真宗大谷派 円光寺 本文へジャンプ

 八木義彦さん
    「五年生 私の還らぬ灼熱(あつ)い夏」

 戦後を生きぬいて
 
  1

 私は広島市立白島国民学校の五年生。その日、8月6日(月曜日)、学校は夏休みに入っていたが、その日は登校日になっていた。

 白島国民学校は、市内電車の白島線終点電停のすぐ近くにあった。校門を入るとすぐ右側には生け垣があり、その奥には勅語奉安庫と二宮尊徳さんの銅像があった。登下校の時には皆、丁寧におじぎをして通る。
 校庭の真ん中には学校の守護神でもあるかのような、大きな柳の木が一本、長年の間、生徒の成長を見守っている。今朝も爽やかな風に大きな影がゆるやかに地面をはいている。何も変わった事もない。今日一日の暑さを約束したような夏の朝であった。

 平和な時代であれば一学年で五組ぐらいの生徒がいたはずである。戦時中で戦況は日々、日本が不利に傾いていた。米軍機の空襲も日を追って激しくなり、その被害は子供たちにも容赦なく降りかかる。将来を託す子供たちの被害を避けるために、爆撃のない田舎に避難させる必要があった。
 田舎に親戚縁故のある家庭はそちらを頼り、また縁故のない子供たちは、集団で郡部のお寺や神社、集会所等で疎開生活をした。まだまだ親の庇護が欲しい幼い子供たちが、国の命令で親元を離れて淋しい生活を余儀なくされた。何らかの事情でどちらにも行けず、学校に残った児童が各学年に20人~30人ぐらいはいたように記憶している。
 他の学年の生徒の教室はよく憶えていないが、一学年で一クラスぐらいの生徒しか残っていなかったはずである。
 校舎は木造二階建で南向きコの字型の建物だった。沢山ある教室のなかで、北側二階の一部屋が我々五年生の教室になっていた。

 空いた教室には兵隊さんが駐屯していて、屋根の上に土嚢(どのう)を積み上げ、機関銃を据え付けていた。この頃には敵の艦載機のグラマンやロッキード等の戦闘機が頻繁に飛来して、急降下機銃掃射を繰り返し、市民を恐怖に陥れていたのだ。
 空襲警報の度に防空壕に逃げ込むのだが、敵機の機銃弾は二階の屋根から一階の床下まで突き抜ける凄さだった。
 飛来するのは艦載機だけではない。テニアン島を基地とする、B29やB25等の大型爆撃機が一万メートル以上の高々度上空を、キラキラと銀紙のように光りながら長い飛行雲の尾を引いて現れる。
 高空の爆撃機には高射砲が砲口を開き、懸命に応射するが、残念ながら敵機に脅威を与えることは出来ず、悠々と飛び去っていく。
 敵機の来襲に備えていた屋上の機関銃も、敵機に被害を与えるような威力はなかったように思う。頼りの兵隊さんも再度召集された高齢の兵隊さんばかりで、武器も旧式とあっては敵機と対等に渡り合えるはずがない。
 若い兵隊や最新の武器はみな戦場に送られて、全く無防備に近い街の上空を我がもの顔で飛来し、毎日のように警戒警報や空襲警報の連続だった。警報が出る度に防空壕に飛び込む。それが真夜中であろうと、食事中、いやたとえ便所にいてもである。

 夜は灯火管制で電灯に黒い布を被(かぶ)せて、灯りを外へ洩らさないように部屋を暗くした。これは敵機の夜間爆撃の目標にならないために市街地全体を闇にしたのであった。こんな事がどれほどの役に立ったか疑わしいが、戦いに勝つためには、と信じて堪え忍ばねばならない。全ての国民が厳しい暮らしを強いられ続けたのだ。

