善の行方
<5.遊びと奉仕>
先週
「今のうちにじゅうたん掃除をしようよ」
と言い出した息子の提案をきっかけに
今日は朝から教会堂の大掃除をすることになった
椅子を運び
娘が洗剤液をスプレーしたところへ
息子がじゅうたん掃除機をかけていく
(水を出しながら吸い取る掃除機)
息子が延々と掃除機をかけている間
娘は他にも壁を拭いたり、椅子の脚を拭いたりこまごまとした仕事をする
わたしはいつものように電灯係
電灯のカバーを外すと必ず虫の死骸が入っているので
子どもたちはこの仕事が苦手なのだ(笑)
さて、子どもたちがこうして掃除のお手伝いをするようになったのは
いつからなのかと思い起こしてみると
息子が2歳の頃
教会堂入り口のドアを雑巾でふいている写真が残っているので
この頃にはすでに雑巾をもって作業=遊んでいたらしい
更に娘は、いつも兄と同じ事をしたがっていた(張り合っていた)ため
やはりかなり小さい時から一緒に”掃除遊び”をしていたと思う
小さな子どもにとって
大人のやっていることはみんな興味津々で
その中には「ぜひ自分もやってみたい」と思うことがある
大人から見れば掃除なんて全部面倒で面白いとも思えないが
子どもはそこに強制や義務感がないうちには
どれも遊び感覚で興味を示す
だが、学校の勉強で得意・不得意科目があるように
掃除にもそれぞれ得手不得手があって
息子の場合は、ダイナミックな仕事が
娘はこまごまとした仕事が向いていることを
自分たちで色々やりながら発見して今に至っている
息子は、ひどく汚れている場所を掃除することを好み
同じところを時間をかけてきれいにすることで
確実にきれいになったとの達成感があるのがいいらしい
一方娘は、同じ場所を根つめて掃除するよりも
色々なところで作業するほうが飽きなくていいと言う
幼い時から遊び感覚で掃除をやってきた彼らは
新しいことにチャレンジするワクワク感や
ちゃんとできた達成感を覚えつつ
やがてそれぞれの得意分野を発掘し
更には
自分のやっていることが役に立つ充実感
仕事が高度になるほど必要になる責任感
そして、この仕事は自分がやらないと、と思う使命感も持つに至った
また、結婚式や告別式、クリスマスといった各式典や行事においても
幼い時代の遊びが今は立派な”奉仕”になったが
それぞれが好きなこと、得意なことだけをやってきているため
大変だけど、無理にやらされている感はなく、面白いとも思っているようだ
また、できないことややりたくないことは自分ではっきり意思を告げるので
その点も無理がないのだと思う
ここまで何か特別な計画があったわけではないけれど
気づけば自然にこうなっていたのは本当にありがたい
奉仕とは
「報酬を求めず、また他の見返りを要求するでもなく、無私の労働を行うことをいう」
とのことだが
それが自分にとって無理な頑張りを必要とすることなら重荷となり
良いことをしていても自分が苦しくなったり
あるいは、奉仕をしない人を悪く思ったりと
善を尽くそうとしているはずの自分がいつの間にか人を批判する立場にもなっていく
ここが、”善に過ぎる人”の落とし穴だ
わたし自身は薄っぺらな善しか持ち合わせておらず
子どもたちもまた親と似たようなものだと思うからこそ
わたしは彼らに無理して良い子になってほしいとは思わなかった
それでも、自分の持っている小さな善が無理なく活かされれば
何か社会に貢献できることもあるだろう
(2012.8.6)
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