いいかげんな話



<互いに愛するということ 3>

息子の仕事が繁忙期に入ると
出かける時間が早くなり
その分わたしは朝起きるのが辛くなっている
早起き人間の息子自身は全然苦じゃないらしいが
朝早く起きてお弁当を作るわたしに
「最近職場近くに安いお弁当の店を見つけたから
朝起きなくても大丈夫だよ」と言う
そのお弁当は300円前後でかなり量もあるというから驚きだ
でも、中味を聞けば、コロモの厚い揚げ物が中心で
まあどう考えても健康にいいとは思えない
だからなるべく手作り弁当を持たせたいと思いつつ
無理はしないことにしているので、その安い弁当に頼ることもあるし
手作りと言いながら冷凍食品も使っている
せっかく同居しているのだから
親としてはなるべく質の良い食事をさせたいとは思っても
外食には(中味は怪しくても)特有の美味しさがあるので
息子もそういうものを食べたくなる時もあるだろう

「今はすごく忙しいから、もう食べることだけが楽しみになっていくよね」
そう語る息子にとって
”質を追求した食事”は
行き過ぎると苦痛になることをわたしは知っている
この食品は体に良いらしい・・というキャッチフレーズのついたものは
彼は必ず疑いの目で見て
自分が食べたくなければ勧められても絶対に食べない
まあそれだけ世の中には怪しい情報やモノが
大量に出回っているということでもあるわけで、、

さて、今夜いよいよ娘は大切な本番を迎えるが
数日前から母が「玄米スープ」と、残った玄米のお粥を作りはじめた
それをはじめて食べた娘は
「何だか体に優しい感じがするね」と喜んで食べている
少なからず緊張している体が、こういうものを欲しているのだろう
その玄米がゆを息子にも(絶対食べないだろうと思いつつ)出してみたら
何と彼も美味しいといってお代わりまでした
忙しさのピークにいる体もまた
自然にそういうものを欲しているのだと思われる

わたし自身は学生時代から食に対する関心が高く
子どもの嫌う野菜等をいかにごまかして食べさせるかという研究をしたこともあるが
その一方で、自分がニンジン嫌いで、今でも丸飲みしないと食べられないことを思うと
そうまでしてイヤイヤ食べることに果してどれほどの意味があるのだろうと
今もってものすごく疑問だと思っている

「自分がされて嫌なことは人にしてはいけません」
小学生の頃には学校でいつもこう聞かされていたけれど
親になった自分が子どもに対してこれをどのように応用できるのか
そこには”互いに愛する”という気持ちが問われているように思う

人間にとって「食」とは 健康の元であると同時に、大きな楽しみでもある
健康重視になれば楽しみが減り
楽しみ重視になれば安全性が減るのは何とも悩ましい問題だが
人がしばしばそこで二極化してしまうのは
食する自分が、あるいは相手が、本当は何を求めているのか
そこに気持ちを至らせることが難しいからだろう

本人の本当の気持ち
心から心地良いと思うもの
この個人の好み(感性)というものは、本人にしかわからない
だから親であっても子どもの事は誰も何も知らないで当然なのだと思う
それでも、”何も知らない”ということを知っていれば
無理に自分の思いを通さず
自ずと相手の意思も尊重するようになる

昨夜、娘は大好物のカニを食べた
カニといっても缶詰だけど(298円)
いつ頃からか、これを”勝負カニ”と呼んで大切な舞台の前に食べるようになった
人は好きな物・美味しい物を食べるとやる気が出る
だから娘を励ますのはいつもコレだ
ちなみに初めのうちは258円の一番小さな缶詰だったので
今は少し出世したらしい(笑)
また、夫は娘が出かける前に栄養ドリンクを渡していた
これもいつの間にか習慣になっている

お互いの間には大げさなものは必要なくて
いつも嬉しく思うのはその心だ
今夜はきっといい舞台になるだろう。。


(2015.3.5.)



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