無限の可能性


今年もまた入試シーズンがやってきた
来年の今ごろ
うちでは2人の子ども達が同時に受験をむかえるが
それぞれにふさわしい道が開かれますようにと
親は祈るのみ。。

今の”センター試験”の前身である”共通一次”が始まったのが
ちょうどわたしが高2の時
5教科7科目という必須科目の多さは
社会がとんでもなく苦手なわたしには過酷なことだった

社会科と名のつくものは
歴史だろうが地理だろうが全部ダメ
とにかく全く興味がわかないので
覚えようとする意欲もさらさらわいてはこない
そんな社会科オンチのわたしが選択したのが日本史と世界史で
今考えれば最も無謀な選択だったとつくづく思う

それでも世の中では
人間には「無限の可能性」があると言われ
嫌いだと言ってやらないからできないのであって
やればできるんじゃないかとの希望もあった

折りしも友人が一緒に社会の勉強をしようというので
心機一転とにかく毎日歴史を覚えようと努力する日々がスタートしたのが
ちょうど高3の夏休み明け頃だっただろうか
共通一次が近づくにつれて
歴史の勉強ために最終的には毎日6時間をさき
これだけ勉強して点が取れなかったらもうどうしようもないと
変な自負心のようなものまで持って臨んだ本番は
結果的には惨敗だった

「無限の可能性」も「才能の壁」には太刀打ちできないのか、、、?!
多分それまでこんなに一生懸命勉強したことがなかったであろうわたしは
自分にはやはり社会科の才能が欠如していると実感
それでも
幸い他の科目が思った以上に取れていたので
受験そのものには影響はなかった

また
仮にその時影響があったとしても
わたしの人生そのものにはあまり関係なかったかもしれないと
今の生活を見ながらそう感じるのだ
たまに昔の友人に会って話をすると
みんな一様にいうのは
「結局、どの学校へ行ったとか、どんな会社に就職したかよりも
今どう生きているかが世間の評価の対象だよね」
ということ
「だけど、いざ子どものこととなるとどうするか悩むよねぇ・・」
というのも正直な気持ちだ

テレビでスポーツ選手が頑張っている姿を見ると
誰でも頑張ればあのようになれる錯覚に陥りそうになるけれど
現実にはそこに生まれつき備わった資質というものが必要となる
もちろん同時に並々ならぬ努力をも要するわけだが
努力する意欲がわくのも
その人がスポーツに向いているからということもあるだろう

スポーツのみならず
あらゆる分野において
有名無名に関わらず”光っている人”というのは
もちろん大変な努力がある一方で
持っている資質にふさわしい場所
”はまるべきところ”にはまっていると言えるのかもしれない

と言うのも
多くの”光っている人”というのは
ただ認められたいから頑張っているというわけではなく
好きなことを一生懸命やっていることで
いつの間にか認められるようになったという人が少なくない
好きだからこそ頑張れるし成果も上がる
もし趣味が一生の仕事になるなら
その人は最も幸せな人だ

こうして「挑戦」の名のもと
自ら進んで挑む試練がある一方で
一生の間には誰もが通るであろう共通の試練というものもあり
それがやってきた時には
対応する姿勢はそれぞれ人によって異なるだろう
わたしが自分に当てはめて考えるに
突然降りかかる困難に対して
人のとる道は大きく分けて3つ
「逃げる」か
「立ち向かう」か
「流される」かだ

息子が生まれる前の年
義父の叔母(当時82歳)が認知症になった
離れに住んで、いつも自分のことは自分でやっていたが
その日は突然やってきたのだ

この叔母を誰が世話するのだろう・・
義父母は目が見えないから無理だ
生まれつき耳も口も不自由で
なおかつ白内障で目も見えなくなった人を一体どうする?!
いや、どうするって
結局夫とわたしが看るしかないのだ
嫌でも道はそれしかない

こんなこと
できることなら「逃げる」道を選びたいに決まっている
でもダメなら気持ちを変えて「立ち向かう」のか?!
いやいや、そんな立派な気持ちになれるわけがない
わたしがとるのは
そう、仕方なく「流される」道だった

