障害と向き合う
夫の両親は二人とも光もわからない完全な視力障害者で
盲学校に在学中に知り合って結婚した
今でこそこういうケースには周りから温かい目が向けられ
整った社会制度の中で
ある程度安定した暮らしもできるようになっているけれど
まだ戦後の混乱期にある昭和23年当時は
障害者同士の結婚など全くの無謀でしかなかった
夫は昭和26年に長男として誕生しているが
その前には姉が生まれてすぐに亡くなっていた
後になって思うと
その時ちょっとした処置がなされていれば
その子は生きていたかもしれないという
しかし
当時家は貧しくて
出産に必要なものも満足にそろえることができない状態で
ましてや育てることは難しかっただろう
その子が亡くなってすぐに義父は言った
「これで良かったのだ」と
その後
夫が生まれる頃には暮らしは少し良くなっていた
近所の同じ年代の子どもを持つ人たちが
自分の子どもと一緒に夫を遊びに連れて行ってくれたり
目の見えない親のできないところは
周りの人々の愛が支えとなった
一方、学校では
「めくらの子」とからかわれることなど
いじめられる経験も少なくはなかった
また
学校の工作教材など当時はみんな同じキットというものがなく
親に材料を用意してもらわなくてはならない場合も多々あり
元々親に頼みにくい事柄は黙っている性格だったので
工作の時間に自分だけ材料が無くて
ただ友達が作っているのを見ていることもよくあった
現在のように
『障害』という言葉を使うことさえ神経過敏になっている時代と違い
ハンディーから来る風をモロに受けなくてはならなかった時代には
こうして冷たい風も吹いてくれば
反面、人の心からの暖かさを体験することもあった
夫は牧師になってしばらくした頃
「両親が障害者という家庭に生まれてなぜグレなかったのか」
と、質問されたことがあるという
確かに、昔も今も
自分のおかれた環境のせいでグレる子どもはたくさんいる
同じような境遇にあっても
ある人は普通に生き、ある人は曲がっていくのはなぜなのか
それは率直な疑問だった
夫自身は、なぜと聞かれても
今でもそれはよくわからないのだという
自分で一生懸命乗り越えようとしたわけでもないし
学校でいじめられればさっさと家に帰ったりもした
親や先生に相談するでもなく
とにかく特に何も考えてはいなかったようだ
わたしが今まで夫から聞いた子ども時代の話はあまり多くない
しかもそのほとんどは
自分がいかにいたずらっ子であったかというような面白おかしい話が多く
もっと辛い思いをした時の話が山のようにあるだろうに
なぜかそういう類の話は断片的にポツリポツリとしか出てこないのだ
ではわざと意地を張って言わないのかといえばそうではなく
言ってみればもうどうでもいいことばかりなのだった
義父は戦時中
二等兵からはじまるたたき上げの軍人として
常に前線での戦いを通ってきた
南方の島々にも上陸しては
いつ殺されるかわからない危険の中をかいくぐって生きのび
最終的には軍曹から准尉待遇に昇格
その後
敗戦間近の8月6日に広島に新型爆弾が落とされたと聞き
すぐに当時県庁に勤めていた父親と妹を探しに
放射能の充満する広島市内へと入っていったが
父と妹は結局見つからなかった
敗戦後
戦地より生きて帰った友人が集まり
その席で出された酒はメチルアルコール
後に聞いた話では
その酒は海に浮いていたドラム缶を拾ったあるおばさんが
酒と称して売ったものらしい
多分ドラム缶には化学記号が書いてあっただろうが
そんなものは理解できるはずもなく
この時一緒に飲んだ仲間は
ある人々は死に、義父のように障害が残った人もあった
こうして一瞬にして目を失った義父は
やがて厄介者扱いとなるが
心機一転、盲学校に入学して職を身につけることを志す
当時、盲学校には
どこかの教会から宣教師が派遣されており
そこで行われる集会にはいつも義母が出席していた
そして義父もその集会に集うようになる
義母は元々裕福な家庭に育ったお嬢さんだったが
病気により徐々に目が見えなくなり
将来を心配する母親から琴を習わせてもらっていた
最終的には女性の取れる最高の資格まで習得したが
父親の事業の失敗により家は没落し
自立を目指して盲学校へ入ったのだった
義母はとても穏やかな人で
自分の目がだんだん見えなくなっていくことについても
それは仕方の無いことだと思っていたらしい
いつも話していたことは
目の見えない自分を親がとても大事にしてくれたこと
それに対する感謝だった
一方、義父は
喪失感と人間不信と恨みの心を抱いて盲学校に入っていた
ここでは詳しいことを書くことはできないが
数々の理不尽な目にあわされたことに対する根深い復讐心を持ち
一時は相手を殺すことさえ考えていたという
そんな恨みに満ちた心を変えたのがキリスト教との出会い
『許せない人をも許す神の愛』を知った義父は
復讐心を捨てた
義父はよく戦地での話をしていたが
それは辛かった時代の恨みの話ではなく
