善の行方



<4.善の限界>

 わたしが自分の善の限界を知るには
「介護を経験すること」が一番効果的だった
人は追い詰められるとその人の本当の姿が出るものだ

つい先日にも
23年前に亡くなった義父の叔母の夢を見たのだが
幼少期の病気で耳が聞こえなくなったこの叔母は
話す言葉もほとんど造語でわたしにはチンプンカンプン
その上、白内障でほとんど目も見えなくなったところに
認知症が加わり、異常行動を見せるようになっていた
こんな多重苦状態の人をどうすればいいのか
その時まだ25歳だったわたしは途方に暮れ
何とか逃れることはできないものかとばかり思っていたものだ
これがわたしの持つ”薄っぺらな善”の正体なのだと
それから義母、義父と続いていく12年間の介護生活を通して知ることになるのだが
どんなに小さな善しか持っていなくても
「人として」の理性と
「親だから」「お世話になったから」という義理によって
何とか頑張っていけることも
更には
「自分の存在価値」をかけた意地とプライドが後押しし
やがてどんなことでもできるようになっていくことも実体験する

夢の中の叔母は
遠いある日の光景を思い出させる姿で登場した
あの日、朝早く叔母の部屋へ様子を見に行ったわたしは
その人が自分の汚物を畳に塗り広げながら這い回る姿を見て愕然とする
これは一大事と夫を起こしに行こうかと思ったが
すでに多少の経験を積んでいたし
このくらいは自分で始末しなければとの思いもあったため(←ここが意地)
ひどく暴れるその人を抱えて風呂に連れて行き
その後、汚れた自分もきれいにしてホッと落ち着いたところで
「なんでこんなことしなくちゃいけないんだろう・・・」と思い涙が出てきた
もう善の限界ははるかに通り越していたのだ

後に似たようなことが起きた時には
今度は夫が全部対処してくれたが
こうして夫が共に頑張ってくれたおかげで
12年の介護生活が成り立ってきたことは言うまでもない
当時はまだ若くて元気だったから
どんな戦いにも負けじと突き進んで行ったけれど
心のダメージは大きく、随分と神経が傷んだことも実感する
だからこそ、ひとりで頑張っている人を見ると
自分を見失ってボロボロになる前に
何とか他の人に頼りながらの介護を進めてほしいと思う
そのためにも
自分の中にある善の実態と限界を認識することは重要であろう

また、介護を終えた人の中には
「もっと良くしてあげればよかった」との後悔の言葉を聞くことも少なくない
それが長年トラウマになって、心が病んでいる人もある
しかし、その人は自分の善を超えて
更に善人であろうとすることで自ら滅びを招いているのだと思う

介護生活を終えて14年が経つ今
あの頃と同じことができるかと問われれば答えはNOだろう
すでに体力もなく気力もわかない上に
嫌なことは好きにはなれないし
わたしの善は相変わらず薄っぺらなままで
どうやら善は修行では大きくならないらしいことだけはわかった


(2012.8.4)



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