<夭折の周辺・北村透谷その一>
夭折とは、広辞苑に依れば「若死にすること」とあるが、では何歳までの死去を云うのかは記されていない。
そこで尋ねてみることにした。岩波書店辞典部では「十代後半から二十代なかばまで、せいぜい三十未満と解釈
してよいのでは」と云うことであり、朝日新聞社学芸部でもおおむね二十代か三十代なかばまでではないかとの
ことだった。勿論明治の頃と高齢化の進んだ現在では比較にならないかもしれない。
また夭折には「いまだ業なかばにして」と解釈できるニュアンスがある。たとえば尾崎紅葉は三十五歳でなく
なっている。いまでは平均余命の半分にも満たないのだから、まさに夭折といってよいのかもしれない。しかし
明治時代の三十五歳は、もちろん若死には違いないが、現在で云えば五十歳に近いといってもよいだろうから、
夭折というにはすこし無理があるかもしれない。さらに紅葉が「業なかば」であったかどうかについても論の別
れるところだろう。
明治時代の夭折の人として、わたしの頭にまず浮かぶのが北村透谷であり、石川啄木、そして樋口一葉の名で
ある。今回はまず北村透谷について。
北村透谷、本名門太郎。明治元年十二月小田原に生まれる。同十四年一家で上京、透谷は泰明小学校に転入学。
翌十五年卒業式にて「空気および水の組成」と題して演説。
『「明治日報」のごときはその雑報欄に、北村門太郎の演説の傾聴に値するところ、まさに奇童というべし、と
褒めそやした。天才の風貌はすでにこの時十分に伺えたのであろう』(舟橋聖一「北村透谷」)
小学校卒業後私塾数カ所を経て、十六年東京専門学校(現早稲田大学)政治科に入学。星野天知、島崎藤村、
馬場孤蝶、戸川秋骨、平田禿木らと「女學雑誌」に拠り、のち「文學界」を発行。
わが国最初の長篇叙事詩「楚囚の詩」をはじめ、劇詩「蓬莱曲」などで日本近代詩の始祖的存在として知られ、
また自由民権運動、、キリスト教にも深く関わり、文学・政治・恋愛においてもそのはげしいロマンティシズム
とともに生きたといわれている。
明治二十七年五月十六日、東京・芝公園内の自宅の庭にて縊死。享年二十五歳。
<「吾人は記憶す。人間は戦ふ為に生まれたるを。戦ふは戦ふ為に戦ふにあらずして戦ふべきものがあるが故
に戦ふものなるを。戦ふには剣をもってするあり。筆をもってするあり。戦ふ時は必ず敵を認めて戦ふなり。筆
をもってすると剣をもってすると戦ふにおいては相異なることなし」>と書いた北村透谷は<近代日本文学の歴
史の上で「戦うために生まれた」希有な人物の一人であった。>(小田切秀雄「近代日本の作家たち」)
<剣の刃も自分の身ももろともにボロボロとなるまで戦い、戦いの劇しさに短い炎のように燃えきってしまった。
党争のエネルギーは自ら発した熱のために瞬く間に消磨してしまったのであった。>(同書)
<なぜ青木(透谷)は自殺したろう。この問は二人の友達が答えようとして答えることの出来ないものであった。
世間ではいろいろ言触らした。「食えなくて死んだんじゃないか」というものもあれば「厭世だろう」というもの
もあり、「芸術の上の絶望からだ」と解釈するものもある。これといって死因と認むべきものは、二人の友達(島
崎藤村、戸川秋骨)にすら見当たらなかったのである。
「なぜ青木君は亡くなったんでしょう」と岸本(藤村)は未亡人に尋ねてみた。
「さあ、私にも解りません」こう未亡人が答えた。この「私にも解りません」が一番正直な答らしく聞えた。>
(島崎藤村「春」より) /この項つづく/