善の行方



<16.挫折>

今から40年前
小学5年生のわたしは、中学受験のため塾に通っていた
わたしの住む町では
小学生が塾に通うこともまだ当たり前ではなく
中学受験する人もとても少なかった時代
わたしが信じていた未来は幻であったことに
その後、気づかされることになる

わたしにとっての中学受験は
医者の子の使命みたいなものであると同時に
大人の話から
ここで頑張っておけば何か将来が約束されるらしいと知り
後から楽ができるのならまあいいか〜という感じで臨んだものだった

ところが、入ってみれば
そんな将来の約束などどこにもなくて
次のステップに向けて
結局またコツコツ勉強しなくてはならない現実にがっかりする

あれから40年がたち
今も受験生たちは
合格した先の華やかな未来を想像して頑張っているが
合格はゴールではなく、新たな出発点なのだと知った時
どこまでも安心できない現実に疲れをおぼえる者も少なくないだろう

しかも、今や大変な就職難であり
どんな学校を出ても華やかな未来が約束されているとはとても思えない時代になった
ところが、「良い学校万能神話」はいまだに人々の心に生きている

更には、この不況の時代に強い就職先や資格が注目されるようになると
その分野への競争率もうなぎ昇りだが
資格の場合は取得する(学校を卒業する)までに年数がかかり
その間に同じ資格所有者がどんどん増えれば当然雇用先は減っていく
また、今たちまち強いと言われる公務員も
給与が高いのはある年齢を過ぎてからであり
しかもこれから下がる傾向にあるとなれば
10年20年先はどうなっているかわからない
大企業とて、いつどこでコケるかわからない時代になった
だが、人の心に一度インプットされた思いはなかなか消えるものではなく
この道こそ間違いないと信じる風潮は簡単には変わらないものだ

わたしは、自分自身30年も前にわかっていた「世間の勘違い」が
今も続いていることをとても不思議に思う
昔も今も、家の名誉や親の面子で学校を選ばなくてはならない子がいるし
それだけに、学校の名前がその人の身分証明の役目を果たしたり
あるいは、就職活動の際にはとりあえず書類選考だけは必ずパスするなど
そこだけ見れば、良い学校というのはそれなりにメリットがあるのは確かだ
だが、最後に選ばれるかどうかは
個人がいかなる者であるかという本質の信用にかかってくるわけで
決して学校が華やかな未来や確実な将来を保障してくれるものではない
それでも人々の思いがここから抜け出せないのは
人が”比べたがる生き物”であることから
どうしても競争意識をあおられてしまいがちであることに加えて
真実を伝える情報が不足していることも原因ではないかと思う

一般人が、学校の名前を聞くのは
その中で特に活躍する人の話であって
いわゆる成功組の物語だけが世間に流通している
となると、そういう成功組の割合が仮に2割だとしても
残りの8割もみんな同じだと思ってしまう傾向がある
なぜなら、その他大勢組の物語は世間には流れてこず
情報は常に成功組の話ばかりなのだから
そういう勘違いが起こるのも仕方がないのだろう

この「世間の勘違い」は学校にとどまらず
就職、あるいは「玉の輿」と呼ばれる結婚に至るまで波及している
これだけの就職難時代でありながら
なぜ大卒社員の3年以内離職率は3割にものぼるのか
誰もがうらやむ結婚であったはずがなぜ離婚に至るのか
そこにある、現実の物語はほとんど表に出てこない

まだ人生経験の少ない子どもは
これが絶対幸せに至る道だと教えられたら
たとえ間違っていてもその道に進んでいく
絶対幸せになると信じているからこそ
すべてを犠牲にしてでも頑張れる
人生に失敗や挫折はつきもので
人を磨くには必要なものでもあるが
あまりに犠牲が大きい場合、その果ての失敗は傷も深いだろう

人は、失敗し落ち込むと
自分はダメだと自らを責める一方で
自分かわいさゆえに犯人探しを始めるようになることがある
こうすることで自分が少しでも慰められるからだ
だが、そこから生まれる恨みによって心はすさんでいき
世間も大人もみんなウソつきなのだと
やり場のない怒りが増幅するほど立ち直りは遅くなる

「挫折」とは
”計画などが中途で失敗しだめになること。また、そのために意欲・気力をなくすこと”
つまり、最初に自分の計画があって
それが思い通りに行かなかった時のことを指している
そして、挫折した人の思いは
計画が上手くいかなかったことのみに注がれるが
元々の計画がどういう根拠で立てられたものなのか
それが幸せへの道だと言っているのは誰なのか
また、それを信じた根拠は何なのか
その辺のところを整理してみると
自分が間違った価値観や考えを信じてきたのだと気づくことがある
そこに気づくと立ち直りも早い

しかし、一番問題なのは
世間の勘違いをうのみにして、失敗や挫折を経験した人が
原因をしっかり考えないまま
それを自分の中に閉じ込めてしまうことだろう
そんなことを語るのは自分の恥でしかないのだから
それも当然のことと思う
だが、”過ちは二度と繰り返さない”と誓う国の民ならば
自分が気づいた間違いを次世代に告げないでおいて良いものだろうか
それとも
自分が信じた間違いを
自分は運悪く失敗しただけだとして
更に次世代に勧めてもう一度試みるのだろうか

自分の間違いや失敗を語ることは
プライドが傷つくことではあるけれど
それが次世代の益になるのなら
これこそ本物の「自己犠牲」ではないかとわたしは思う
自己犠牲といえば
一般的には崇高でカッコいいイメージを思い浮かべがちだが
そんな特別なことでなくても
誰にでもできる究極の善行がここにあると思うのだ


(2012.8.28)



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