明治に遊ぶ (第八回)

                      <花袋と藤村・それぞれの従軍>

              

    

         『田山花袋の「第二軍従征日記」(明治三十八年)は、博文館の写真班付き従軍記者として、日露戦

       争にさいして陸軍の第二軍につき、遼東半島を中心とする戦地をつぶさに見た花袋の広島出港から半年

       近くにわたる従軍記録である。(略)文学者の戦争記録はすでに日清戦争時代に国木田独歩の「愛弟通

       信」があり、戦争という非日常的な体験を(いまここ)に再現するかのように語る文学者のレトリック

       に、読者は読物としての喜びを見い出した。(略)この「第二軍従征日記」の背景には、博文館を中心

       とした戦争報道メディア「日清戦争實記」「日露戦争實記」「日露戦争写真画報」などの旬刊誌があっ

       た。

        五十篇にわたる「日清戦争實記」こそが博文館を出版社として大躍進させ、印刷を請け負った秀美舎   

       の技術革新をもたらした。』(紅野謙介「書物の近代」より)

       『外国との最初の戦争が始まってから東京の騒ぎは非常であった。捷報の号外で街が日章旗で埋められ   

       るようなこともあった。私は遠い戦争を思った。故郷に別れ、親にわかれ、妻子にわかれて、海を越え

       て遠く外国に赴く人たちのことを思わずにはいられなかった。維新の変遷、階級の打破、士族の零落、

       どうにもこうにもできないような沈滞した空気が長くつづいて、そこから沸き出し多様にように漲りあ

       がった日清の排外的気分は見事だった。戦争罪悪論などはまだその萌芽をも示さなかった。』

 

        日清戦争が始まった頃はそのような時代でもあった。

        また日露戦争の始まった明治三十七年、花袋が小諸の島崎藤村を訪ねたのち

       『東京に帰ると間もなく、戦争が始まった。世間は騒がしくなった。号外の声が町から町へと響き渡っ

       た。私の二番目の男の児は、津軽海峡を敵艦が襲った日に生まれた。人生の波、けわしい波は私の生活

       にも次第に強く入って来た。

        社に行くと、坪谷君は、

       「君、戦争に行かんか」

       「行きましょう」

       こう激昴して私は答えた。

       やがて私は戦地に立った。島崎君は従軍の希望で、私の立ったあとをやがて東京に出てきたが、好い口

       がないので、再び山の上に帰って、従軍したつもりで、あの長篇「破戒」の最初の章を書き始めた。』

       (いずれも田山花袋「東京の三十年」より)

       『花袋の従軍を知った藤村が自らを「人生の従軍記者」にたとえたのはあまりにも有名である。それは

       比喩によって語られた覚悟の表明にほかならなかったけれども、比喩それ自体によって戦争と小説との

       意外な類縁関係を暗示しているとも言える。何よりも「破戒」は地図を片手に汗にぎって戦場の記録を

       読む読者の意識を編み出した。(略)「破戒」に挿入された地図は、こうした課題に向けて複合された

       メディアミックスとしての書物の生成を物語っている』 

       (紅野謙介「書物の近代」より)