良心の呵責
12年に及ぶ介護生活が終わってからちょうど10年が過ぎた
3名の自宅介護を通して経験したことは今も記憶から消えることはなく
そのほとんどは良い思い出ではない
だが、わたしがそういう経験をしていると知っている人からは
経験談を求められることもあり
そういう場合は極力正直に、単刀直入に話をすることにしている
過去に介護を経験した人も、現在進行形の人も
“聞きたい内容”は共通していて
一番多いのは
「介護をしていて悔いることはなかったか」というものだろう
つまり、自分では一生懸命やっているつもりでも
あるいは、そういう気持ちはあっても
必ずしも冷静で適切な行動が伴うわけではない
「もっとああしておいたらよかった」と、悔恨の日々を送るのは辛いものだ
介護という責務を負うだけでも十分辛いのに
良心の呵責まで背負わなくてはならないこの苦しみを誰かに聞いて欲しい
そして、どうすればこの苦しみから解放されるのか教えて欲しい
そんな思いで暮らしている人々がある
この質問をされた時、わたしの答えはいつも決まっている
「悔いることは何もありません」
すると、必ずこういわれる
「よほど一生懸命尽くされたのですね」
そして、それにはこう答える
「どんな状況になろうとも、(自分自身も含めて)誰も殺すことはなかった。
だからそれで十分です」
このわたしの答えには、少なからず相手は驚きの表情を見せる
こんなことを言うと誤解されるかもしれないことはわかっているが
これが介護生活の究極の現実なのだということ
それを美しく飾ろうとすることがむしろ自分を苦しめるのだということを
まず知ってもらいたいのだ
人の世話をする立場になった時
一体どこまでやれば使命を果したといえるのか
その基準は人によって異なり
それぞれの持っている良心が行動の基本になる
だが、残念ながら人間は良心のとおりに行動するのは難しい
ならば、良心の許す最低限の範囲だけでもキープしたい
そこだけはどうしても割ってはならないぎりぎり最低のライン
それが「殺してはならない」というもの
自分に課する基準が
人間として取り返しのつかないところだけは絶対に越えないとの最低なものであれば
ほとんどの介護者の心は救われる
だが
「自分はそんな最低な人間じゃない!」
そうこだわりたい人もあるだろう
わたしも自分をそういう風には思いたくなかったが
思わなければ12年も続けられなかっただろうし
今こうして平安に過している日々もなかっただろう
少なからず自分に失望し、やがてあきらめる
その過程は必然だった
自分を最低の所まで落として考えることは
切羽詰った経験をしなくてはなかなかあるものではなく
そういう意味で、わたしにとって介護は必要な経験だったと思う
特に、記憶障害や異常行動が伴う人の介護は容易ではなく
その人が病気になる前はどんなに良い人であったとしても
症状が出た段階から「別人」になってしまうのが悲しい
相手の尊厳を保つことと、自分の忍耐力のバランスはいつも不安定だ
この苦境にあって、心の支えとなり、一方では、足かせにもなるのが
過去に相手からどれほどの愛を受けてきたかという経緯だろう
多くの愛を得て
それに答えるだけの愛をもって接したいとの思いは善意の行動を促進させる
だが、誠意はあるのに行動が限界を超えてしまった時には
良心の呵責に悩むことになる
たとえ恩返しをしたいという純粋な思いがあっても
「別人」相手ではどうしようもない時もある
そして
これが、過去に愛を得られなかった相手の場合は更に難しい
『モーセの十戒』の5番目には“汝の父母を敬え”と記されているが
これは世の東西、宗教の如何を問わず、万国共通、人間として必要な良心だ
だが、単純に“父母”といっても
敬われるに足りる人格や過去を持った人だけが親になっているわけではない
自分の身勝手で家庭を乱し、暴力をふるい、子どもを虐待する
更には自分の心の不安定を子どもにも押し付け
自分が不幸なのに子どもが勝手に幸せになるのは許さないとばかり
共に地獄へ引きずり込むほどの勢いで、その子の将来をも不幸に陥れようとする
そんな親が実際に存在している
そして、彼らもやがて年をとり、介護が必要な状態になった時
虐待を受けた子どもはどうすればいいのだろうか
単純に考えれば、これこそ自業自得
そんな身勝手な親の世話など当然しなくても良さそうなものだと思う
しかし、こういう子どもほど過去に受けた少ない愛情を探り出し
その愛にそむこうとしている自分を責める傾向がある
過去に辛い経験がある人は、辛い立場になっている人を見捨てられない
ましてや、どんな親でも自分の親だ
そこが落とし穴でもある
こうして、利用される人はどこまでもずるずると利用されてしまう
弱い人はとことんつけこまれる
そんな人に出す答えは「逃げなさい」あるいは「極力距離を置くこと」
その理由は「殺さないため」だ
それは相手のみならず、自らも死に至らしめる危険性をも示唆している
“汝の父母を敬え”
その良心の呵責のために行動して、もし殺すことになったらすべては終わりだ
自分の良心を決して過信してはならない
切羽詰った人は良い人のままではいられないことを
まず心に刻んでおくことが大切だ
そして、最低限のラインだけは死守する
正常な親子関係の場合には
愛情に愛情で報いようとするのが人間の良心というものだろう
しかし、そうでない場合には
憎しみに対して愛情で答えることは不可能に等しい
もしできると信じるならばそれは偽善だ
そして、その答えがいずれ出る
出た後ではもう遅すぎる
相手から逃げた(距離を置いた)ことによる良心の呵責は
長年持ち続けている憎悪や恨みと混ぜ合わせることによって相殺したい
これによって過去の負の感情を冷静に清算するのだ
決して復讐ではなく
いずれ相手を許すことができるようになるためにそうする
親がなぜ自分を愛さなかったのか
そこには本当に愛はなかったのだろうか
心に余裕ができれば真実がわかる時もくるだろう
子どもを虐待する親は
自らも虐待されて育っている人がかなりあるという
自ら被害者でありながら
どうしてそれが連鎖してしまうのだろうか
それは、理由がわからないまま放置してしまうからだと思う
相手を理解することは、相手を許すことでもある
そこから本当の意味で“汝の父母を敬え”も可能になる
そうなった時、負の感情はもう連鎖しないのではないだろうか
だが、心の奥で憎しみや恨みを抱えたままでは
いつかその感情が爆発してしまうかもしれない
『モーセの十戒』において
“汝の父母を敬え”の次に続くのは “汝殺すなかれ”だが
人間に課される良心は
本来そんなに高度なものを要求されてはいないような気がする
というよりも
高度なものには答えきれないというべきか
良心と偽善は常に隣り合わせの関係にあり
良心とは正直なものであるが
自分の心に偽った良心は偽善だ
となれば自分の心に正直に、今の自分にできる範囲で物事を考える
決して最低限のラインを割らないことを心に課し
過去を清算しながら前を向いて進んでいきたい
(2008.11.12)
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