The Allman Brothers Band
アメリカが生んだサザン・ロック界の偉大なるバンド。天才ギタリスト
、デュエィン・オールマンの遺産は今だロック界において至宝である。幾多の悲劇と困難に見舞われながら解散、再結成を繰り返すも、今も圧倒的な指示を得ている。アーティストの中にも熱烈なファンが多い。
オールマンズを初めて耳にしたとき、訪れたことのないアメリカの素朴で飾り気のない風と土の匂いが自然に入り込んできました。ブルース、カントリーに根ざした彼等のサウンドは不変の魅力に満ち溢れており、ダイナミックな荒野を感じさせてくれます。時代がどんなに変わろうとも、多くの人々が彼等の音楽を愛しつづけるに違いないと思います。
概略紹介
オールマンズは、ナッシュビル出身のデュエィン、グレッグ・オールマンの兄弟が核となってスタートした。後にロック界きってのスライドの天才と呼ばれるデュエィンは、父がギターを弾いて歌っていたことがきっかけで楽器に興味を示した。だが、父は彼が本格的にギターを手にする前に殺されてしまい亡くなっている。幼い頃から兄弟はラジオから流れるR&Bを聴き、ロバート・ジョンソンを敬愛していたが、当時デイトナ・ビーチに移り住んでいた二人は'65年
「オールマン・ジョィズ」というバンドを作り、地元以外のクラブなどでもギグをし、レコーディングもしている。しかし、このバンドは鳴かず飛ばずの状態でバンドを作り直し再出発、ロサンジェルスに進出をしたのである。レーベル
リバティと契約した彼等だったが、会社はブルースをやりたいという意向を聞き入れず、ポップな曲でアルバム作るよう強要する。ビジネスの現実に失望したデュエィンは南部に戻り、(
グレッグはそのままLAに残る。)マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオでセッション・ギタリストとしての職を得るに至った。そこでウィルソン・ピケットに
「ヘイ・ジュード」をレコーディングすることを勧め、これが大ヒットとなり、以後数多くアーティストの作品へ参加している。ちなみに彼の愛称である
「Sky Dog 」 はウィルソンが与えたものだと言われている。そうした彼の噂は元・オーティス・レディングのマネージャーだったフィル・ウォルデンに届き、設立されたばかりのレーベル、キャプリコーンの第1号アーティストになるよう勧誘、デュエィンは自らがバンドリーダーとなってバンドを作ることを決意する。こうして集まったデュエィン、ディッキー・ベッツ、ジェイ・ジェニー・ジョンソン、ベリー・オークリー、ブッチ・トラックスの5人はスタジオセッションを重ね、やがてグレッグが戻り、正式に
「オールマン・ブラザース・バンド」として旗揚げしたのであっ
た。そして '69年 、デビュー作 「ALLMAN
BROTHERS BAND 」 が発表されると、彼等のツイン・リード・ギターとツイン・ドラムスというブルースに根ざした泥臭く豪快なサウンドは南部を中心に好セールスを記録し、フィルモア・イーストのオーナーであり、プロモーターのビル・グラハムの目に留まった。グラハムに見出されたオールマンズはニューヨークのフィルモアに度々出演し、そのステージが評判となる。'70年
「IDLEWILD SOUTH 」 をリリース、ディッキー・ベッツの作品
「エリザベス・リードの追憶」などの名曲も生まれゴールドディスクを獲得するなど知名度を上げていった。
同年、デュエィンはエリック・クラプトン率いるデレク &
ドミノスのレコーディングに参加、後世に残る名演で知られる
「愛しのレイラ」では 誰もその域に到達できない神かがり的なプレイでクラプトンのギターと絡み合い、永遠の宝を遺した。この時、彼の腕に驚嘆したクラプトンはデレク
& ドミノスへの参加を要請しているが、デュエィンはバンドに打ち込みたいとのことで断っている。'71年、かねてより自分たちの真価を正確に伝えたいとスタジオ録音に不満を持っていたバンドは、3月11日から13日までフィルモア・イーストに出演したうちの二日間を収録した名盤
「AT FILLMORE EAST」を初のライヴ盤としてリリースする。このアルバムはデュエィンとディッキーのツインギターによるインプロヴィゼィション(即興演奏)を中心に会場の熱気と興奮が凝縮された史上もっとも賛辞されるライヴである。結果、同作品は15位にチャートインする大ヒット作となり、彼等の実力は世に認められたのであった。