 当時我が家の家族は、父と姉三人、私と妹弟、それに叔父の八人家族で、疎開はせず市内に踏み止まっていた。母は弟の猛(昭和16年5月生)を出産後、産後の肥立ちが悪く、昭和17年4月に亡くなっている。
 母は九人の子供を出産(うち二人は夭折)し、貧乏人の子沢山で、子育てと姑、小姑の大家族の中で、体も心も休める事を知らず、家族に尽くし続けながら若くして(43歳)で逝った。私が8歳の春だった。線香の絶えない枕元で、祖母は私が代われたらと涙していたのを憶えている。
 長兄が兵役で中国の南京に出征して、生還の保証がなく、次男の私が跡取りとして母や祖母に可愛がられた思い出も、心の片隅に残している。その祖母も被爆直前の昭和20年7月に他界した。

 家業が麺類の製造卸と、広島の陸軍第五師団部隊内の酒保(しゅほ)(兵舎内の食堂と売店)に店舗を出していた。私と妹弟の三人を除いては、みな家業に従事していたために、疎開は出来なかったのだが、それが一家の悲劇につながったのである。

 学校の始業時間は8時30分だったので、核爆弾が炸裂した8時15分には、通学途中の生徒もいれば、校庭で遊んでいた友達もたくさんいた。私は学校に着いたばかりで教室の中だった。これが運命の別れ道になったのである。教室にいたために、今こうして被爆後半世紀というくぎりで手記を綴ることが出来るのだ。
 その教室は二階で北向きに位置していた。その場所が校内では数少ない生き残れる場所だったと思う。何故なら、爆心地からわずか1・5キロの地点にあった学校である。もし校庭で遊んでいたら、あの熱線で一瞬にして灼(や)かれていただろう。一階の教室にいたら、爆風で押し潰された校舎の下敷きになっていた。その時の同級生達も今消息が解るのはわずかに三人であり、他の友の生死は全く確かめようもないのである。

  2

 8時15分。瞬間その時、何が起きたのか全然記憶がない。ただ朦朧(もうろう)とした意識の中で夢でも見ているようで、高い熱にうなされて体中の節々が砕けたようで、手にも足にも力が入らないし動かすことさえ出来なかった。目は覚めていて開けているのに何も見えてこない。その間、どれくらいの時間が経過したのかは全く憶えがない。

 次第に戻る意識の中で目の前のものが見えてきた。そこは今まで自分がいた教室のはずだったが、無残に押し潰されたジャングルジムの中に閉じ込められているようだった。猛烈な爆風で木造の校舎は一瞬にして完全に倒壊していたのだった。爆心地から1・5キロの近距離である。木造の校舎などひとたまりもなく崩れ去った。
 折り重なる瓦礫(がれき)に押さえ付けられて身動きが自由にならない。それでも首だけは動く。上の方に目を向けると、少し隙間があって明かりが見える。だが体は金縛りになったようで動かない。誰も助けに来てくれる気配がない事はわかった。

 何とかここから出なければと、手を延ばし体をひねり足を踏張り、無意識のうちに覆い被さっていた机や折れた柱の間をくぐり、明かりに向かって少しずつ這(は)い出す。するとだんだん明かりが大きくなり、やっと潰れた校舎の上に這い上がる事が出来た。二階の校舎は無残にも平屋建ての建物ぐらいに低く押し潰されていたのだ。
 その間、どれだけの時間か経っていたか解らないが、その時にはすでに校舎の端から火の手が上がり燃え広がっていた。もうもうと立ち上がる煙と土埃で、あまり遠くまでは見えなかったが、潰れた屋根の上から見えたのは、小学生の子供の想像力の限界を超えるものだった。

 朝方出ていた空襲警報は解除されていたので、爆弾にやられたとは思えず、それは途方もなく大きな地震が、街全体を一呑みに押し潰したように感じられた。近くで何箇所からも火の手が上がり炎を吹き上げている。
 足がすくんで何かを考え、どう行動するかの意識が完全に失われて、目の前の出来事は夢ではなく現実なんだと、すぐには理解できなかった。三百六十度視野に入る全てが破壊し尽くされている。

