善の行方



<10.潔癖という病2>

わたしにとって保育園時代の最も古い記憶は
みんながお昼寝しているそばで
ひとりお弁当を泣きながら食べているというシーンだ
食欲のない子だったため
全部食べなければお昼寝できないのが苦痛で泣いていると
寝ている子たちのじゃまになると怒られてますます泣く
その場面だけが今もしっかり脳裏に焼き付いている

当時、ニンジン・ピーマン・ホウレンソウは
子どもの苦手な野菜の代表格だったが
中でもわたしはニンジンが一番ダメで
実のところ今でもニンジン嫌いは克服できないままだ
他の野菜は今でこそほとんど食べれるけれど
子どもの頃は根菜類以外全部嫌いで本当に困った

昔も今も
多くの親が、子どもの野菜嫌いに四苦八苦している
わたしの母も何とか野菜を食べさせようと頑張っていたので
わたし自身も子どもたちにそうしていたものの
いつ頃からか
そんなに無理して嫌なものを食べさせなくてもいいんじゃないかとか
わたしのようにニンジンを丸飲みしたんじゃ意味なさそうだし
しかも今の野菜は昔のように栄養価も高くないらしいし・・・
などど考えているうちに
意味のない事に固執するのが嫌いな性格もあって
そのうち子どもに野菜を食べさせるぞという意思もゆるゆるになっていった

そもそも、何が何でも野菜!と、親が必死になる要因は何かといえば
「野菜をしっかり食べる=健康=良い事」という感覚があるからで
それがだんだん行き過ぎると
「野菜が嫌い=病気になる=悪い事」という不安が付きまとうからなのだと思う
しかし、「必ず〜しなくてはならない」という感覚に陥った時点ですでに潔癖であり
必ずさせられる側にはやがて苦痛が伴ってくる
しかも、潔癖と不安は常に隣り合わせ
「しなくてはならない」と思っていることが完全にできないとたちまち不安に陥るので
何が何でも・・・ということになるわけだ
というわけで、自分のためではなくお母さんを安心させるために野菜を食べるという
不自然な図式が出来上がる

多分、多くの親は、最初のうちは何が何でもとまで必死になっていなくても
いつの間にか自分の決めたルールにとんでもなく固執し
少しの余裕もない状況になってしまうのではないかと思うが
わたしの場合、そうならずにすんだ要因は夫と息子にあると思う
この二人は実に意思が固い
嫌いなものは絶対に嫌いでテコでも動かないのだから
わたしが仮にルールを決めようが、嫌ならその場で即却下だ
一方、娘は出されたものは何でも食べようと努力はしたが
そのうち涙目で訴えてくるので
これは可哀そうだと気づいてやることが何度もあった
すると息子は不満げに言うのだ
「お母さんはMIZUHOには甘い」

考えてみれば、息子に無理強いしてケンカになり
そのうちわたしがあきらめて
娘には最初から許すというケースは今までも色々あった
息子が中学生の時にはケイタイを持たせることも渋ったのに
娘の時には全然そんなトラブルがなかったのは
もちろんその間に時代がそれだけ変わったというのもあるけれど
息子が必死に母の心を開拓した功績(?)も大きいと思う

息子は無茶を言うタイプではないが
理不尽なことに対しては黙っていない
今までも彼のゴキブリ恐怖症については何度か書いてきたけれど
他にも、高いところが苦手だったり、水泳が全くダメとか
さまざまな苦手なものを持っている
ゴムもそのうちのひとつであり
ついでに似た感覚の風船もこわいらしい
ゴムについては、小さい頃お菓子の袋をゴムでとめていると
息子が開ける際にはいつもゴムをハサミで切ってしまうので
もったいないとケンカになったものだ
そこでわたしはこのゴム恐怖症を治してやろうと思い
彼の手の甲にゴムを軽くピシピシ当てて
「この程度だったら大丈夫でしょう?」と教えたが、これが失敗だった
彼はこれがトラウマになってますますゴム嫌いになったのだ
しかも大人にとって軽く当てたつもりでも
子どもには大変な恐怖だったのだろう

親が子どもに対して、良かれと思って言うこと(すること)の中には
何が何でも子どもに強要しなくていい事もたくさんある
でも、なぜ良かれと思って言い張るのかといえば
子どもが将来困らないようにとの親心もある一方で
こんなこともできない子では恥ずかしい・・・という親のエゴもあるだろう
それは、自分の子どものことだけ考えるのではなく
いつの間にか世間一般の子どもたちと比べてしまっているからなのだと思う
そこへ、親自身の負けず嫌いの性格や、過去のコンプレックスも加わって
何が何でも・・・と潔癖になっていくほど不安感も増し
事態は更に深刻化していくのだと思われる

学校でもすべての科目が好きになれなかったように
世の中にはたくさんの苦手なものがある
そして、それらを全部克服しようとすることは
かえって無駄な労力を時間を費やすことになり
それだけストレスもため込んでしまうことになるだろう

日本には昔から
根性さえあれば何でもできるという「根性主義」があるが
今はもうスポーツの分野でも
それは時代錯誤だといわれるようになってきた
物事は精神論だけでは支持されず
実績が重視されるからだ
たくさんの労力を費やすほど何かを得られるのではなく
何が何でもとストイックな生活を心がけても
本番で力が出せなくては意味がない
もちろん不屈の精神は素晴らしいものだが
残念ながら人間には限界がある

今回のオリンピック金メダリストには
偏食の人たちがいると話題にもなった
世界の頂点に立つ人がジャンクフードやお菓子が大好きなんて
人間らしい感じで何かホッとする

幼い頃にはかなり偏食であった息子も
今は、相変わらず好き嫌いはあるものの
だいたい何でも食べれるようになっている
特に、よそで御馳走になる際には
苦手なはずのものでも平然と食べているのを見ると可笑しくなるが
常識とか礼儀といった内面の成長と共に
こうして自分がどうするべきか自覚していくのだなあと思う


(2012.8.15)



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