明治に遊ぶ (第四回)

                        <田山花袋と六月會>

   

 明治四十年六月二十二日(土)、東京は神田錦町の松本亭に八名の若者が集まった。

メンバーは中村泣花、金井紫雲、藤木紫蔭、水守夕雨、秋山京村、天納哲雄、本荘曜

霊、石田秋峯ら「文章世界」への熱心な投稿者たちである。

 当時「文章世界」は投稿少年たちにとっての一つの頂点ともいえた。たとえば<も

し言い得くんば、私はどこの大学でもなく「文章世界」出身とするのが一ばん適当か

もしれない。それほどの大きな影響感化をこうむった。だから「文章世界」は私にと

    っては、まさに神聖なるアカデミーの殿堂のようなものであった・・>と木村毅はその著「私の文学回顧録」

    (青蛙房刊)に記し、さらに最初の投稿が一等当選した時のよろこびを、<この時のうれしかったことは、私

    はほんとうに頬をつねってみた。手の舞い、足のふむ所を知らずといったり歓天喜地と言ったりするのはこの

    事だった>とものべている。

     これは大正、昭和前期の文学関係者はほとんどこの投書欄から育ったといっても過言ではない(近代日本文

    学大事典)といわれた同誌が、当時の文学好きの青少年のまさにジャンピングボードとしての役割を果たして

    いたからであろう。

     同誌への投稿の常連であった若者達は、「文章世界」四十年第三号読者通信欄での紫雲のよびかけがきっか

    けとなり、泣花の呼応により投稿仲間の親睦をはかるため誌友小集を催すこととなりこの日集まったものであ

    る。発足の音頭をとった泣花は、事前に編集発行人であった田山花袋を訪れ「誌上ばかりでなく、みなさんと

    直接会って質問をうけたり、啓発指導をしたいと思っていた、私も喜んで出席する」との賛意を得ていた。

     当日は同誌の編集記者であった前田木城(晃)も遅れながらの出席となったが、みんなよりすこしばかりの

    年長であった木城は、かれらにとって気のおけない兄貴といった役どころであったようだ。

     その日期待して待っていた花袋はあいにくの遠出をしていて参加できなかったが、出先の箱根から<ケフデ

    ラレヌミナサンニオワビ  タヤマ>の電報をうっている。

     皆が揃ったのは六時頃でそれから十時過ぎの散会まで、島崎藤村「黄昏」や国木田独歩「泣き笑い」、小栗

    風葉「好奇心」などについて、さらには泉鏡花の作品から蒲原有明の句にいたるまでまさに談論風発、大いに

    盛り上がった模様で、その詳細は泣花の筆により「文章世界」四十年第八号に『六月會第一例会の記』として

    報告されている。ちなみに六月會とはこの席上つけられた会の名でたまたま六月に開催されたからという単純

    な理由からである。途中、ざる蕎麦をすすり、煎餅を齧りながらの文学談義であった。

     この例会は翌四十一年第五号の『第十例会の記』を最後に以後は掲載されていないが、その『第十・・』は

    未見のためこの誌友小集がその後どうなったかについては詳らかではない。

     なお泣花こと中村武羅夫は四十一年一月号から一年間にわたり「新潮」に作家訪問記を連載し、その後名編

    集者とうたわれ、「新潮」を一流の文芸誌に育てあげた編集人としての道を歩きはじめたのである。