 だが、潰された校舎の下から助けを呼ぶ生徒の声や、兵隊さんの悲痛な叫びで現実に引き戻された。建物の下からは「たすけて、たすけて」の声が、あちこちから聞こえてくるが、どうしようにも手の出しようがない。崩れて折り重なる材木に手をかけ、渾身(こんしん)の力で引き上げようとしてもびくともしない。

 音をたてて燃え上がる焔は、勢いを増してすぐ近くまで迫ってきた。救(たす)けを呼ぶ声は絶え間なく聞こえてくるが、子供の力はそれを叶えることが出来ない。一人も助けることは出来なかった。何一つとして出来なかったのである。
 もし、自分も瓦礫から這い出せなかったら同じ運命をたどったであろう。火勢に追われるように校庭に飛び出すと、今まで元気に校庭を跳ね回っていた生徒の顔や手足が、赤黒く灼(や)けただれ、倒れ、ひざまずき、うずくまりながら必死に何かを訴えようとしている。だがそれが何を訴えているのか、声に、言葉になって出てこないし、聞こえてこないのだ。
 確かに友達であるはずなのに誰だか見分けがつかない。それほど黒く酷く灼(や)け爛(ただ)れていた。顔から腕、胸、足にかけて肌の出ていた所は全部灼かれていて、着ていたものと肌との区別がつかない。真っ黒い顔で目と口を一杯に開き、手を差し伸べて声にならない苦しさを訴えてくるが、何もしてやることが出来ない。学校に駐屯していた兵隊さんもかぶっていた帽子の所だけ髪を残して、その下から線を引いたように火傷を負っていた。

 校庭の大きな柳の木、この木は学校のシンボルだったが、無残にも引き裂かれ、小枝は吹き飛ばされて、太い幹が剥出しになってブスブスと煙をあげている。威風堂々と校庭の真ん中で学校の全てを知り尽くしていた大木も、強烈な熱線と爆風に抗す術(すべ)をもたなかった。

 比較的傷の浅い人たちもいて、それぞれ大きな声で叫んでいる。「早く火を消そう」とか「そこに人がいる。救(たす)けろ」とか聞こえてはくるが、周囲は完全に倒壊していて、常日頃から準備してあった消火器材等も下敷きになり、手のほどこしようがない。当時は空襲に備えて各戸別に防火用水槽があったが、そんな物は何の役にも立たなかった。

  3

 私は急いで家に向かった。家族がたくさんいて、父、姉、妹、弟の顔が目の前に浮かぶ。一時も早く消息を知りたい。周りの人達がそれぞれひどい怪我をしているので尚更だ。

 少しでも早くと気が急くのだが、もう道路は道ではなくなっていた。電柱は倒れ、散乱した瓦や、ガラス、崩れた木材で道の見極めも出来ない。その頃の道路は道幅も狭く、両側の家の軒が道を塞ぐように折り重なって崩壊している。垂れ下った電線をかいくぐり、割れたガラスに足を滑らせたり、歩くのではなく、まるで這い進むようだったのを憶えている。学校から我が家までは三百メートル余りしかなかったが、その短い距離が日頃の十倍もの時間に感じられた。

 我が家は学校より爆心地に近く、帰り着いた家はこれが我が家かと見紛うほど完全に瓦礫(がれき)の山と化していた。近所が全部倒壊しているので隣との境の区別さえつかない。
 我が家と見当を付けて瓦礫の下を覗き込み、力一杯の声を張り上げて親兄弟の名を呼び続けた。あちこちと呼んでは瓦礫の下を覗き、呼んでは耳を当てて物音を確かめた。何度も何度も同じ事を繰り返し呼び続けた。が、何処からも誰からも応えはなく、悲しくなるほど物音が消えている。

