人生の分岐点
<15.天からの贈り物>
わたしと夫は
お互いのことをほとんど知ることもなく結婚にいたっているので
結婚当初は夫のやっていることが何でも新鮮に見えて
素直に「面白いなあ」と思うことがたくさんあった
何が一番面白いといって
たくさんの趣味(機械もの関係とか釣りとか)を持っている上
プロ並みと思えるほどに自分で研究し、技術を磨いているところだ
本人も「仕事を間違えてるんじゃないかと思うことがある」と苦笑するくらい
たとえばカメラを例に挙げれば
小さなネジ1本までバラバラにして組み上げるあの細かい作業に没頭する様子は
見ている方には気が遠くなるような作業なのに
本人実に楽しそうで活き活きしている
また「このシャッター音が素晴らしい」といいながら
何度も空シャッターをバシャバシャきりながら音を楽しんでいる様は
全くのカメラ音痴(機械音痴)のわたしには未知の世界だった
でも、その楽しそうな様子を見ているだけでわたしも楽しくなったので
感動は共有は出来なくても伝染するのかなあと思ったものだ
更に、カメラを分解するための特殊な工具まで自分で作っていて
「市販品を買ったら高いんだよ」と満足げに自作工具で作業する
昔から何でも修理して何でも工夫して作る
いや、もちろん何でもできるわけじゃあないけれど
とりあえず「何でもやってみよう」というスタンスなのだ
こうして、自分に与えられた中で最大限に楽しみを模索していく夫を
わたしはただ感心して眺めていた
決して無理も無茶もしない
でも、どこまでも夢は捨てないその姿勢は
裏返しの現実の厳しさと戦う力でもあった
夫と一緒にいると
いつの間にかこちらもつられて何かやりたくなってきた
18歳の時
『失敗のない人生は自分で作るものだと考え
無難に生きればきっと幸せになれると信じた』
その「無難」の意味は、考えてみれば非常にあいまいで
それを手っ取り早く「趣味=遊び・楽しみ=欲望」と単純に結び付けて
はしから好きなものを捨ててしまったことが間違いをもたらした
つまりは
「感動(ロマン)」と「欲望」の意味をごちゃまぜにしていて
天から与えられる自然な感動まで
変な罪悪感で遠ざけようとしていたのだと思う
これは表向きのストイックなかっこよさを演じるいわば偽善者というヤツだ
一体誰に向けてかっこうつけているのだろうか
よく考えてみると
わたしは漠然と実体のない人を恐れ、人に遠慮し
常に「人がどう思うか」を優先してしまっていたようだ
気がつけば自分のためではなく、人のために一生懸命生きている自分がいる
一体誰のための人生なのだろう
そう省みる間もなく
ずるずると引きずられていく心をコントロールするのは
自分の力では難しい
そんな折
介護時代の真っ只中、娘が保育園に入園する時
ふと入園式に着せるワンピースを作ろうと思いたった
まだ2歳だった娘には息子の「おさがり」ばかり着せていたから
入園式くらいは可愛くさせてやりたいと思う親心で
見よう見まねの服作りがスタートした
これが意外にも自分の中で大ヒットとなり
ついでにスカートも、ズボンも、ブラウスも、スモックも・・と
だいたい夜11時から作業を開始し、3時ごろまで没頭する日々が続く
今なら無理と思えるこの睡眠時間も
若さの特権でなんともなかった
介護に明け暮れるどんよりした日々がこれで一気に活気付く
服作りにはまった理由は
もちろん自分で可愛い服が作れる楽しみにあったのだが
それと同時に燃えたのは「価格挑戦」だった
小さな子どもの場合、一枚200円のハギレ布が立派な服に化ける
最小限の資金で最大限の効果を上げる試みは
実験屋の心を大いに刺激したのだ
それまで
節約生活とは、ただ単にお金を使わないことで
失うことを恐れるばかりだと思っていたのが
同じお金でも使い方次第で化けることを実感し
やがてこれが多方面に波及していくこととなる
お金の話をするのはあまり好きではないのだが
この綱渡りのような生活の中で節約が必須なのは当然のこと
漠然と不安感の中で暮らすよりも
とりあえず「何でもやってみよう」というのが
