Johnny Winter

白人最高のブルースギタリストと称され、シカゴブルースの大御所マディ・ウォーターズが「俺の息子」と語ったジョニー・ウィンター。アルビノ(白子)というハンデの痩身から生まれる火を吹くスライドプレイは圧巻。ミュージシャンの中にも彼を崇拝する人は多い。


Jeff beckと並んで長年愛し続けてきたギタリストです。素晴らしいテクニックと一度聴いたら忘れられないその声、その容姿は類い稀な存在でしょう。彼ほど人種の壁を超えてブルースを理解し、自分のものにしたギタリストはいないかもしれません。ブルースに賭けた彼の生き様そのものがブルースであり、才能とともにこよなく愛しています。いつまでもブルース・マンとして現役で活躍して欲しい敬愛するプレイヤーです。


概略紹介Johnny Winter

「100万$のブルース・ギタリスト」というかつてないキャッチ・フレーズでシーンに登場した彼は1944年2月23日 米国はテキサス州バーモントで生まれた。生まれつきのアルビノというハンディを持ちながらも音楽好きな両親のもとで弟 エドガー (彼もジョニーと同じくアルビノで、'70年代初頭からファンクをモチーフにしたポップ色のあるモダンな作品を作り出したロック・ミュージシャン。) とともに幼い頃から楽器に親しんで成長し11歳の頃、その後を決定づける運命の楽器、ギターを手にすることとなる。以来、チャック・ベリーなどのロックン・ロールや ハウリン・ウルフ、マディ・ウォータース、B.B.キング等のブルースを聴いていくうちにジョニー少年は独自のブルーススタイルを確立していくのである。ハイスクール時代にはエドガーと共にバンドを組み、南部のクラブなどをサーキットしていたらしいが、大学への進学のために一度は音楽から離れることとなる。しかし、どうしても音楽を捨てきれなかった彼は大学を中退、再びローカル・バンドに参加しクラブまわりなどの活動を始める。

'68年12月、「ローリング・ストーン」誌にテキサス出身のミュージシャンとしてジャニス・ジョプリン、スティーヴ・ミラー等とともに 「大胆でつかみどころのない凄いプレイをするブルースギタリスト」として紹介され、大いに反響を得た。このレビューがきっかけとなり翌年'69年にメジャーレーベルCBSコロンビアとの契約に成功する。この契約ではCBSとRCAとの間で壮烈な獲得合戦があったとされ、最終的にCBSが提示した契約金が100万ドルであったといわれ、ここに伝説のキャッチ・フレーズが生まれたのだった。こうして翌 '69年、100ドルのブルース・ギタリストはアルバム 「JOHNNY WINTER」でデビューする。噂に違わぬ嵐のようなギタープレイはブルースファンのみならず、ロックファンにも多大な衝撃を与え、デビュー・アルバムにして全米24位までヒット・チャートを駆け上がり、一気にその名はシーンに轟いたのである。その後、セカンド・アルバム 「SECOND WINTER 」 をリリース、'70年にはマッコイズのリック・デリンジャー等と新しいバンド 「ジョニー・ウィンター・アンド」を結成。アルバム「ジョニー・ウィンター・アンド」を発表、引き続き'71年、ステージの熱気を封じ込めた 「ジョニー・ウィンター・アンド・ライヴ 」でロック界においても地位を築いたのであった。しかし、この頃からハードなツアー・スケジュールなどによりドラッグ漬けとなってしまったジョニーは病院に入院することとなってしまう。その後シーンに復帰するのは'73年になってからだが、カムバック作 「スティル・アライヴ・アンド・ウェル」 など数枚のアルバムをリリースするも、彼の本流であるブルース色が薄らいだ感のあるこの当時のアルバムは、話題をさらうまでに至らなかった。