 確かに今朝まで、わずか一時間前までは皆元気だったのに、朝ご飯も一緒に食べたのに、それなのに助けの一声も聞こえない。何故なんだ。倒れた家の下敷きになって身動きもできず、声さえ出せないのか。中には誰もいないのか。倒れた家は中に入る事も出来ないくらいペシャンコに潰れている。

 そして近くに火が付き、こちらに燃え広がってきた。その場を離れることができず、ただ茫然と立ち尽くすしか術がない。その時、「そこにいたら逃げ遅れるぞ」という大きな声と同時に、腕を強く引っ張られてハッと我にかえり、「早く逃げろ」の声に追いやられて北に向かった。
 それでも、二度も三度も後を振り返る。しだいに煙に包まれていく我が家が今でも脳裏に焼き付いて離れない。瓦礫(がれき)の下敷きになって声も出せず、救(たす)けを待っていたのではないか、との思いがどうしても逃げる足を鈍らせる。救けることも出来ずに逃げる罪の意識と、逃げる姿を後からじっと見られているような気がしてならない。するとまた「ぐずぐずするな。早く逃げろ」と兵隊さんの声が飛んできた。もう危ない。今すぐここを離れないと今度は自分が火に巻き込まれてしまうだろう。

 頭の中は空っぽで真っ白になり、自分の意志ではなく避難する人の流れに押されて、ただ北に向かって逃げ、山陽本線の踏み切りを渡り、長寿園の土手に出た。
 その辺りには桜並木があり、土手の右手は枳殻(からたち)の生け垣で囲まれ、その向こう側には工兵隊の兵舎がある。春には土手一杯に桜が咲き競い、紅白の幕を張り、ぼんぼりが吊り下げられた。思いおもいに弁当をぶらさげて、多くの人が花見の宴を張り、夏には清流に子供たちが水遊び、魚釣り、虫取りと絶好の遊び場天国だった。川の流れは清く澄み、上流からは筏がゆっくりと下り、季節には白魚取りの四つ手網の舟も出た。
 のどかな長寿園の土手が今、私の貧しい表現力で言葉では表すことなどとてもできるものではない。たとえこの世に地獄があったとしても、これほど凄惨であり残酷なものではあるまい。次々と逃れてきた多くの人々は着る物も履く物も満足な人は誰一人としていない。髪は抜け落ち、顔から手足にかけて着ていたシャツの上から灼(や)け爛(ただ)れている。その皮膚は顔から手足に垂れ下がっていて、まるでぼろ雑巾をぶら下げたように見えた。中には男女の区別さえ付かない人が、やっとここまで逃げて来て力尽き、声もなくたおれている。

 この広い土手は傷つき、灼(や)け爛(ただ)れた人々で溢れ、それでもまだ猛火に追われて市街地から逃れてくる人は続々と後を絶たない。歩ける人は川に入り、頭まで水に浸かり、水を飲み、体を冷やして、また北に向かう。ここまで来て力尽き、真っ黒に汚れて倒れ込んだ人々が「水、水を下さい。お願いです。水を少し飲ませて下さい」と叫び、哀願している。傷の浅い人がタオルやシャツを水に漬けて、動けない人の口に含ませるが、一口飲んでそれきり動かなくなる人もいた。
 水が欲しいのです。みんな水が欲しくて川の近くで力尽き、土手には数えきれない人が横になり、うずくまって呻き声を上げている。二、三才くらいの子供を布に巻き、抱きかかえたお母さんが、ビンに入れた水を何度もなんども口移しにのませていたが、あの子は助かったのだろうか。
 川は干潮時だったのか、流れは膝から腰くらいまでで、それほど深くはなかったように記憶しているが、暑さと喉の渇きに我慢できず、流れに入りそのまま顔が上がらず、下流に流される人もあった。

