明治に遊ぶ    (第十三回)

                       <透谷未亡人美那のこと>

 

    久しぶりにゆっくりと明治時代の雑誌をひもとく機会があり、目を通していたところ、うかつにも長い間気がつかず

    にいたのだが『文章世界』明治四十三年七月号に、須川末子(水野仙子)による「北村透谷夫人を訪ふ」と題する文章

    に行きあたった。

     透谷の没後、美那夫人と愛娘英子(ふさこ)がどのようなその後を送ったのであろうかとは、かねてからわたしも気

    にかかってはいたのだが、この記事をきっかけにして後記の資料などから永年の希望がかなえられた。

     これらによれば美那未亡人は透谷亡きあと娘の「ふうちゃん」こと英子を北村家に預け単身でアメリカに渡り、以後

    九年間をその地に過ごした。渡米後、ユニオン・クリスチャン・カレッジに学び、その後オハイオ州立デフォイアンス

    に正式入学。三十九年六月優秀な成績で卒業、賞与の金時計とともにバチェラー・オブ・アーツの称号を得ている。

     父をなくした六歳の英子を婚家に預けてまでアメリカに渡ったのが彼女三十四歳のことであり、その間一度の帰国も

    せずハウスメイドのアルバイトをしながらの苦学を続けた美那の意志の強さというものを感じないわけにはいかない。

     明治四十年一月、父石坂昌孝死去により帰国。

     

     <「私も、まだ若いのに何処かへなんて言われもしましたけれど、子供が親という蔽うものもなくて育つのは、その

    子のため第一の不幸だと思ったり、子供の前途を見届けてやらねば親の義務がすまないような気がしたり、それやこれ

    やまたどうせ何かして生きて行かなくちゃならないなら、いっそ生き甲斐のあることをしてみたいと思いましてね」> 

     帰国後は英会話の稽古に通って来る子女を見、頼まれた翻訳物をこなし、夜は夜で夜学の生徒たちが詰めてくるとい

    った多忙な毎日を過ごしていたようである。さらに週三度は府下の豊島師範学校の教壇に立つという日々であった。

    

     未亡人は当時の女性の教育の目的について、日本女性の美点とアメリカ婦人の長所をつき交ぜたところに理想をおい

    ているということを帰国後某誌に語っていたという。

     <「私はいまの教育に伴う弊害というものを恐れますね。どうかしてそんな弊害を伴わないような方面を開拓して行

    きたいと思っていますがね。世間の人は私を、ある意味でいうようなハイカラな考えをもっているものと思っているか

    も知れませんが、私はそうでもないんですよ。それは洋服も着ますし、英語もしゃべりますけれどもね」>

     

     自身も登場人物の一人となった島崎藤村の「春」について、須川末子の質問に答えて美那は次のように語っている。

     ーーー藤村さんの「春」でございますね。あれをお読みになっときにどんな感じがなさいました?ーーー

     <別段どうってこともありませんねえ。あの人達はご自分たちの作の材料としてお使いになるんでしょうから仕方が

    ないでしょうよ。それに私は自分のことを書かれてもそう読んでいませんから・・・今度会ったらもう昔のことなんか

    書かないでくれって言おうと思ってますがその後少しも会わないから・・。でも透谷の時代のことを書いたら勢い書か

    れなけりゃならないのでしょうよ>


 

    <紅白の鶴の卵ともいいたいような正月らしい菓子の残っていた時分だから、あれはまだ早い春のはじめのことだ。

    透谷の未亡人が見えたから、私は旧い友達の娘さんのことを思い出して、その菓子の残ったのを紙に包み、ほんの少し

    ばかりだが、それでも届けて貰いたかった。透谷の亡くなる時分には「ふうちゃん、ふうちゃん」と言ったあの娘さん

    が今ではもう三人の子持ちだと聞く。未亡人は青山の方へ帰っていって、あの娘さんと一緒になった時に、「ご覧、飯

    倉ではまだお前のことを子供のように思っている」と言って見せたとか。後になってまた未亡人が私の所に見えた時に

    その話が出た>             (島崎藤村「飯倉だより」より)

    参考資料

    透谷全集 第三巻     勝本清一郎編(岩波書店)

    透谷と美那子       町田市立自由民権資料館

    明治人ーその青春群像   色川大吉著 (筑摩書房)

    日本女性人名辞典     日本図書センター刊