わたしはサイトの中でかなりいろいろなことを書いてはいるが
12年間の介護時代のことについては
あまり積極的に書く気になれない
というのも
これほど暗く、悲惨で、心身ともに追い詰められた時代はなく
そこにあったひとつひとつの記憶を呼び起こすことそのものが
わたしにとってはかなり苦痛でもあるからだ

叔母を介護するに当たって
最もショッキングな思い出といえば
ある朝起きて
いつものように一番に叔母の部屋へ行ってみると
畳2枚に渡って叔母が
自分の排泄物を塗り広げている姿を見たことだろう

介護には汚い仕事がつきものだ
毎日のように寝巻きはびしょびしょになっているし
便秘になればゴム手袋をして”発掘作業”もしなくてはならない
他にもいろんな場面があったし
その頃はかなり慣れてきていたとはいえ
あまりの凄まじい光景に呆然と立ち尽くすわたし・・・

それでも
とるべき道はひとつしかない
とにかく全身汚物まみれの叔母を抱えて風呂場に連れて行き
きれいに洗わなくてはならないのだ
覚悟を決めるまでに時間はそうかからなかった
だって道はもうそれしかないのだから

三重苦の叔母は自分の状況がわからず
わたしが抱えようとすると暴れて汚れた手を振り回した
頼むからその手で髪の毛をつかまないで!との願いも空しく
わたし自身もあちこちベタベタと悲惨な状態になりながら格闘

その後、同じようなことがあった時には
今度は夫が後始末をしてくれたが
やはり叔母が大暴れをするので大変な目にあっている
たとえ汚れていても
大人しくしてくれさえすれば被害は最小限で食い止めることも出来るが
昔から百姓で足腰鍛えた叔母は
信じられないほどの力をみせるものだから
毎日の戦いは困難を極めた

それでも
介護というのは面白いもので
始めのうちは”死んでも出来ない”と思っていたことでも
仕方なく経験を積むうちに
何でも”死ぬ気でできる”ようになっていく
これは自分に身体的な問題がない限り誰にでも出来ることだが
多くの人が「できない」というのは
誰もが「やりたくない」からで
もちろんわたしもそのひとり
だから
今も人の「やりたくない」という話を聞けば
それは当然のことだと思う
しかし
はじめは到底考えられなかったことでも
こうして出来るようになる事実を思うと
無限の可能性というものはこの辺にあるのではないだろうか
つまり
これは学力や技能を磨く問題とは別に
精神を磨く意味での可能性だが
人はもっとずっと強くなって生きる可能性を
誰もが持っているのだと思う

介護時代の経験は
幼かった子ども達にも少なからぬ影響を与えた

男女平等(場合によっては女性が上かも?!)の時代になって
亭主関白とか男尊女卑とか年功序列などといった言葉は
すっかり死語になったと思えるが
父親の絶対権力というものが
うちの家庭には根強く受け継がれている

義父は非常に厳格で
家庭の中では一番の絶対者だった
義父の前では不用意な発言は許されず
いつも独特の緊張感の中ですごす日々だったが
何があっても義母も夫も何も文句を言わず
もちろんわたしも何も言えず
すべてのことは義父が優先で第一
どんなことがあっても
子ども達には絶対に義父の悪口を誰も言わなかったし
夫婦といえど
子ども達の前でお互いの中傷は絶対にしなかった
そんな様子を見て
子ども達は義父を非常に偉い人だと思い
父親もまた同様に尊敬の対象として大きくなった
こうして子ども達は家庭にあって
社会の厳しい上下関係を自然に学んでいったのだった

そんな中で
目が見えない上に体に麻痺も抱える義父は
年とともにトイレが間に合わなくなることも多くなったが
家の中でどんな惨状があろうとも
子ども達は暗黙の了解のうちに騒がなかった
騒ぐと義父が自分の失敗を気にする
だから誰も気がつかないふりをして
そっと汚れたところを後始末するのだ

やがて脳梗塞をおこした義母も同様になり
我が家は当時まず足元や周囲をしっかり確認してからでないと
うっかり歩けない
どこにも触れない
まったくスリリングな状態だった

