親子の絆
『母原病』という本が出た1991年に
わたしは第二子である娘を出産した
母親の間違った育児が問題児を作り出すというその内容には
これはまた母親にとって手厳しい本が出たもんだと
当時感じていたのを覚えている
1988年生まれの息子と共に二人の子どもを育てるにあたり
親の心の迷いや悩みがそのまま子どもに影響すること
焦るほどに子どもは意固地になり
理屈どおりにはいかないのだということ
流行のように変わる子育て情報などに頼っていてはとんでもない
ということなど
子どもたちの成長過程を通してつくづく実感してきた
『母原病』と名づけられたのは
ほとんどの場合育児は母親が担当するのが常識とされた時代だからだが
あれから10数年を経た現在では
父親が育児に参加する率が急上昇しており
そういう意味では
むしろ『親原病』と題を変えたほうがいいかもしれない
わたしは自分の子どもが生まれた時
親というものは
自分の子どもと他人の子どもを比べるものだと知った
産院で同じ時に生まれても
あの子は大きいけれどうちの子は・・・と
ここですでに比較は始まっている
人間はみなプライドというものを持っているが
その程度については個人個人で異なる
そして
当然のことながらプライドが高い人ほど
自分の子どもは他人よりも勝っていて欲しいと強く思う
赤ちゃん時代の体格比べに始まり
引き続き
運動能力、言語能力、技術能力へと注目するところは移り変わるが
学校へ入ると
それが点数に表されてくる分なかなか辛いものとなってくる
そういう親のプライドは
子どものプライドとして刷り込まれる事実を
わたしはこれまでにも色々見て来たが
親自身にも実は持っているプライドほどの実績がないにも関わらず
過去を封印して子どもに期待するケースが後をたたない
そして子どもは
親の期待を込めたある意味脅迫じみた励ましにより
自分は「できる子」と思い込むようになる
この仮想がやがて夢破れる時
問題は発生する
子どもは本心では親の期待を非常に負担と感じているが
それを拒否すると
何か親子の間が切れてしまうような気がして
なるべく期待に添おうとする
そのうち
自分でも自分に期待するようになり
知らないうちに心の中に育っている
プライドの高さから来る特有の雰囲気が
周りから敬遠される場合もある
これはしばしば「いじめ」と混同されるが
理由なき本物のいじめにあっている人から見れば
「いじめられる側にも問題がある」といわれ
迷惑な話かもしれない
常に人を意識し
「わたしは他の人とは違う」というプライドを持っていると
まず好感をもたれることがない
学校での人気者とは
たいていがバカ丸出しでも平気なタイプで
自分のできるところはひけらかさない
余計なプライドを持たないことの幸いを知る人は
多分その親もそういう生き方をしているのだろうと思う
わたしは育児の苦手な母親だ
だが、はじめからそれを悪い事とは思っていなかった
なぜなら
わたしの母親は昔からずっと「自分は子育てが嫌いだった」と話していて
だからといってわたしは母からちゃんと育ててもらったと思っているし
立派な母親でなくても
自分なりにやることをやっていればいい
そうすれば自分に見合った子どもが育つ
そう実感してきたから
親が子に対して
自分のさまざまな心情を話すことは
子どもの人生にとって大きなプラスになる
子どもは必ず親と似たところを持っていて
親はどんな有名な教育評論家よりも
子どもにとってためになる事を教えてくれる
いや
教えなくてはならないのだ
例えそれが恥しい話であっても
親から暴力をふるわれた子どもは
やがて自分が親になった時
同様に子どもに対して暴力をふるうようになると
いわゆる「連鎖」について恐れを抱く話を聞くことがある
果たして人間の中には暴力という遺伝子が存在するのだろうか
そしてそれは親から子へと遺伝するのだろうか
もしそのようなことがあるのなら
その人はこの世で最も哀れな人だ
だが実際のところは
遺伝するのは暴力という因子ではなく
暴力という形でしか自分を表せない弱さ
つまり
強がっている裏に潜むどうしようもない不安感や
悲しい事も悲しいといえない強情な性格
そういった自分では目をつぶりたくなるような真実の姿が
そのまま子どもへと受け継がれていくのではないだろうか
そうであるならば
これは運命の連鎖ではなく
断ち切ることができる連鎖だ
暴力をふるう原因となった事柄はなんだろうか
案外つまらないことではないか
そんな小さな事にも腹を立てる自分はなんと小さな人間か
それを誰かに話せたらどんなに楽になることだろう
しかし
それをさせないプライドが
常に自分を苦しめている
生まれた時から人と比較され
親の期待を背負って生きる子ども達
自分が親になったら
子どもには絶対に辛い思いはさせたくない
そう思っていたのに
気がついてみれば同じことをやっている
結局
親が自分の弱さを語り
いかにその弱さと戦っていくのかを教えていなければ
子どもは誰からもそれを教わる機会がなく迷う者となる
好むと好まざるとによらず
子どもは恐ろしいほど親に似ているのだから
その心情は親でないと伝わらないものがあり
それを放棄すれば子どもは何もわからないまま
自分で孤独に戦うしかない
子どものためなら
必要に応じてどんな恥でも話してやろう
それが究極の親の愛というものではないか
不幸にして自分は親から何も教えてもらえなかったとしても
自分が自分の子どもに教えることはできる
不幸な連鎖を終わりにするには
プライドの連鎖を断ち切ること
わたし自身もまた
心の奥には捨て切れないプライドがあり
子どもたちにまだまだ多くを語らなくてはならないと思っている
(2004年記)
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