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山本安英 女優。 本名 千代。 東京生まれ。 1906〜1993
大正十年九月市川左団次主宰の現代劇女優養成所に入り、小山内薫作、土方与志演出
による「第一の世界」で初舞台を踏む。
築地小劇場創立に際し第一回研究生となる。以来数多くの舞台を踏み、築地小劇場の
内外戯曲117編中67編にほとんど主演し「築地の娘」と愛されたという。
またなんといっても木下順二作「夕鶴」での、おつう役はその公演回数じつに千回を
はるかに上回る大当たり役として特に有名で、昭和二十六年には第一回文部大臣賞を
受賞。
少女時代の山本安英にたいする拓次の想いは、まったく伝わることなく終わった。
<昭和四十三年の秋、T会館のパーティの席で私は偶然山本安英さんに逢った。夕鶴
のおつうの面影と重なったような、控え目な安英さんは、人混みのなかでは決して目
立つことはなかったけれど、拓次のあこがれであったYさんの面影そのものであった。
「拓次の日記をしらべていますとYさんYさんと、毎日のように思慕をつづった文章が
書かれていますけれど、昔ライオンでご一緒でいらしたそうですね」
こんな昔のことを、唐突にきき糾そうとする私を、つつましい目がちらとふれただけ
で俯き、口ごもるように、
「あのー、あの方が、あのようにお想い下さっていることを、若いころの私はちっと
もうけとれないでいまして、申しわけないことをした、とそう思いますわ」
その言葉をきいただけで、私は拓次になりかわったように、充たされていくのであっ
た>
(生方たつゑ 「娶らざる詩人」)
湯浅半月 詩人。 聖書学者。 本名 吉郎。 群馬県生まれ。 18858〜1943
同志社神学科卒業後渡米。帰国後同志社教授、図書館長歴任。
図書館学の樹立者として知られる。
詩集「十二の石塚」があり、これは創作個人詩集として、日本最古のものといわれる。
拓次と同じく安中の生まれである。
横顔 ここに一枚の写真がある。これは大正十年あるいは十一年元旦に当時拓次が勤務して
いたライオン歯磨本舗小林商店の第二代小林富次郎社長宅で社員が勢ぞろいしての記
念写真である。
この写真を見ると大勢の中で拓次だけが左方を見ており、他の人は当然のことながら
みな正面を向いている。
こうした記念写真を写す場合だれもが正面を向くのが普通である。
しかし拓次の顔のそむけ方は偶然でなく明らかに意図して左を向いているようである。
<彼は中学の時代に中耳炎を患ってい、左耳が難聴になった。多感な青春にこの不自
由な肉体は彼の性格をますます内面的に追いやる材料になった。
「僕の正面の顔と、左面の顔は悪魔の相がでているー」とつねに左側の顔を人に向け
なかったし、写真にのこされたいずれのものも、すべて彼の右側からの撮影である。
潔癖性と、内向性と、詩人ゆえの病的な劣等感がそうさせたのかもしれぬ>
(生方たつゑ 「娶らざる詩人」)
個人的な写真を撮られる場合だけでなく、こうした公的な場面でさえ自分の正面と左
面からの顔を見せないところがいかにも拓次らしさがうかがえて、たいへん興味深い。
吉川惣一郎 拓次の初期のペンネーム。五歳年下の美少年吉川吉次と安中中学校時代の下級生O・
惣一郎からとったものだといわれる。
明治四十五年、雑誌「朱欒」十二月号に掲載された「藍色の蟇」「慰安」をはじめと
して、大正三年末まで「朱欒」のほか「創作」(第二期)「地上巡礼」などにこの筆
名を用いており、翌四年一月号の「地上巡礼」以後大手拓次に戻している。
拓次は大正三年十二月二十一日、北原白秋宛に書簡を送り、つぎのように記している。
「拝啓 寒気酷しく候処貴方様には益々御清栄の事と存じ上げ候 就而は甚だ恐入り
候へども適ふことならば吉川惣一郎といふ匿名を私の本名に御訂正の上御掲載下され
度願上候又昨年よりは真面目に努力致す決心に御座候へば私の草稿は十分の御厳選を
願ひ上げ候右御承了下さらば誠によろこばしく存じ候 敬具」
<大正四年から本名の大手拓次にかえったのは、いろいろな理由が憶測できるけれど
も、ひとくちにいって彼なりの自己脱皮も決意がそうさせたのであろう>
(原 子朗「定本大手拓次研究」)
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