この絵本は輪廻とそれからの解脱について書かれているように思います。
100万回も死んで、100万回も生きたとらねこの話です。100万人の人がかわいがり、100万人の人が、ねこが死んだとき泣きました。しかしねこはどの飼い主も嫌いでしたし、一回も泣きませんでした。
ある時、だれのねこでもなく、のらねことして生まれました。ねこははじめて自分のねこになりました。どんなめすねこも、ねこのお嫁さんになりたがりましたが、相手にしませんでした。ねこは誰よりも自分が好きだったのです。
しかし「おれは100万回も死んだんだぜ」と言っても、興味を示さない白いねこが好きになりました。ねこは白いねこのそばにいつまでもいました。子ねこがたくさん生まれました。もう「おれは100万回も…」とは決して言いませんでした。白いねことたくさんの子ねこを、自分よりも好きなくらいでした。
白いねこと一緒にいつまでも生きていたいと思いました。ある日、白いねこはうごかなくなっていました。ねこははじめて泣きました。100万回も泣きました。ある日のお昼にねこは泣きやみました。ねこは白いねこのとなりで静かにうごかなくなりました。
「ねこはもう、けっして生きかえりませんでした」
親鸞聖人は輪廻ではなく流転という言葉を使われます。輪廻の元の意味は「流れる」ということです。真実なものに出遇うことのない人生では、いくら一生懸命に生きていても、立脚地を持たず、流れ流れて、どこへいくのかわからないままです。空しくすぎていく人生です。本当に生きていないのだから、死ぬことができないのです。
リングワンダリング(循環彷徨)という言葉があります。雪山で視界のない時、真っ直ぐ歩いているつもりでも円を描いてしまい、いつの間にか元の所に戻ってしまうことです。それは利き足の方が強いために、利き足とは逆の方向へ曲がってしまうからです。流転する人生では、自是他非(自分が正しく人は間違っている)の方へ回ってしまいます。
ねこは100万回も生きましたが、自分が自分がという思いだけが、いつまでも続いていたにすぎません。いつも同じことを繰り返しているだけのことでした。だから白いねこは興味がなかったのでしょう。
ねこは白いねこに出遇うことで、真実なものを見つけ、本当に生きました。だから、もう生まれ変わる必要がなくなったのです。
仏教では輪廻することは苦しみが永遠に続くということです。それを中国や日本では誤解しました。死んでも生まれ変わる、つまり死んでも死なないんだ、永遠に生き続けることができるんだ。このように考えたのです。
しかし、仏教ではそのように考えない、そして霊魂の存在を否定することは知っておくべきことです。
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