ところが、'71年10月29日、 順風満帆だったバンドにとって思いもよらない悲劇が起こる。次回作のレコーディングの間に休暇をとってジョージアにいたデュエィンが愛用のバイクでドライヴ中トラックを避けようとして横転事故を起こし、24歳という若さであっけなく散ってしまったのである。彼を失ったことはバンドにとってだけではなく、ロック界においても大きな損失であった。リーダーであり核でもあった彼を失くしたバンドだが、継続する道を選び、'72年
デュエィンが生前残した3曲と未発表のライヴ3曲、彼の死後作られた3曲で構成されたアルバム
「EAT A PEACH 」 が発表され、全米4位に昇りつめる勢いとなった。しかし、悲劇は続いた。悲しみからようやく立ち直りかけていた同年10月、今度はベリー・オークレーがデュエィンの事故発生場所のすぐ近くで同じくバイク事故によって24歳で他界してしまったのである。
その後、バンドは新しくキーボードを加え、グレッグとのダブル・キーボードで再編をはかり、'73年
「BROTHERS AND SISTERS 」をリリース、 チャート1位、シングルとしてカットされた
「ランブリン・マン」も2位に輝くという復活を遂げ、人気も最高潮であった。しかし、この頃からグレッグとディッキーが音楽面の方向性で意見が対立し、グレッグはソロ名義で「レイド・バック」を発表し、'74年にはグレッグ・オールマン・バンドとしてツアーを敢行、その模様をライヴ作品としてリリース。一方、ディッキーもカントリー色濃い
「ハイウェイ・コール」をリリースする。 '75年オールマンズとしてのアルバム
「WIN , LOSE , OR DRAW 」 を発表するが、バンドの状態を反映した散漫さが感じられるところとなり、マイナー・ヒットに終った。翌年、ロード・マネージャーの麻薬売買関与によるグレッグの偽証事件が起こり、メンバーとグレッグの間の亀裂は決定的なものとなってしまう。こうして悲劇のバンド、
オールマンズはいったん幕を降ろすこととなるのだった。
バンドが自然消滅した後、 メンバーたちは各自活動をしていたが、'79年
新メンバーを加えた形で再結成、1枚のアルバムを発表した後
'81年には再度解散。'87年にグレッグは自分のバンドを率いてシーンに復帰、2年後の結成20周年目の記念ボックス発表と同時に正式にオールマン・ブラザース・バンドとして再々結成された。'90年
「SEVEN TURNS 」 、'92年 「SHADES OF TOW
WORLDS」 、そして久々のライヴ盤 同年「AN
EVENING WITH THE ALLMAN BROTHERS BAND -
FIRST SET」 と立て続けにリリースし、ライヴ・ツアーも行い来日公演も果たしている。'94年
「 WHERE IT ALL BEGINS」 を発表した翌年 '95年には再度ライヴ
「2ND SET」 をリリースし、揺るぎないサザン・ロックの醍醐味を堪能させてくれている。
数々の悲劇や出来事の渦中に在りながらも、いつの時代も南部らしい温かいメロディと素晴らしいライヴでのインプロヴィゼィションを守り続けてきた彼等。
オールマンズの 「アメリカの魂」 と呼ばれるサウンドはこれからもラジオから流れ続けることだろう。
Favorite Album
|
|
「AT FILLMORE EAST」
1971年作品
1. STATESBORO BLUES
2. DONE SOMEBODY WRONG
3. STORMY MONDAY
4. YOU DON ' T LOVE ME
5. HOT 'LANTA
6. IN MEMORY OF ELIZABETH REED
7. WHIPPING POST |
|
今さら何の説明も必要ないであろう、サザン・ロックはもとより、ロック史に不動の名ライヴ盤として刻まれている名作。
この作品については1曲ごとのコメントなど無意味であり、ただひとこと、聴いて、感じてほしいと言うだけ。この類を見ないシンプルで完成されたジャケットとともに、天衣無縫のスカイ・ドッグ・デュエィンのスライド、ディッキーとの息を呑むツイン・リード、この熱気と緊張感にどっぷりと浸かり、フィルモアのオーディエンスとして溶け込んでもらいたい。
|