善の行方



<8.信頼関係>

教職課程を履修している娘は
前期試験で「いじめについて」の小論文を書くことになった
自分の生徒がいじめにあったらどうするか?との問いに対して
まず娘が書き出したのは、先生と生徒の信頼関係だ

いじめ問題が起きると
先生は生徒たちから情報収集しようとするけれど
生徒は信頼していない先生には本当のことを話そうとは思わない
そして、その信頼関係をさまたげる要因は”先生自身の考え方(理想像)”にある
つまり、自分が考えていること、やっていることが必ず正しいと思い
その理想の枠の中に生徒を押し込めようとする先生は
枠から外れる生徒にとっては、実に”話せない人”なのだ
こうして元から話が通じないと分かっている相手に対して
子どもたちは心を開こうとは思わないだろう
しかも、その考え方の枠が非常に狭い先生ともなれば
もはやついていける生徒の方が少なくなる

一方
自分自身が色んな失敗の経験を乗り越えてきた先生は
考え方の幅が広く
自分の過去も堂々と披露してくれるなど
生徒にとって自ずと”話せる人”になる
また、生徒ひとりひとりの個性を知ろうとし
彼らの日常生活や趣味までも把握している先生は
”自分をわかってくれる人”として、生徒からの信任も厚い
更には、上層部に対しておかしいことはおかしいと
歯に衣着せぬ物言いをするような潔い先生は
生徒たちにとっては、もはやヒーローだ

後者のタイプの先生から情報を求められた生徒は
基本的に先生の味方につくので
悪さをしている生徒は最終的に孤立し、あっさり観念する

これらは娘が実際に見てきたことであり
小・中・高と、さまざまなタイプの先生に出会いながら
自分なりに確信した部分でもある
子どもは理想より現実をよく見ているし
大人が言っていることとやっていることの矛盾にも気づいている
ならば
最初から無理な理想を掲げずにいけばいいものを・・・と思うのは簡単だが
ここが指導者たる者の立場の難しいところでもある

さて、指導者とは、別に学校の先生だけを示すのではなく
うちのように教会であれば
夫とわたしは牧師という指導者の立場にあり
子どもたちにとっては親であり、これもまた指導者の立場だ
他にも社会には上司の立場や、さまざまな上の立場の人がいて
それぞれ人を導いている
そして、人を導く際には
ひとりひとりを丁寧に見ることが必要となるが
その時の立ち位置というものが後の信頼に大きく影響すると思われる
そしてわたしなりに出した答えがこちら↓
”指導者は、自分だけが潔癖な立ち位置にいては決して信頼されない”
つまり、自分だけ良い格好していても人は信用してくれないということだ

わたしは、ある時
「実際の体験談ほど人の心に響くものはない」と言われたことから
自分の本当の姿を語ることを恥と思わなくなった
むしろ、ダメダメな方が人は親近感を覚え
正直であることで信頼を得る
それが相手の心を開くには一番有効だと知ったのだ

子どもたちは、昔から親の失敗談を喜び
わたし自身が一番落ち込んでいた時代の成績表を見せてやると安心した
親子はDNAでつながっているので
つまづいたり悩んでいる部分が似ており
こうすることで問題解決のヒントを得ることもできる

自分ができないことを人にやれという指導者には誰もついて行きたくないし
人に侮られまいと、上から目線になって命令するほどかえって尊敬されない
かといって、良い人すぎ
常に正しくあろうとして自ら苦しい生き方をしている人は周りも苦しくする
理想ばかりが先行し、現実が空回りしているのでは
どうしても良い結果はついてこない

世の中にはいろいろな指導者のタイプがあって
みんな試行錯誤しながら、そこで得られる結果を元に
ある人は自分を省み、間違いを正しながら成長し
ある人は自分の正しさに固執して自ら息詰まる
その道を分かつものは自身のプライドだ

教会というところは、基本的に問題や悩みが持ち込まれるところなので
話を聞くことが非常に重要なポイントとなるのだが
初めての人の話をきちんと聞くには
たいていが3時間程度の時間を有するし
人によってはそれが何日にも及ぶこともある
それぞれの人生は複雑で、説明は容易ではないからだ
最初は断片的だった話も、時間をかければつながっていき
問題の根本が見えてくる
目先の問題そのものよりも、もっと奥深いところに原因がある場合が多いので
そこからがやっと始まりになるが
原因に気づけば、この先どう進むべきかははっきりする
ただし、今まで自分で正しいと信じてきた考え方を変えるには勇気もいるし
当然プライドもじゃまをする
そこを人が無理やり説得してもどうにもなるものでもない

それでも
指導する側であれ、される側であれ
自分のために、あるいは相手のために
一番良いことは何なのかと心から思い
現実を見据えて、前へ進むために必要なのは「愛」であろう

 「愛は寛容であり、愛は情け深い
  また、ねたむことをしない
  愛は高ぶらない、誇らない
  不作法をしない、自分の利益を求めない
  いらだたない、恨みをいだかない
  不義を喜ばないで真理を喜ぶ
  そして、すべてを忍び、すべてを信じ
  すべてを望み、すべてを耐える
  愛はいつまでも絶えることがない」
   (コリント人への第一の手紙13章4-8節)



(2012.8.12)



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