<明治の雑誌・その消長 一>

明治の雑誌の消長にもさまざまな背景がある。文壇の勢力地図、師弟の絆あるい
は背反、主宰者の零落や財政困難による終焉、同人たちの結束そして別離、出版社
の消長による盛衰等々、その雑誌の沿革に触れれば触れる程さらなる興味が湧いて
くる。
明治時代に創刊し現在まで続いている雑誌は『新潮』『中央公論』ほかいくつか
あるが、逆にわずか一号雑誌として消えた与謝野鉄幹の『青年雑誌・鳳雛』はその
のちも幻の雑誌として昭和半ばまでその姿を現わさず、ために北村透谷全集編纂の
ための作品収集ができなかったと言ういきさつも伝えられている。
やはり一号雑誌で終ったものに、石川啄木の『小天地』、島村抱月『少年文庫』、上田敏『藝苑』(第一
次)などがあるが、今回は発刊者の壮図もむなしく一号ないし三号までで終わらざるを得なかったいくつか
の雑誌を拾い上げてみた。
◎ 『屋上庭園』 明治四十二年十月〜四十三年二月、全二冊
北原白秋・木下杢太郎・長田秀雄を編集同人として創刊された。
白秋の処女詩集「邪宗門」刊行ののち半年、耽美的な官能情調にかぎりない憧憬をもったパンの會の詩
人達がその機関誌として創刊した。
黒田清輝による表紙など瀟洒清新の雰囲気は明治末期の詩壇、文壇に名声を博した。
永井荷風、蒲原有明なども寄稿したが、第二号に掲載の白秋「おかる勘平」が風紀壊乱も理由で発禁
処分となり、そのため発行資金が続かず、廃刊に追い込まれたと言う。わが国での耽美派芸術の最初の
舞台として歴史的な意味を持つものと言われている。
◎ 『落穂叢紙』 明治二十七年十一月〜二十八年一月、全三冊
発行編集人の蒲原隼雄(有明)は発刊の辞で、<告白す。吾人、浅学寡聞未だ文壇に立つの資あらず・
・・、所詮吾人は唯美文の田に落ちこぼれたる落穂を拾ふの群雀たるに過ぎざるなり>と述べている。
この雑誌は有明の処女作の掲載誌として知られた。五号まで続いたとの説もある。
◎ 『伽羅文庫』 明治三十二年十月〜同年十二月、全二冊
「中央文壇に一新生面をひらかんとの大胆なる趣旨をもって」刊行された文芸雑誌で、投稿をつのり、
詩歌、小説の分野で新人を登用しようとの意図がうかがわれたが、硯友社系統の雑誌とされる。
寄稿者は、尾崎紅葉・永井荷風・広津柳浪・蒲原有明・山田美妙・田山花袋・島崎藤村・巌谷小波らで
あった。
◎ 『藝苑』 明治三十五年二月、全一冊
上田敏が主宰して創刊。平田禿木・藤島武二らの協力を得て出したものであったが、創刊号だけで、森
鴎外らと合流『藝文』に発展的解消をとげた。
◎ 『藝文』 明治三十五年六月、全二冊
『めさまし草』『藝苑』を廃刊した森鴎外、上田敏が合流して刊行。
内外の文学についての研究、評論及び翻訳を主とし、詩歌、随筆などを交えた、高踏的な雑誌であった。
平田禿木・戸川秋骨・佐佐木信綱・蒲原有明らが寄稿した。「金色夜叉上中下合評」など注目すべきも
のがあった。
◎ 『小天地』 明治三十九年九月、全一冊
石川啄木が編集人となり、父親が一禎を発行人として創刊した雑誌である。結婚後の啄木が岩野泡鳴・
前田林外・与謝野鉄幹・平野万里・茅野蕭々ら白百合派、明星派の応援を得て発刊し、地方文学啓蒙誌
として文壇の地方分権を問うたとされるが、一号のみで終わった。
◎ 『少年文庫』 明治三十九年十一月、全一冊
お伽噺時代から情緒的芸術的童話の時代へ移る先鞭をつけた雑誌として史的評価をうけている雑誌であ
る。島村抱月のもとで小川未明・竹久夢二が編集を担当した。
主な執筆者は未明・夢二・相馬御風・坪内逍遥・薄田泣菫・巖谷小波らであった。
◎ 『武蔵野』 明治二十五年三月、全三冊
半井桃水が新文学の興隆に際し、その文壇復帰のために主宰した。同人に樋口一葉・畑島桃蹊・小田果
園らが参加。一葉の処女作「闇櫻」が掲載されたほか、斉藤緑雨も寄稿。