善の行方
<11.謝罪1>
過去の過ち(間違い)に対して
人は「謝罪」にこだわることがある
謝ったからといって、失われた過去が取り戻せるわけでもないが
それでも謝罪にこだわるのは
相手にせめて何かペナルティーを負わせたいとの気持ちもあるだろう
日本には昔から
”悪い事をした人にはバチが当たる”という教えがある
でも、実際には
人に迷惑をかけたり悪い事をした人でも平然と生きていて
どうやら人が期待する(?)ようなバチなんてないのだろうと思う
ただ、考えてみれば
自分だってどこで人に迷惑をかけているかわからなし
人間誰しも全く正しく生きることができないとなれば
それでみんなバチが当たっていたのではたまらない
バチはあくまでも自分以外の人に当たってほしいという
実に身勝手な感覚なのかもしれない
また、天が罰を与えてくれないならば
せめて人の手で納得のできる報復を・・・それも平和的なものを望むとすれば
それが謝罪になるのだろう
だが、残念ながら謝罪の言葉だけでは傷ついた心は癒されない
相手が自分の受けた苦しみと同等の、あるいはそれ以上のものを受けなければ
それは心からの謝罪にはならないとも思う
実際のところ、自分が相手と同じ立場に立ってみた時
はじめて相手の心(苦しみ)がわかるものだ
ただし
仮に相手が自分と同じ立場になっても
完全に心が癒されるわけでもなく
究極の願いが、過去の完全修復(=不可能なこと)にあるうちは
恨みは永遠に続いていく
恨みの感情とは恐ろしいもので
それが強いほど、人は自らの健康も害していき
その苦しみによりいよいよ恨みを強くして行く時
事情を知らない人からは、同情どころか
執念深い人とのレッテルまで貼られてしまうこともある
理不尽なことではあるが
何よりも自分のために
過去はどこかで水に流さなくてはならないのだと思う
このように
単にペナルティーを負わせる目的の謝罪には
人を納得させる終点がない
だからといって、謝罪そのものにに意味がないとも思えない
いや、意味がないどころか
謝罪には感情論を超えたもっと大きな意味があると思うのだ
そのキーワードは「生き直し」
謝罪は
考え方や行動を間違いだったと認めることで
人の心にひとつの区切りをつけることになる
それによって、失われた過去をあきらめ(忘れることはできないけれど)
新たに歩み始める糸口にもなっていくだろう
正しいのか間違っているのか?!と
心の中であいまいになっているものがはっきりすれば
そこからの歩みが変わり、未来が変わってくる可能性がある
ここが重要なポイントだ
(2012.8.17)
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