明治に遊ぶ    (第十二回)

                   <夭折の周辺・北村透谷その二>

 

    <形式の方から云えば、北村君は明治文学に対して認むべき貢献している。それは、同君の書いた韻文戯曲の

    形式である。今日の自由な詩形から見れば何でもないように見えるであろうが、当時ではああ云う試みでさえ、

    非常に新しいものであった。(略)只、私どもの欲を云えば、北村君は浅薄な古い道学的観念を破ったけれども、

    同君自身一種の道学的観念に囚われて居るようなところがあった。従って文学者としては働くべき天地が狭くは

    なかったか。生きていてもそう長く勢力を有し得る人であったか、どうだか私には決しかねる。

     古い時代との間に立つ、情熱のある思想家というのが、或は北村君の位地ではなかったろうか>

                                   (馬場孤蝶「明治文壇の人々」より)     

 

     <これは私の独断だが、透谷には終生閉所願望のようなものがつきまとっていたのではないだろうか。そこに

    は鏡面や壁面の魔物が出没する透谷独自の光景が出現するのではないか。うつむきがちにふくみ笑いをしていた

    という透谷像が伝えられている。(略)ミナ未亡人の「一体、透谷と云う人は、外は虫も殺さぬような優しくて  

    居て、内がいつも烈しく燃えていた人です。。そしてどんな時でも、何かじっと考え込んでイライラしていまし

    た」という言葉からも、どこかうつむきがちに考えごとにふけっていた透谷像が浮かび上がってくる。(略)

     透谷と云うと大変な行動家らしい強烈なイメージをついもってしまっている。しかしながらむしろ内省的で、 

    じっとうつむきがちに惨野を漂白していた一人の青年の像を想い浮かべる方が正確なのであろう。

     志士的なあるいは自由民権家透谷の像が強すぎるのかも知れない>

                                   (吉増剛造「透谷ノート」より) 

     北村透谷が明治二十年八月、のちに自分の妻となった石坂美那子にあてて情熱的な手紙を書いたことはよく知

    られている。

     男女の愛について、女性は勿論のこと男性でも声高に語られない時代であった。透谷が当時神奈川県議会議長

    を務めたこともある八王子在住の石坂昌孝の娘美奈子と知り合い、その胸をたぎらせたのである。

    『戀愛は人生の秘鑰なり』と喝破した透谷のことであるから、己の恋愛についても激しいものがあった。結婚を

    前にして透谷が出した手紙は六千字におよぶ長文で『生は貴嬢の風采慕うこといと永かりし、而して親友たるの

    時日は斯くの如くそれ短し、生は貴嬢の親友として世を送るを得ば、他に何の求むべき幸福のあらんやと曾て思

    考したりき』と書き、さらに『いささか貴嬢に懇願するところあり其れは他ならず、生のミザリイを聞いてたも

    と云う一事、是なり、貴嬢は常に生のハッピイなるを祈りたまふ我が親友なりかし、然らば則ち生のミザリイを

    察して心の苦を慰むる術もがなあらば、是を指示してくれたまふべき道徳上の義務をもちたまふ御身なるべし』

    とつづき、自分の生い立ちから始め短い前半生をきわめて詳細を述べている。こののちわずか数年でみずから命

    を絶った透谷のほとんどの人生はここに語られているといってよい。幼年時から神童奇童といわれ、政治に文学

    に、そして宗教にと幅広く活動をおこなった透谷が純粋なまでにみずからの心うちを吐露したこの手紙は、美那

    子の心を動かすなにかがあったのだろう。