聞いていて純粋に興味深く面白い話が多かった
それはちょうど
夫が子ども時代の話をする時の感じとよく似ている
「両親が障害者という家庭に生まれてなぜグレなかったのか」
その答えは
「両親が障害その他自分の人生に起こる出来事を恨んでいなかったから」
ではないかと、わたしは推測している
親は子どもの人生の先生であり
親が普段どのような考えを持ち
どのように生きているのかは
そのまま子どもに映し出される
義父はよく言っていた
「正直なところ、こんな目の見えない自分を
気持ち悪いと思う人もいるだろう
いや、そう思われて当然なのだ
自分でも反対の立場だったらそう思うに違いない
人間なんてそんなものだ
それでも
こんな迷惑な存在にも今は社会保障制度がある
それで十分ありがたいことだ」
義父は申請すればすぐに取れた原爆被爆者手帳を
生涯申請することはなかった
重度障害者手帳だけでもう十分だと思っていたのだろうか
結局詳しい理由は誰も聞いていない
義父は自分のことを迷惑な存在と言っていたが
夫は目の見えない親を恥ずかしいと思ったことは一度もないという
それがなぜかと聞かれても
実際に思わなかったのだから答えようもない
が、その意味を
わたしはある時理解することになる
それはまだ息子が保育園に入ったばかりの年で
4歳になる頃だったと思うが
保育園に園児の祖父母が招かれる日があり
それを知った息子は
「明日は保育園におじいさんやおばあさんが来る日だって!」
と、嬉しそうに義父母に言った
どうやらうちのおじいちゃんとおばあちゃんも来るものと思ったらしい
黙って笑っている義父母の代わりにわたしが説明する
「うちはおじいちゃんもおばあちゃんも目が見えないからね
保育園には行かないんだよ」
それを聞いて息子の顔には落胆の表情が浮かんだが
自分なりに理解したのだろう
その後二度と同じ事は言わなかった
そして義父は
「こんなおじいちゃんでも来て欲しいんだなあ」
といって、とても嬉しそうに笑った
子どもにとって親や家族に障害者がいることは恥でも何でもないし
子どもは小さくても自然にそういう環境をちゃんと受け入れていく
ましてや障害はあっても前向きに堂々と生きている人を
何で恥ずかしいと思うだろう
そんな息子がまだ2歳ぐらいの時だろうか
買ってもらった三輪車を義父のところへ持って行き
義父の手をとって三輪車に触らせるのを見て
わたしも義父も驚いたものだ
目の見えない人は手で触ってものを見る
まだ幼い息子には祖父母の目が見えないことを特に教えてもいなかったが
親のすることを見ていて自分でもそうするものだと思ったのだろう
「ちゃんと手をとって見せてくれるよ」と
義父はこの時も非常に嬉しそうだった
夫は5歳の頃にはすでに義父の手を取って電車に乗り
広島市内の教会まで道案内をしていたという
それから40年余り歩行介助をしてきた経験から
今でも街中で立ち往生している障害者を見つけるとすぐに声をかける
だが、中には
助けの手を差し伸べられることに対して
怒りをあらわにして拒否する人もあるらしい
そういう時にはすぐに黙って去ることにしている
「ああいう人は放っておくのが愛というものだ
自分で困ればそのうち素直になる
障害があることで卑屈になっても仕方が無いのだから」
あの時おばさんが海でドラム缶を拾わなければ
義父は目を失うことは無かっただろう
そして
もし目を失わなかったら
その後の数々の不幸な出来事にも遭遇せずにすんだかもしれない
天災で、事故で、病気で、犯罪で、あるいは戦争も含めて
長い年月の間には多くの犠牲が生まれ
そこには同時に恨みの感情も残る
なぜ自分だけが・・・
もしあの時そこに行かなければ・・・
この不幸は一体誰の責任なのか?!
やり場の無い怒りと悲しみは
人を混乱させ続け
恨みは人の心の傷を更に深くする
恨みを捨て
許せない人(事)をも許すことで
失われたものもいつかは別の形で与えられるのではないか
最終的には脳梗塞で手足も不自由になった義父母だが
それでも二人とも最後に
「良い人生だった」と語ったのは
それぞれ失うことで得たものがとても多かったからだと思う
「境遇が悪いから自分が悪くなるというのは甘えてると思うよ」
思うように行かないことをすべて人のせいにする人が増えている昨今
夫ははっきりこう言う
厳しいけれど
そこから立ち上がらなければ何も進まない
優しさは往々にして人をダメにし
愛のある厳しさは人を強くする
本当の愛とは何だろう
それはどこにあるのだろうか
多くの人が持ち続けるこの疑問の答えを
義父は目を失うことで得た
『許せない人をも許す神の愛』
その出会いが義父を自分ではどうしようもない恨みから開放し
不自由な中にあっても生涯に渡る心の平安を与えたことは
今日のわたしたちにとっても大きな支えとなっている
(2005年記)
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