母が自家製ホウレンソウを使ってパンを焼いた
生葉をミキサーにかけて生地に練り込んだパンは
焼き上がりの色もきれいな若草色になり
パン自体に甘味がある
母の育てるホウレンソウは
サラダ用品種ではないが生で食べても苦味がないので
パンにも生で使用できて
母としても納得のいく出来栄えだった
今年になってからまた精力的にパンを焼くようになった母だが
こうして色んなパンを考えて作っているのは
もちろん食べてくれる人がいるからで
その「やりがい」が今の母を活性化させている
母は自分を大事にすることよりも
他の人のためになることを優先するのに慣れているタイプだ
というか
自分の事を優先することに罪悪感を感じると言った方がいいかもしれないが
この年代の特に女性には同じような傾向の人はかなりいると思われる
当時の社会の考え方や教育がそうだったからだろう
かと思えば
同じ年代でも、自己中心で人を使うことに慣れている人もあり
ここにも「与える人」と「受け取る人」のバランスの悪さが垣間見える
無理なのに自分で何とかしようとする人と
できるのに何でも甘えて人にさせる人
人間はどうしてこうも極端なのだろう、、、
母は15年前、うちに同居することになった時
何かとても罪悪感のようなものを感じていた
わたしの父が亡くなる前年に祖父(実父)を自宅で看取っており
それから25年後に祖母(実母)をやはり自宅で看取ったが
老親との同居がいかなるものかよく知っているだけに
同じ苦労をわたしばかりか夫にまでさせることを心配したからだ
確かに当時は
夫の両親と叔母の介護が終わってやっと家族が落ち着いたところで
そこに今度はわたしの母が来るというのは、わたし自身も気が引けた
だが、元々、母を引き取ることを勧めてくれたのは夫だった
その上、当時まだ小学生だった子どもたちが大喜びで母を迎え
夜は二人ともちゃっかりおばあちゃんの部屋に入り込んで寝るようになり
それによって母は
自分がこの家に居ていいんだと安心感を与えられることになる
そもそも母は、祖母が亡くなった後は
しばらく気ままなひとり暮らしをする予定だった
まだ60代で車も運転していたから
誰にも遠慮せず思うように過ごすのも楽しいだろうと思い
まあ同居は数年後かなと思っていたら
祖母が亡くなって翌日にはいきなり寂しくなって、夜には怖くなり
もうたまらなくなって夜だけうちに泊まりに来るようになる
それからはもう何かに背中を押されるように同居へと進み
なぜこんなに焦っているのかと不思議に思うほど
早々に自宅を処分して引っ越しを完了した10日後
芸予地震が起きてブロック塀は倒れ、家は住めなくなった
その時の驚きは今も忘れることはできない
こうして母は来るべくしてうちに来たと確信したのだった
あれから15年目を迎えた今
母もわたしも夫も年をとり
あの若さの勢いでがんばっていた介護時代とはまた状況は違ってきている
迷惑をかけたくないと願う母だが
80歳にもなれば、いつどうなっても不思議ではない
それでも、同じ苦労を知っているからこそ
これまでも、そしてこれからも母と暮らしていくことには
お互いに分かり合えている安心感がある
正直なところ
世の中には親の世話をせずにすむ人たちがいることを
不公平だと思った時代もあったから
その点では母とは同士でもあるわけだ
若い時代を費やした介護時代の思い出は
考えるほど恨みがましくなりがちだけど
それでも夫がいたから24時間介護が可能になり
その間、子どもたちは母と祖母の家で随分お世話になった
その感謝の思いは変わらない
そして
とても乗り越えられそうにもない所を乗り越えてきた経験が
これからもきっと何とかなるとの希望を与えてくれることが
何より有難いと思うのだ
「神は真実である
あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか
試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」
(コリント人への第一の手紙10章13節)
何とか迷惑をかけないようにと気負っていた日々が過ぎ
もう迷惑をかけても仕方がないとあきらめる年齢になってきた母は
本当の意味で「神さまにまかせる」ことを今学んでいる
何がいつまでできるかは自分では決められないことだけど
今はできることをしようよ
それも自分が楽しいと思うことを優先してやってみよう
母の心が元気であるために必要なことは
それでいいと信じること、それだけだ
(2015.2.20.)
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