明治に遊ぶ (第五回)
<明治の東京あちこち>

田山花袋の「東京の三十年」は島崎藤村の「春」とならんで、私の愛読書の一冊
だが、今回はこの「東京の三十年」の中に書かれている明治中ごろから終わりごろ
までの、当時の東京の鄙びたたたずまいを拾ってみたい。そして今ではもう想像だ
にできない東京の遥かな面影を眼の裏に浮かべてもらえたら幸いに思う。
(田山花袋著「東京の三十年」岩波文庫版より)
『柳町の裏には、竹薮などがあって、夕日が静かにさした。否そればかりか、そ
れから段々奥に、早稲田の方へ入って行くと、梅の林があったり、畠がつづいたり、
昔の御家人の零落して昔のままに残って住んでいるかくれたさびしい一区画があっ
たりした。山の手はさびしかった。早稲田近くに行くと、雪の夜には狐が鳴いた。
「早稲田町ここも都の中なれど雪のふる夜は狐しばなく」こう私は詠んだ』
『早稲田から鶴巻町へ出て来るところは、一面の茗荷畑で、早稲田の茗荷といえば、野菜市場にもきこえたも
のであった。わたしたちはその茗荷畑の中に細く通じて末は野の雑木林の中に入って行く路をよく歩いた。時に
はまた、婆さんがその取り立ての茗荷を篭に入れて負って売りに来た。静かに入って物を思ったり何かするに好
いような林は、まだその頃はそこここに残っていた。ぐみの実が人知れず熟していたり、初茸が出たりするよう
な松林もあった。冬は裏の林に が来た。それにその時分は一つしかなかった山の手線の汽車の音が、夕暮に遠
く野を掠めてきこえた』
次は花袋が、太田玉茗と連れ立って国木田独歩を訪ねる場面である。
『渋谷の道を野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林ついて曲がっていて、向うにうねうねと田圃の中を流れ
ているのが見え、その此方の下流には、水車がかかって頻りに動いているのが見えた。地平線は鮮やかに晴れて
武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。
私たちは水車の傍の土橋を渡って、茶畑や大根畑に添って歩いた。「此処らに国木田って言う家はありません
かね。」こう私たちは訊いた。(略)路はだらだらと細くその丘へと登って行っていた。斜草地、目もさめるよ
うな紅葉、畠の黒い土にくっきりと鮮やかな菊の一叢二叢、青々とした茶畑ーふと丘の上の家の前に、若い上品
な色の白い痩削(やせぎす)な青年がじっと此方を見ているのを私たちは認めた。
「国木田君は此方ですか?」「僕が国木田」』
『日比谷は先は練兵場で、原の真中に大きな銀杏樹があって、それに夕日がさし、夏は砂塵、冬は泥濘で、此方
から向うに抜けるにすら容易でなかった。ことに今の有楽町から桜田門に通ずる壕に添った路は、雨が降ると路
がわるく、車夫は車の歯の泥濘に埋れるのをこぼしたこともある。』
『新宿の山手線の踏切・・それも唯一線あるばかりであったが、それを越ゆると、玉川上水は美しい水彩画のよ
うな光景を次第に私の前に展けて来た。楢の林があるかと思うと、カサカサと風に鳴る萱原がある。坂路に添っ
て昔から住んでいるらしい百姓家が一軒ぽつねんとしてある。栗の木がある』
『(明治十九年ごろ)、例の保安条例が出て、名士が東京以外に追払われたので、新聞は一にその記事で賑わっ
ていた。しかしその時分には、段々開けて行くと言ってもまだ山の手はさびしい野山で、林があり、森があり、
ある邸宅の中に人知れず埋もれた池があったりして、牛込の奥には、狐や狸などが夜ごとに出て来た。 永井荷
風氏の「狐」という小説に見るような光景や感じが到る処にあった。』