そして
義父が脳内出血で倒れた後は
状況はますますひどくなっていった
食事のたびにひどくむせるようになると
なぜか隣で食事をしている息子に向かって義父は咳をした
多分、前に座っている人に配慮しているつもりだったのだろう
そのため息子の茶碗には義父の口から飛んだ物体が入り
あるいは頭の上からしぶきを浴びることもあった

思わず息子に指で「黙れ」のサインを送るわたし
何ともいえない顔をして固まっている息子
その様子を無言で見つめる娘
仕方ないなあという顔で声を出さずに苦笑している夫
何事もなかったかのように
その場は過ぎていく・・・

何か驚くようなことがあっても
とにかく大きな声で騒いではならない
うっ、と息を殺してでもまずは冷静に・・と
無言の教育は続いた

多分そのせいだろう
子ども達は知らないうちに場の雰囲気を読むことを覚え
今自分の率直な思いをここで述べても良いか悪いかを
瞬時に判断するようになっていた
わたしの知っている限りにおいては
彼らには失言がほとんどない
冗談は大好きなので
友達の前や許される場では大いに可笑しな話もする一方
気を使う場では
無難にやり過ごす術も心得ている

義母が亡くなった平成7年4月には
息子は6歳、娘は3歳で
ふたりとも火葬場で義母が骨になった光景を見た
息子の場合はわたしの祖母の葬儀の時すでに骨を見ていたが
娘には初めてのことで
ショックというよりも驚いた様子だった

若い時には盛んでも
人は老いて、あるいは病気になり
やがて死んで骨になる
その当たり前で厳粛な現実を
子ども達は幼い時から目の当たりにしてきた
彼らにとっては
ゲームの世界では人は死んでも生き返るが
それを現実と混同することなどまずありえない

思い出したくない介護の日々
でも
もしあれがなければ今わたしたちはどうしているだろう
子ども達はどんな風になっているだろうか
若い時だからできることもあったし
何もわからない幼い頃からだからこそ
従うこともさほど苦痛ではなかったのかもしれない
また
小さな子どもは人と比べる機会が少なく
自分の生活にあることは
すべて普通のこととして受け入れやすいとも思う

豊かなこの国にあっては
子ども達はみな大切に育てられているけれど
世界中には貧困のどん底に生きる子ども達もいて
その必死に生きる様子をTVで見るたびにわたしは考える

自分の思い通りにならなければすぐに
「心が傷ついた」とか
「自分の存在を否定された気がする」などの言葉を
子どもでも大人でも簡単に発する人があるが
そういう言葉を使うこと自体
本当に悲惨な身の上に深く傷つき
世の中から全く見捨てられたような状態になっている人に対して
ちょっと失礼なのではないか、、

多くの人は子どもの心を傷つきやすいと言うけれど
それは鍛える機会が非常に少ないからで
更に腫れ物に触るようにその機会を奪っていくなら
いつしか子どもはその待遇が普通なのだと思うようになる
つまり自分の心が未熟なことに気づかず
思うように行かなければ荒れ
上手くいかないことを
親や環境のせいにするようになるのだ

不遇な時代を生きた人と出会うと
その人は辛い出来事によって
一生ものの財産を得ていると感じることがよくある
一方
何不自由ない生活の中では
その生活が幸せである実感よりも
むしろ失われる不安感の方が大きいものだ
そこには感謝の気持ちはなかなかわいてこないで
いつも何か足らない・・・と思い
普通の人よりかえって不安になることもある

だから
もし不遇な時代を過ごした人があるなら
その人は無限の可能性を得る機会を得たのであり
それが現在の自分のベースとなっていることを考え
親や境遇を恨まないで欲しい
一時期はそれで深く傷ついたかもしれないが
その時代を生きることで身に付けた強さや優しさは
生涯の宝なのだから

また
残念ながら強くなる機会を逃してきた人は
今一度良く考えてみて欲しい
あなたは誰よりも幸せなのに
その幸せを知らないかもしれない
そう
目の前の幸せが失われないうちに
今ならまだ間に合う。。


(2006年1月19日記)


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