善の行方
<13.善の果てに>
わたしの両親は、いとこ同士で結婚しているので
母にとっての姑(わたしの祖母)は、幼い時からお世話になった伯母でもあり
慣れ親しんだ存在であった
わたしの記憶する限り、祖母は
ひたすら家のために働く「明治の女」の典型で
若くして夫をふたり続けて亡くした後
医者になったふたりの息子も早死にしてしまったが
どんな時もいつも毅然としていた姿が心に残っている
常に人の世話をし、地域の世話をし
いつも薄っぺらな布団に寝て、誰よりも早く起きて働き
ぜいたくとは無縁で、自分を着飾ることもなく
愚痴も言わず、神仏の信仰に熱心で
ひたすら善行に励んだ祖母
そんな潔癖で強い精神力を持った人というイメージの祖母が晩年になり
「わたしは死んだらどこに行くのでしょう」
と、不安をもらしたと聞いてわたしは少なからず驚いた
その後、祖母は92歳の時に洗礼を受け
それからはもう死後を心配しなくなった
昔からとても信仰熱心な祖母の様子を見ていたわたしは
それだけ一生懸命やっているのならきっと心が満たされているのだろうと思い
まさか祖母がクリスチャンになる日がこようとは想像もしていなかったが
その一方で
祖母にとって、自分の生涯を自分のために生きなかったことが
自らの心の平安にちっとも役に立っていないことを空しく感じ
もっと自分を大切に生きればよかったのにと思わずにはいられなかった
そんな祖母に影響を受けたのか
母は若い時から信心深く
ちょうど父が病気になった頃には
ある宗教に入信していた
そこは、自分の善行が自らを救うという教えを持っており
語られることは道徳的には良い事ばかりだが
現実的にはかなりの無理を要することが多いところだった
適当にやればそれでも善人の自分を満喫できるのかもしれないが
半端なことができない潔癖人間はとことんハマってしまうため
母はそこで一気に疾走していく
父の病気が見つかった時
母はそこの先生と呼ばれる人に相談し、指示を仰いだ
すると、活動を熱心にすれば父の病気は必ず治ると言われたため
母の熱心はますます加速した
こうして母は信じて言われるまま活動に励んだが、2ヶ月後に父は死んだ
ところが、その時
幹部の人がやってきて母に言った言葉はとてもショックなものであった
母のやり方が足らなかったから父は死んだというのだ
幹部の人も言い訳に困って、思わずそう言ったのだろうと今は思う
でも、あまりに愛のないこの言葉に怒り心頭のわたしは
母に早くそこをやめるよう説得したが
母は、やめることによるバチを恐れてすぐには決断できなかった
この時わたしは宗教に対する不信感を強くした
その後しばらくして知ったことだが
先生と呼ばれていた人は
このことがきっかけてその宗教をやめてしまったらしい
別に謝罪の言葉も何もなかったけれど
その人なりに純粋なところがあったのだろうと思う
父の死から一ヶ月後
母はクリスチャンになった
人の力で人は救えない
そう実感したからこそ、神に頼るのは必然であったが
それを見てわたしはうんざりした
わたし自身はその頃ミッション系の学校に通っており
そのことがキリスト教に対する偏見の元にもなっていたからだ
敬虔なクリスチャンを”自負する”人にありがちな
狭い考え方や表裏のある偽善的な生き方に納得がいかず
宗教は所詮きれいごとでしかないと
そして、こんな世界に自分は巻き込まれたくないと思っていたのだ
教会へ行くようになった母は、相変わらず熱心であった
それでも、母が想像以上にとても元気になったことと
当時、難病を患っていた母方の祖母が奇跡的に回復したことから
わたしの教会に対する偏見はトーンダウンし
半年後にはわたしもクリスチャンになっていた
なお、母方の祖母もまた明治の女であったが
クリスチャンになってからは
自分の心をしばっていたものからだんだん自由になれたのだろう
病気が治ってからは、余生を有意義に生きた人だった
一方、母の信仰熱心には
前の宗教と同じく、「〜しなければならない」とのおきてを堅く守る感覚が残っており
(守らなければ大変なことが起こると思う不安感も強い)
せっかく、人間の頑張りによらない無償の愛と恵みの神に出会ったはずが
相変わらず自分で頑張る信仰生活を続けていくことになっていった
聖書は、人が正しく生きる生き方を教えていても
正しさの受け止め方は人それぞれ違っており
その違いは育つ環境(主に親)による影響が大きいと思う
正しさに完璧を求める潔癖な人ほど
自分の頑張りに走りがちで
息も抜けないし
どこまでいっても満足できないし
頑張っていても、いつも追われているようで
ある種の不安からは逃れられないし
かといって、信仰を止める理由もない
何しろ、確実に奇跡と思われる体験も色々あった
それがなければ今の自分はないと思う
心から感謝もしている
だけど、心の奥に残る違和感は何なんだろう・・・?
この「違和感」とは
自分が目指す理想とは何かが違うと感じる部分だ
つまり、人はあらかじめ自分の考えが正しいという前提のもとに理想を持っていて
自分の理想に向かって生きている
だが、「こうすれば必ずこうなる」と思っていることが違う場合に
自分の考え方そのものが間違っていたと思う人と
神さまは自分の願いをちっとも聞いてくれないと思う人と
どちらが多いのだろうか?!
長年、得体のしれない不安から逃れられなかった母は
自分をしばりつけていた古い時代の考え方を卒業して
今やっと、自分が最も求めていた魂の安らぎをつかみかけている
どうしてこんなに時間がかかってしまったのかとも思うが
人はどこかに追い込まれるまでは
自分の信じた正しさから離れられないのだろう
人は人を(自分さえも)救えない
残りの人生を、いかに自分が穏やかに過ごすことができるか
それが母の課題となった
そう思いながら励んだ今年の野菜栽培は
今までにない成果を上げている
もちろんそのために相当の努力はしている
だけど十分楽しんでもいる
そして期待以上の成果が上がる
これほど嬉しい事はない
華やかなことは何もないけれど
これが本当の幸せなのだと
母の姿が次世代への教訓になれば
その通ってきた道のりもすべて無駄ではなかったことになる
わたし自身も、そんな母から多大な影響を受けて育ち
同じように古い時代の生き方を引きずってきた一人だ
今の願いは
わたしの代で、もうこの「負の連鎖」を終りにすること
それが子どもたちに残す財産となるだろう
旧五千円札の肖像画で知られる新渡戸稲造は
『一日一言』の中で、以下の短歌を詠んだ
「勤めてもなほ勤めても勤めても勤め足らぬは勤めなりけり」
クリスチャンであった彼は
これをどんな気持ちで読んだのだろう?
(2012.8.21)
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