いいかげんな話



<互いに愛するということ 1>

大学生が春休みになると同時に
息子の職場は6勤1休の繁忙期に入った
その貴重な週一の休みさえ、休日出勤を志願する息子に
わたしは半ば呆れて休んだ方がいいんじゃないかというと
「4時間くらいなら楽勝だよ〜♪」と言いながら平然と出かけていく
そして帰宅後は自分の用事を色々すませたらもう夜、、
来週の休日にもすでに予定が入っているので
4月初めまではこの調子でひたすら働き続けるのだろう

その様子を見ていると、すぐに「若いっていいよね」と思うが
若ければ何でもできるわけではないのは明らかだ
元々そんなに元気な方ではない息子がこうして連勤できるのは
その心が元気であることが重要なポイントだと思う

8〜9月と2〜3月の繁忙期は、息子にとっては稼ぎ時
つまり、働けば働くほど収入に結びつくので
がぜんやる気もわいてくる
たかがお金、されどお金
お金が心にもたらす影響は大きい
・・・が、息子の心が元気なのは、決してお金の問題だけではない

今までにも書いてきたように
息子はこの会社の経営方針を気にいり
ここで自分も役に立ちたいと思って入社している
入社研修時から新入社員のリーダー格に抜擢されたが
院卒の息子は同期の中では年齢も上なので
特に問題なく自然に受け入れられ
早い段階で資格を取得して現場でどんどん働き
掃除から事務作業まで
色んな業務を器用にこなす便利な人間としての実績を積み
他にも様々な重要な場面で用いられてきた
入社してからの2年間は、とても濃い日々だったと思う

そんな彼のがんばりは、自分の努力だけによるものではなく
周りの人々のサポートや励ましがあってこそのもの
彼の上司や先輩が色んな場面で自分の失敗談を話してくれるなど
新しい人材を育てることに熱心で
息子のいいところをいつも認めてくれることも
同期がそれぞれ協力的であることも
わたしは彼からよくその類の話を聞き、本当に感謝している
もちろんすべての人と気が合うわけじゃないにしても
「人間は60億人もいるんだよ、考え方や感じ方が違う人もいっぱいいて当然」と言い
衝突しないように上手くやっているらしい
なお、上手くやるというのは、相手の言いなりになることではなく
そこには知恵が必要になるが
基本的に息子は人間を恐れていないので
ずるずると相手のペースに引き込まれることがない
ここは夫とよく似ている
もし彼が人間を恐れるタイプだったら
無理な仕事も抱え込み、いつもアップアップするようになるだろう

息子には、昔も今も彼を認めてくれる人が周りにいる
その安心感や自信は彼の心を元気にし
彼もまた周りのために働こうとする正の連鎖がそこにはある
彼が一生懸命やっていることはみな自分に与えられた能力の範囲のもので
自分の能力以外のもの(好きじゃないこと)
例えば苦手な営業には手を出そうとはしない
そんな感じで、人にいい顔をしようという気がないので自分に無理がなく
その分失敗も少なく
結果的にそれが信用につながっているのだと思う
息子の場合
子どものころから散々色んなことにチャレンジしてたくさん失敗もしてきたため
自分が何者かよく知っており
今さら自分探しをする必要はなく
自分にできることで効率よく仕事をこなしているわけだ
その様子を見ていると
彼にまだ何か他の可能性があるとしても
今はここでがんばれと神さまから言われているような気がする

こうして、自分の能力に応じて労力を提供し
その代わり、信用と共に、認められているとの安心感を受け取る
この「与えること」と「受け取ること」のバランスがとれている状態は
人間の心に平安をもたらしてくれる
とはいえ
現実には、このバランスを保つことはかなり難しいかもしれない

日本に昔からある「根性主義」は今も生きていて
自分の力量を知らない人はこれにハマり
やる気になれば何でもできると勘違いして
自らたくさんの仕事を抱え込み
他の人に仕事を振り分けることをしない傾向がある
たくさんの仕事をこなせば自分の評価は上がり
期待にこたえられた自分を一時的に誇ることもできるが
気がつけば何でもやって当たり前の人として見られ
周りの人から適当に使われるばかり・・・と
「与えるばかりの人」になって行く時
人の心はだんだん空虚になっていく

 「自分を愛するように、あなたのとなり人を愛せよ」
           (マルコによる福音書12章31節)


この聖書の言葉は有名なので、クリスチャンでなくても知っている人は多いが
「隣人を愛せよ」の方に重点が置かれ
「自分を愛するように」との言葉は、あいまいにされているように思う

人間が自分を愛することは当然のことで
いざという時に自分の身をかばおうとするのは人間の性(さが)というもの
それを無理して自分をいつも我慢させ、自分自身を愛せない人は
人を愛する愛し方もわからない
そのため「与えるばかりの人」は、それが愛だと思って
実は相手のためにならないことをやっている場合がある
反対に、自分しか愛さない「受け取るばかりの人」は
相手を利用することしか考えないので
そこに神の愛を知っていくべきことをここでは教えているわけだ

聖書は、あくまでも人間は弱い者(罪人)であることが前提なので
いかにも清い人であるかのような
「与えるばかりの人」になるよう勧めているわけではなく
「お互いに愛し合う」ことを何度も何度も教えているが
ここに人の考えが入ることで
厳しい修行や「精神修養」のような教えに変わっていき
こうしてキリスト教は多くの宗派に分かれていくのだった


(2015.2.19.)



<戻る