だんだんわたしのスタンスにもなっていく
「ないものねだり」をするよりも
自分の持ち味が更に大きく化けるようにと
そんな願いをこめて・・・
そのうち娘は保育園で先生たちから
「お母さんの手作りの服を着れるなんて幸せよね」と言われるようになり
当時のうちの状況は色々と複雑であったにも関わらず
娘は素直に自分を「幸せな子ども」だと思うようになった
わたしとしては、最初はただ必要に迫られて
更には、わくわくした衝動に動かされるように進めてきた服作り
決して人に誉められるためでもなんでもなかったが
結果的にはたくさんのオマケがついてきた
この結果を見る限り、感動は天からの贈り物で
生きる力を与えてくれるものなのだと思う
こうして、少しずつ自分に与えられた感動を追いかけながら
次はもっと自由に、昔持っていた趣味の世界へも戻ってきた
それに伴い、ネットを始めたばかりの頃は洋楽サイトでたくさんの人々と出会い
さっぱりわからなかったパソコンのことなども本当に親切に教えてもらった
それがなければ自分のサイトを立ち上げることはなかったかもしれない
そして、自分のサイトを持つようになってからは
たくさんのバラ友に出会った
しかもわたしと同じようにそれぞれのこだわりをもった人ばかりで
各人のバラに注ぐ熱意
またそれに比例するようにまっすぐ前を向いて生きる姿勢には
教えられることや励まされることが多かった
また
思いがけずもらったたくさんの親切や更なる感動を原動力に
教会サイトと信用して心を打ち明ける人々に対しても
精一杯の対応をさせてもらうことができた
今の自分が幸せだからこそ、多くの人に幸せになってもらいたい
心からそう思えるようになった自分が今は素直に嬉しい
一時はすっかり人嫌いになっていたわたしだが
いつの間にか人を恐れることもなくなってきた
わたしと違って、全然人を恐れず
常に自分の信念とロマンで生きている夫に
最近はだいぶ追いついてきた気がする
いや、そうでなくては生きてこれなかった夫の心情が
やっとわかってきたというべきかもしれない
昨日57歳の誕生日を迎えた夫は
年とともに持病の数が両手の指ほどに増えて
あれでよく平然としていられるものだと感心するが
時々しれっとして言うのだ
「死ぬときは死ぬ」
以前はそう言われるとこちらがどきどきしていたけれど
今はかえって前向きな言葉にも聞こえてくる
言い換えれば
「死ぬまでは生きる」
そういうことだ
今日一日生きる力が与えられればそれで感謝
戦争時代を通り
全く目が見えない上に脳血管疾患で最後は寝たきりになりながらも
「いい人生だった」
そう言い残して天国へ行った夫の両親のことを思い出しながら
境遇が人を不幸にするのでもなければ
お金で幸せが買えるわけでもないことをしみじみ思う
学生時代のわたしの夢は実験屋を職とすることだった
それは当時考えていた形とは違ったが
結局わたしの人生は自身を材料に人生を丸ごと実験しているようなものだ
自分のやっていることが正しいのかそうでないのか
嫌でも結果は現れてきた
それを真摯に受け止め、悔い改めることができるかどうかが人生の分かれ道
時には、今までやってきたことを
すべて間違いだったと認めなくてはならない事もあるかもしれない
一時的には辛いけれど、そこから新しい歩みが始まる
昨年から書き続けてきたこの『人生の分岐点シリーズ』は
わたしが5年間のうちに書いてきたことの集大成みたいなもので
子どもたちに残す遺言でもある
時代はだんだん混沌としてきており
親の世代とはまた違った種類の試練がやってくるだろう
しかし、どんな時代になろうとも、そこで強く生きていくために
「捨てるべきもの」と「守るべきもの」の基本は変わらない
親の世代が経験した同じことはもう経験する必要はなく
その上に積み重ねていけばいいのだ
人生最大の敵は自分の心
傲慢にならず、卑屈にもならず、自分の「分」に忠実に生き
神を畏れ、天から与えられる恵みに感謝し
その与えられた感動を社会に還元しながら
人生を楽しんで生きて欲しいと思う
(2008.4.2.)
<完>
<戻る