善か悪か



<おわりに>

夫の世代は本当のケンカを知っている年代だ
言葉よりもコブシに聞け!というのが男のケンカであり
どこを殴れば相手に効率的にダメージを与えるのか
どこが急所で、どこは殴ってはいけない等、経験的に知っている
こうして体が自然に覚えていると
怒りにまかせて相手を再起不能にするような無茶はしないらしい
だが、ケンカを知らない若い世代ほど経験がないため
感情的になれば限度を越えてやりすぎてしまう危険性がある
特に最近はすぐにナイフなどを出してくるからたちが悪い
そして最後には取り返しのつかないことになってしまうことも・・

このように、ケンカや体罰を知らない人は
体が痛みを知らない分かえって怖い場合もあるのだ
だから夫は、息子が中学生の頃までは
問題ありの言動や、これはそのままじゃすまされない!という状況を見計らって
何度か教育のために殴っている
言葉ではなく、体に直接聞かせるのだ
これを見た娘は、おろおろして「ねえ、もうやめようよ」と父親に言ったが
「お前もやられたいかっ?!!」と一喝され
その場をすっ飛んで逃げ出した経験がある
それ以来、その様子を遠巻きに眺めながら
自分は殴られることはなくても、その痛みを気持ちで共有しつつ
父親がなぜそうするのかという意味をちゃんと理解していった

家庭教育は本音勝負の実物教育だ
社会や学校は理想的なきれいごとしか教えられない
だから家庭が汚れ役を担うのだ
それができるのはひとえに子どもへの愛あればこそだろう

子どもから良い父親だと思われようなど
夫には元々そういう気持ちは毛頭ない
だからやるぞと決めたら躊躇も遠慮もなしだが
結果的に子どもたちはずっと父親を信頼して今に至っている
本音でぶつかるからこそ、お上手や嘘がないのが伝わるのだろう
いざという時には必ず守ってもらえる、何とかしてくれるとの絶対の信用がそこにはある
また、得意な遊びやおもちゃの修理などの特技を通して
昔から父親の株は母親よりも数段格が上なのだった

一方、無理に良い親を演じている人ほど
いざとなった時には感情のコントロールがきかず
言動が支離滅裂になって子どもから信用されなかったり
体罰もつい限度を越えてしまい、その記憶がトラウマになったりする傾向がある
近年よく体罰が問題視されるが
問題なのは体罰ではなく親の感情の方なのだ
日常的に不自然なことをやっていれば気持ちに余裕がないのは当然だ
人間はそんなに強い生き物じゃない
この現実はもっと真摯に受け止められるべきだろう

同様に、事の善悪を追求しすぎることもまた
気持ちの余裕をなくす原因になる
正しく生きようとすればするほど息苦しい
何のためにそこまでこだわるのだろうと思う程
わざわざ狭い生き方をする人は後を絶たないけれど
そこにもちろん理屈は色々あるのだろうが
多分かつてのわたしのように、“負けたくない”というのが本音なのかもしれない
負けることは自分を否定されることだ
自分を認めて欲しい
それは同時に
寂しさからの開放と、愛されたいとの願いでもある
人間の問題行動の影には
いつもこうした行き場のない感情が渦巻いている

善か悪か
その問題は常に表面的な部分でしか議論されないが
根底にある人間の弱さや醜さから目をそらしての議論では意味がないだろう
武器があるから戦争が起こるわけではないのだ
自分にとって不都合な人がいるから必ず不幸になるわけでもない

もっと素直になれば色んなものが見えてくる
見えれば問題解決の糸口もつかめるだろう
人生はもっともっと楽しくなるはずだ




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