善の行方
<20.自立へ>
幼い時から好奇心旺盛で
大人から見れば「いたずら」にしか見えない「研究」を重ねてきた息子は
やがて「理科少年」から本格的な「科学オタク」へと成長し
半年後には更に違う分野に就職して
まだ見ぬ世界へ出て行こうとしている
世の中にはたくさんの「分野」があるが
どの分野も、外側から見たのではわからない内側の事情があり
息子は、科学の分野に身を置くことで
科学者に対する世の中の認識が
かなり現実離れしていることを知った
これまで「科学大国」だと自負してきたこの国は
実は大半の人々が科学にうとく
一部の人々がこの分野で頑張って成果をあげてきたのだということ
科学を知らない人は、科学者の説を妄信するが
学者の世界では常に全く反対の説があることが当然なのだという現実が
一般人にはなかなか理解されないらしい
要するに
科学者は誰もみな自分の説が正しいと信じて研究を続けていても
「絶対正しい説」はどこにもないにも関わらず
人々は「絶対の安心感」を彼らに求めていくわけだ
そもそも、宗教の関係から
迷信や縁起といった非科学的なものを信じる神秘的な思想を色濃くもつこの国は
一部の疑い深い人々にしか
科学のような合理的な考え方は受け入れ難いのかもしれない
一方で
権威のある肩書をもった「偉い人」の言うことは絶対だと信じやすく
病気になって病院に行けば
「医者が治してくれる」と誤解しているように
偉い人が何かしてくれるのだと
絶対だと思う人に「依存」する形が
人々の心の中に出来上がっているように思う
これはもはや「信仰」の世界だが
残念ながら信じている対象が人間である限り
そこに期待する「絶対」はない
この「絶対」を求める感覚が
宗教になるともっとややこしくなる
それは、「絶対」の存在である「天地創造の神」を信じるキリスト教とて例外ではない
なぜなら、「神の言葉」である「聖書」を元としながらも
世界中には2千を超える宗派(教派)が存在するのは
そこに「人の説(神学)」が介入しているからで
その説を唱える人が「教祖」となって
人々は神そのものよりも、教祖の中に神を見て「依存」する傾向がある
目に見えない神よりも
目に見える人間の方が、依存しやすく、安心感が得られやすいからだ
教会には心に問題を抱えた
前述の「アダルトチルドレン」のような人々が救いを求めてくる場合が多い
彼らの多くは極度に自信がないので人に依存しようとする
しかし、彼らに必要なのは「依存」ではなく「自立」なのだ
今まで、「自分が何者なのか」を知らずにきた彼らは
自分の置かれた現実世界で強く生きていく術を知らない
こういう人に
「これさえやっておけば幸せになれる」と言えば
とりあえずその言葉に飛びつき
それが仮に厳しい修行であっても、自分に不都合なことであっても
その先にあるものを期待して頑張るだろう
しかし、期待したものが得られなかったらどうなるのだろうか
わたしがHP『ぶどうの樹』を開設してから丸10年が経とうとしている
その間には、クリスチャンだという人々から
信仰生活の行き詰りについての相談も受けたが
それぞれ宗派は違えど
共通している原因は
「人間の言葉に依存している」ということだった
別の言い方をすれば
人間の言葉に強く影響され、支配され、振り回され
元々アダルトチルドレンだったものが更に症状が重くなるという悲劇が
そこに生れていると感じずにはいられなかったのだ
本来キリスト教は
世の中に横行しているさまざまな思想(人間をしばる掟)から人を自由にし
各々に与えられた才能や持ち味が最大限に生きるように
「生きやすい道」へと導かれるものであるはずなのに
信仰熱心になるほど「生き辛さ」を感じるのはなぜなのだろう?
たとえば、ある人々は
世の中の「勝組思想」にのって
自分に与えられた「分」を超えた別のものを欲しがり
神の力を頼ろうとしていたのかもしれない
あるいは
修行系宗派に見られるように
自分を神のごとく神聖な存在にしたかったのかもしれない
また一方で
もし指導者の側に「勝組思想」があるならば
そこでは人は自ずと生き辛い方向へ導かれていくだろう
なぜなら、それは聖書とは全く反対の教えなのだから、、
しかし、「依存」しやすい人ほど指導者にとっては統制がとりやすく
「自立」させない方が団体の維持には都合がいいかもしれない
これが宗教の落とし穴でもある
このように
自分で考えない、疑問をもたない方向へと誘われることをマインドコントロールというが
本来、教会というところは
歪んだ思想のマインドコントロールが解かれ
自由になるべき場所であることをもう一度強調しておく
ならば、今から思いを変えて
「別の華やかな自分」という幻を探すのではなく
「本来の自分」をしっかり見つめることが先決だ
そうすれば自分に与えられている「原石」を見つけることができる
その人がどんな境遇・状態にあったとしても
誰の支配下に置かれたとしても
持っている原石は消えることはなく
誰もそれを奪うことはできない
大切なのはその原石を磨くチャンスや力や勇気が与えられることだ
「信仰」の意味はそこにあるのだと
そして、やがては
誰にもまねのできない唯一の「宝石」が生み出される奇跡を
「神の証」と呼ぶのだと思う
小さくても何色でもすべての宝石には価値がある
それが各々の生きている(生かされている)意味でもあると思うのだ
人間の心の中には
多かれ少なかれ、自分が優れたものでありたいとの思いがある
それが自分の自信となり支えともなる反面
その思いが行き過ぎ、道を踏み外しそうになった時
それをぎりぎりでくい止めるのは「良心」であろう
そして、人に良心を捨てさせないのが「愛」だ
この不安に満ちた時代にあって
世の中にある権威者、指導的立場の人や影響力のある人は
それぞれが置かれたところで何を求めていくのだろうか?
自分の利益か名誉か、はたまた世界征服の野望なのか?
それとも、自らの持つ小さな善の中にある良心が
本当の社会貢献に駆り立てていくのだろうか?
たとえ目立たない一般人であっても
たったひとりの人のために、あるいはひとつのことのために
どこまで心をかけていくことができるのか
そこに愛はあるのかと
人は生きている間、ずっと問われていくのではないかと思う
人に見せるための大げさな善はいらない
ただ薄っぺらな善であっても
それが生かされていくように
わたしは
自分の原石を見失っている人々と共にそれを探し
「依存」から「自立」に導く手伝いをするのが務めなのだと思っている
4年前に『人生の分岐点』シリーズを書いた際には
その締めくくりの言葉の中に
「子どもたちに残す遺言」と記したが
今回のシリーズは、『幸せな人生への覚書』として
次世代を担う者たちに贈りたい
そして、最後に4年前と同じ言葉を記してこのシリーズを終わりにする
人生最大の敵は自分の心
傲慢にならず、卑屈にもならず、自分の「分」に忠実に生き
神を畏れ、天から与えられる恵みに感謝し
その与えられた感動を社会に還元しながら
人生を楽しんで生きて欲しいと思う
(完)
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ
悪しき日がきたり、年が寄って
”わたしにはなんの楽しみもない”と言うようにならない前に」
(伝道の書12章1節)
(2012.9.11)
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