善の行方
<1.善意のすれ違い>
昨年、東日本大震災が起きた後、全国的に楽しみを自粛するムードが起こり
それまで普通のことであった外食や旅行なども「不謹慎」だとされる風潮が広がった
しかし、今はそれも人々の心の中では遠い思い出になりつつあるのではないだろうか
では一体”何”が”いつまで”不謹慎だったのか
そこにどんな基準があったのかは結局のところ定かでない
この不謹慎ムードが広がった当時
ふとわたしは、昔のある場面を思い出していた
それは高校一年の時、わたしの父が亡くなり、その告別式が行われた翌日のことだ
学校へ行くためにいつもの電車に乗り、いつもの駅に降り立つと
そこにはいつものメンバーが待っていて
来るはずがないと思っていたわたしの姿を見つけた彼女たちは
みな一様に困惑した表情を浮かべていた
そして誰かが遠慮がちにたずねる
「もう来て大丈夫なの?」
更に学校へついてからは先生にも同じ事を聞かれた
どうやらわたしは早く復帰しすぎたらしい
もう35年も前になるこの日の光景を今でもしっかり覚えているのは
わたしの中にはっきりと
”今日からまた前へ向かって進みたい”との強い願いがあったからで
そのためには、今までと同じでいられる部分は極力同じでありたいと
家の状況はこれからどんな風に変わっていくのかわからないけれど
せめて学校生活は続けられるものなら同じように続けたい
それが自分の心の復興の第一歩になると考えたからだ
しかし、そんなわたしの淡々とした様子は
あまりにも立ち直りの早い奇妙な姿に映ったのかもしれない
それでも、周囲はすぐに”変わらない日常”を提供してくれたので
わたしはそこに一番の安心感を得ると同時に
そこは現実逃避をする場所ともなっていった
家に帰れば現実が待っていて
医院は閉院、幼い頃から慣れ親しんだ人々の解雇、と
事は目の前でどんどん進んでいく
(父が勤務医だったらもっと事はひっそりとしていたのだろうけど・・)
そんな辛い時を駆け抜けていく間を
共に過ごしてくれた友人たちには今も感謝している
わたしのような人間にとって
同情という感覚は
ある面では非常にありがたく、ある面ではかえって辛いものだ
とにかく、はれ物にさわるような特別な扱いが何より苦手なので
わたしの友人たちが自粛ムードにならなかったのは本当に良かったと思う
しかし、人の思いはさまざまだから
わたしと全く反対の考えを持っている人があっても不思議ではないし
案外そういう人の方が多いのかもしれない
だからといって、わたしのような感覚の人が間違っているわけでもないだろう
ただし、自分の考え・感覚がどうであれ
人の気持ちを理解せず勝手に他人の心を詮索し
自分の考える善の形にすべてを当てはめようとするところに
さまざまな善意のすれ違いは起きてくる
人間に起こりうるすべての悲しみや苦しみ、痛みを経験し
その心をすべて理解できる人はどこにもいない
結局、実体験のない、頭で想像するだけの善は
何をやっても片手落ちとなる可能性があり
良かれと思ってしたことがかえって他者の苦痛につながることもある
ではどうすればいいのか?!
”人間に完全な善はない”
ただそれを知るだけで、行動は少し冷静になる
行動が冷静であれば、すれ違いによって起こる摩擦も小さくなるだろう
(2012.8.1)
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