'76年 「CAPTURED LIVE 」 、同年6月 弟エドガーと競演した唯一のライヴ盤 「TOGETHER 」 を続けてリリース、ブルース感溢れるプレイを披露し、復活を遂げてくれたのである。そして'77年、その後の方向を決定づける作品が登場。ジョニーはビジネス化したロック界に嫌気がさし、私財を投じ自らのレーベル"ブルー・スカイ"を立ち上げ名作 「NOTHIN' BUT THE BLUES」 を引っさげてブルース一筋の道を歩むことを宣言したのであった。このアルバムはそれまでにない筋金入りのブルース作であり、当時の彼がやっと自分が何をすべきか悟ったかのような自信に満ち溢れた素晴らしい作品に仕上がっている。ちなみに同年'77年にシカゴ・ブルースの偉大なる父、マディ・ウォータースのアルバム 「HARD AGAIN」 をプロデュース、ブルー・スカイからリリースしている。以後マディが亡くなるまる'83年まで父と子のような関係を持ちながら合計4枚のアルバムを送り出し、グラミー賞に輝く功績を残している。マディと過ごした日々は生涯忘れられない想い出のようで、インタヴューの中でも数多く語られているところである。'78年 「WHITE HOT & BLUE」 を同レーベルからリリースするが、親レーベルであるCBSがセールス向上のために音楽性の方向転換を迫ったため、意見の合わないジョニーは'80年 「RAISIN' CAIN」 を最後にブルー・スカイを離れることとなったといわれている。
その後、再びシーンに戻ってくるのは'84年。ブルースの名門レーベルであるアリゲーターから 「GUITAR SLINGER」 、続いて翌年'85年には 「SERIOUS BUSINESS」をリリースするという復帰を果たした。'86年にはアリゲーター3枚目となる 「3rd DEGREE」 を発表。数多い彼の作品の中でも名盤との呼び声の高い完成されたアルバムである。こうしてアリゲーターに3枚の作品を残した彼は、'88年にMCAに移籍し、ZZ TOPのプロデューサーを迎え 「THE WINTER OF '88」 を発表するが、同作品はジョニーの意向があまり受け容れられず、時代を反映したポップなスタイルで構成され、レーベルがセールスを狙って作らせたものであったと伝えられており、ファンの間でも賛否が分かれる問題作となっている。こうしたアルバム製作の過程に不満を持った彼はたった1枚を残しMCAを去ってしまうのである。

こうして自らのブルースを貫き通すためにさまざまなレーベルを渡り歩いた彼は'90年に 「LET ME IN」 を大手のヴァージン・レコード傘下のポイント・ブランクから発表し、健在ぶりを示してくれた。'92年には 弟エドガーがゲストとして迎えられ話題となった 「"HEY, WHERE'S YOUR BROTHER?」 を、'98年には久々のライヴ盤 「LIVE IN NYC '97」 を発表している。現在のところこのライヴ盤がジョニーの最新作ということになるが、彼はニューヨークをはじめ、各地でライヴ活動を行っており、まだまだそのブルース魂の炎が燃え尽きることはなさそうである。

ちなみに、日本公演は実現寸前で体調不良のために流れており、いまだ実現していない。一度はライヴを体験したいというのは私に限らず多くの熱心なファンが望んでいることであり、是非ともジョニーに日本の土を踏んで欲しいと熱望する。


Favorite Album

「3rd DEGREE」
1986年作品


1.Mojo Boogie
2. Love, Life And Money
3. Evil On My Mind
4. See See Baby
5. Tin Pan Alley
6. I 'm Good
7. Third Degree
8. Shake Your Moneymaker
9. Bad Girl Blues
10. Broke And Lonely
数多い作品の中でも最高傑作として知れる名盤。
40歳を過ぎたジョニーが、それまで培われたものを凝縮させて生まれた作品のように思う。それは1曲目のMojo Boogieでマシンガンのようなギターの洗礼を浴びた時点で感じ取ることができよう。3はお得意のドブロをかき鳴らし軽快な歌声を聴かせ、5ではドクター・ジョンが流れるようなピアノで花をそえ、ファンキーなナンバー10で締めくくられている。全体に伸びやかで自由にプレイしている雰囲気が心地良い。
この1枚を聴くだけで一杯のウィスキーが味わい深くなるような美味しい一枚。