二十世紀が産声をあげた明治三十四年(1901年)、わが国の短歌史に一つの金字塔をうちたてた歌集が生まれた。それが鳳晶子の
『みだれ髪』であった。
与謝野晶子が鳳姓で出したただ一冊のこの歌集が発表された当時、歌壇文壇はもちろん社会的にも大きな反響を呼んだ。
その多くは賛辞にあふれたが、しかし褒貶の振幅も大きく道学者、国士さらには一部の文学者からの非難の声も高かった。
女性が(しかも未婚の)性あるいは男女間の愛情問題についてあからさまにものいうことが許されていなかった当時であれば、それらを
声高らかに、赤裸々に詠いあげた晶子の作品はまさに<因襲の道徳と俗見とに對して、果敢に投げつけた決闘の挑戦状・・・萩原朔太郎
「詩人論」>であったし、<晶子の歌が天下を風靡するに至るその第一歩として賛否のこゑ喧しく、新詩社のものも新詩社以外のものも、
歌人も非歌人も、この歌集の出現に驚異の眼を瞠った・・・斎藤茂吉「明治大正短歌史概観」>のである。
<『みだれ髪』は明星の詩人として才名高き鳳晶子の歌集也。鳳晶子が才情の秀絶は吾人の認むるところ、其の歌詞新たにして高く、情
清くして濃、たしかに一家の風格を具へたり。唯其の晦渋なるの一事は、必ずしも其の意の幽微をもってのみ見るべからじ>
と、これは高山樗牛が、雑誌「太陽」明治三十四年九月に書いた評である。
<近代短歌史上に於いて最も光栄ある瞬間の一つは、二十四歳のうら若き女性の手に成った歌集『みだれ髪』の出現のときである>・・・
小田切秀雄「近代日本の作家たち」。
しかしこの歌集を否定する立場の声も高らかであった。
大町桂月は<さかり猫のうなるがごとし>と評し、<『みだれ髪』は、其標題の淫靡なるが如く、其装釘もまた濃艶なり>と書きはじめた
中内蝶二は<その戀愛詩なるものは如何なるものかと見れば、痴情痴態、さながら京女郎の男にべたつくが如くキザ多く、イヤ味多く、人
をして嘔吐に堪へざらしむものあり>とつづけ、さらには
<「ふしませとその間さがりし春の宵衣桁にかけし御袖かつぎぬ」「人の子の戀をもとむる唇に毒ある蜜をわれぬらむ願ひ」「病みませる
うなじに捲きて熱にかはける御口を吸はむ」の如き、これ悉く實感を挑発すべき春画的文字にして詩趣なく・・・>と評し、ついには
<「狂ひの子われに焔の翅かろき百三十里あわただしの旅」「さびしさに百二十里をそぞろ来ぬと云ふあらばあらば如何ならむ」「しのび
足に君を追ひ行く薄月夜右の袂の文がらおもき」の如きは、これ遂に色情狂の痴言に外ならざるなり>と口を極めて酷評している。
その中内蝶二もその後につづけて、歌集の中の十数首をとりあげ、
<流麗優雅なる佳調で、着想格調共に清新にして詩趣あり、情趣ありさらには明星歌人の作中にても異彩を放てるものにあらずや、げに斯
くの如き詩才を有しながら、自ら好むで邪路に入らむとするは惜しみてもなほ餘りありといふべし>と書き記してはいるが。
さきの小田切秀雄はさらにいう。(同著より)
<当時「心の華」の記者は『みだれ髪』について一巻ことごとくこれ春画なりと書いた旨伝えられているが、恋愛の情趣を扱った作品でも
春画と見られたわけである。しかし『みだれ髪』における恋愛は春画の如くにゆがんだものとははっきり違う。恋愛の情趣がしきりに歌わ
れているのは、根本的には、恋愛の人間的な喜びを、恋愛を通して人間的なものの美と意味を、いま新しく体得した歌人が、おのずとあふ
れ出る声をとめるによしなかったからである。
(中略)『みだれ髪』に泥をなすりつけ、或いは古草履のように捨て去ることを以ってしては、『みだれ髪』を超えることはできぬのである。
『みだれ髪』は私達にとって一つの大なる文学的遺産であった>