善の行方



<12.謝罪2>

『親に直してほしいと思うこと』というテーマで
小学5年生から中学3年生を対象に調査したアンケート結果が
日経新聞の子どもニュースに載っていたとの記事を読んだ
その上位10番までは以下のとおりである


(1位)今始めようとしていることについて「早く始めなさい」などという
(2位)一度終わった説教話をしつこく繰り返す
(3位)機嫌が悪い時に子どもに八つ当たりをする
(4位)自分の意見ばかり通して、人の意見は聞かない
(5位)自分のことを棚に上げて人には要求したり禁止したりする
(6位)親が悪いことをしても、子どもに謝らない
(7位)子どものことは全部わかっているようにふるまう
(8位)みんなで見ているテレビのチャンネルを自分だけの好みで変える
(9位)家の中でおならやゲップを平気でする
(9位)兄弟、姉妹、親戚、友人などとすぐに比べる


これらは
一言でいえば「親の身勝手」に対する不満だが
1位2位は、親が子どもに失敗させたくないがあまり完璧を要求する
潔癖な人にありがちな行動だと思う
そして3位以下は、9位の生理現象以外、親自身の考え方や感覚に問題がありそうだ
それが6位の「親が悪いことをしても、子どもに謝らない」に集約されていると思う

世の東西を問わず
子どもが親にたてつくことは悪い事とされている
ならば、親が子どもに謝るのも間違いなのだろうか?
いや、それは親自身が間違いを犯さないことが前提であり
明らかに親に非があるならば、潔く認めることが大切であろう
ここは、親の度量(人間性)が試されるところでもあると同時に
子どもにとって、親の行動の意味が理解できないままでは
そこから自分が学ぶべきものがあいまいになり
信頼関係が築けないのが問題なのだ

もしそこに、何らかの事情があるならいずれ理解もされるだろう
ただ自分の思い通りに子どもを振り回しているだけならば
説明が付けられない分、今度は感情的になって
”子どものくせに偉そうに””養ってもらってるくせに”と
逆ギレした形にもなり
そんなことを言われた子どもは
確かに自分は養われている身だと思えばそれ以上何も言えなくなってしまうのだが
そこで生まれた不信感という心の傷は深く
更には親に対して不信感を持つ自分にも嫌気がさすなど
さまざまな心の問題を残していく
そうした親の身勝手な言動によって生み出される
”自分は信用されていない”
”必要とされていない”
”愛されていない”・・・と自己否定に向かう「負の感情」は
子どものその後の人生に暗い影を落としていくのだ

虐待された子どもは、自分も虐待する親になるという「負の連鎖」が報告されて久しいが
謝らない親もまた、謝らない親に育てられているケースが多いのだという
また、親が潔癖であれば子も潔癖となり
精神不安定に陥る人生を引き継いでしまうのも悲しい

子は親を選んで生まれてくることはできない
自分の責任ではない、理不尽なことであっても
親から刷り込まれた間違い(負の連鎖)を断ち切るのは
かなり強い意志の持ち主でなければ難しいとも言われる
それは、親との精神的な(重症の場合には物理的にも)
「縁切り」を必要とすることだから、、

では、自分に自信がなく、いつも不安だらけで
自分をしばりつけている親の間違った感覚から逃げられない人は
一体どうすればいいのだろうか?
親を説得して、親が変わるものだろうか?
今までの思いを話せば謝罪してくれるのだろうか?
残念ながら、そのようなケースは見たことがない
なぜなら、親自身も同じように親にしばられてきた被害者なのだから
親が我慢してきたのに
親と同じように我慢できない子がダメなのだという考えになってしまうとすれば
この問題には出口がないように思われる

しかし
生まれてこのかた最も自分が信用してきた(影響を受けてきた)親よりも
もっと確実に信用に足る存在
絶対に間違いを教えず、いつもいつまでも自分のそばにいてくれて
無条件で自分を愛してくれる存在を得ることができれば
そこから生きる自信を取り戻し、新たに生き直すことが可能になる
そしてその存在とは、人間ではないことは確かだ

そういう意味で
「信仰」は、人が生き直すには欠かせないものなのだと
わたし自身、もう30年近く教会に居るというのに
遅ればせながら最近になって実感している

一般的に「信仰」の目的といえば
自分の願いをかなえるためであったり
自分が考える正しい道(理想)に近づくため
あるいは、バチが当たらないための戒めであったりするわけで
あくまでも自分の持っている考えや価値観が正しいとした上で
自分の心に合っていること、納得できることが前提であろう

ところが
親から受け継いできたものを根本的にくつがえすことが必要な場合
自分がそれまで生きてきた過程をまるごと否定することにもなりかねないので
常識的にはとても心の平安など得られそうもない気がするのだが
実際には、ここを抜けると不思議なほど楽になることができ
本当に自分が進むべき道筋が見えてくる

それは難しい修行でもなんでもなく
一言でいえば
”わたしも親も人間だったんだと気づく”ことだ

どんなに立派な志を持っていようが、立派な行いをしていようが
人間はあくまでも人間
信仰の道は”自分は何者なのかを知る道”といっても過言ではないだろう


(2012.8.18)



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