”謝罪”についても
心からのものでなければ意味はないし
それ以前に
組織や家庭に至るまで古い時代の権威主義が残っている場合には
上の立場の人が簡単に謝ることもないだろう

立場が上の人というのは
本来「責任ある立場」のはずだが
世の中では下の誰かに責任を押し付けて逃げることも多い
そもそもなぜ責任が生じるかと言えば
立場が上の人ほど発言権があり、物事を動かす力もあるからで
多くの人の人生にまで影響する可能性が高いにも関わらず
最後まで責任を持とうとする潔い人ばかりではないのは残念なことだ

様々な問題の真偽は、結局「本人」にしかわからない
だから、真実を知るには、本人の「良心」に頼るしかないわけだが
プライドの高い人ほど間違いを認めることで失うものが多く
社会的立場が上であれば、なおさらそれは自分にとって「死」を意味し
追いつめられると本当にそういう道を選ぶ人まで出てきてしまうこともある
それほど人間のプライドが命がけでも守らなくてはならないものならば
どんなに追及しても結局「死んでも認めない」のも仕方がないとも思う
また、そこが人間の弱さなのだと認めて(あきらめて)いかなくては
未来へ向けて歩き出すことは難しい

誰かの立場を守るために出たウソで
他の誰かが多大な迷惑をこうむることは世の中にはいくらでもあること
それでも自分の立場を守るためのウソについて本人には「悪気」はない
そうしなければ自分(のプライド)が死んでしまうのだから
それは悪気ではなく、本人にとって「仕方がない事」になるのだろう
でも、そのために相手は大きな痛手を負うかもしれないが
そこまで思いが至らないとすれば、そこには愛が欠けている
だからといって、ウソをついた相手を追求して死にまで追い込むことも
愛があるとは言えないと思う

かつて、とんでもないウソのために被害をこうむった際
夫がそれについて徹底的に追及しなかったことを
7年前わたしは
記事(具体的な内容にはふれていない)に書いたことがある
当時はすでにその意味を納得しつつあったが
今は夫の行動を本当に正しいと確信しているのは
昔はなかった「自信」がついたからなのかもしれない

あの事があった23年前はまだわたしも若かったので
ふりかかった災難は自分の力で何とかするしかないと思っていたのだが
長い間には
人はその生き方を見て信用に足る人物かどうかを判断されるものだということと
隠された真実は忘れたころに明らかになることも実際に経験した
それによって
”いつもどんな時も神さまは見ている”ことを知り
今はそう実感することが「自信」と「自戒」につながっているように思う

教会には様々な問題が持ち込まれ
「気の毒な話」もあれば、怪しい「お涙ちょうだいの話」もあって
両者の区別には冷静な対応が必要になる
もしとんでもないウソやウワサを信じ、一緒になって相手を批判していたら
間違いの責任はやがてこちらにも回ってくるだろう
物事は常に両者の言い分を聞かないと真偽のほどはわからない
それは、自分の経験を通して身にしみている事だ

人生には、色んな出来事があり
良かれと思ってやったことにも間違いはあるもので
もはや取り返しのつかない過去の問題にこだわってみても
それは未来へ進もうとする足を引っ張るにすぎないのだと
この手の事例に関係するたびに思わされる

この度のメールの内容にしても
あらゆるキリスト教会に対して疑問を投げかけたようだが
残念ながらこれはどうしようもないことだ
特に古い問題となれば、当時の関係者はすでに故人かもしれない
そして、仮に今後、誰も「潔い人」が現れないとしても
それを反面教師として学び
自分の道を正すことに役立てればいいのではないだろうか


  「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい
  『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」
                      (ローマ人への手紙12章19節)



(2015.1.26.)



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