 市街地の火勢はますます強くなり、すでに全市が火の海に呑み込まれていた。夏の強烈な太陽でさえかすむほどの黒煙と、熱風に襲われて北に逃げるより途(みち)はない。
 私も工兵橋の下を牛田側に渡り、戸坂の方角に逃げ道を決めた。そのずっと先には母の里高田郡三田村(現安佐北区白木町)があり、そこには祖母がいた。そこを逃げ場として歩き始めると間もなく、暑い空が急に真っ黒い雲に覆われ、大粒の雨が土埃を跳ね上げて激しく襲ってきた。その時には、灼(や)けて傷つき、熱のある体に恵みの雨に思えたが、爆風や火災で吹き上げられた灰、埃、煙で灰色の雨となり、放射能を含んだ恐怖の死の雨だったのである。

  4

 傷ついた者がお互いに肩を借りたり、棒切れにすがり付いてただ北に向かう。身動きの出来ない人の多くは、炎に追われながら救けが来るまでじっと待つしかない。だが、救援が来るあてなど全くない。それは即、死を意味することにもなるのだ。自力では動けないまま炎に巻かれ、生きながらにして焼け死んだ人の数は数えきれない数字になろう。

 不動院前を通り、戸坂に入ると、この辺りから家屋の被害も軽くなり、倒壊した家は見かけなくなったが、それでも戸や窓ガラスは吹き飛ばされ、屋根瓦もめくれ上がっている。
 付近で被災を免れた人達が、次々と逃れてくる負傷者の救護に当たっていた。中にはお医者さんもいたが、物資不足の頃で満足な薬もないうえに、怪我人の多さに手の下しようもなかった。傷口を水で洗い、赤チンキを塗ってもらう程度だった。深い傷口は麻酔もなく縫合している。あまりの痛さに意識を失う人もいるが、それでも手当てをしてもらえる人は限られていた。

 身に付けたものが破れ、裸に近い人には、シャツやズボン、夏着の薄物等を配っていたが、火傷の人には腕も足も通すことができない。皮膚が破れ、ぼろぼろになって垂れ下り、赤く腫れて汁が吹き上がっていて、着ることも着ている物を脱ぐことも出来ないで、皮膚に貼りついたシャツを鋏で切り取り、肌にべっとり付いた布切れを剥がす。後は水で洗い、冷やして赤チンキを塗るだけであった。
 重傷の人は次々と戸板に乗せられてテントの中に運ばれて行く。すぐに手厚い看護をしなければ危険な状態でも、そのまま寝かされているだけであまりにも惨(みじ)めだ。ただ水を与え、励ましの言葉をかけるだけで手の施しようがない。襲ってくる死を運命と諦め、じっと待っているだけなのか、悲しさを超えた虚しさと死に対する不安で声もない。

 途中、救護に当たっている人達に市内の様子を問いかけられた。それぞれが市内に出かけている肉親や知人の安否を気遣っているのだ。「何処から逃げてきたのか」「何々中学の生徒をみなかったか」とか「何々学校は壊れたか」と矢継ぎ早に問い掛けられるが、誰一人として満足な答えは返せない。
 その頃は国家総動員の美名のもとに、学徒動員や勤労奉仕などで近郊の人達が、市内の軍需工場や建物疎開の奉仕活動を強いられていて、その日も市内に出た人が沢山いたのだ。

 芸備線の矢口駅に列車が入っていた。ここから先、広島駅の方は行くことは出来ず、三次方面に引き返す事になった列車に乗り、母の里がある中三田まで行くことにした。勿論、列車は満員で、わずかな隙間に挟まるように乗り込んだ。列車の中もデッキまで怪我人で溢(あふ)れている。まるで地獄行きか、火葬場直行の列車に乗っているようだ。
 ホームにいる人に窓から水が入ったビンをもらった。ホームで見守る人達も他に何もして上げる事が出来ないのだ。

  5

 母の里も男はみんな兵隊に行き、祖母一人で留守を守っていた。中三田駅から祖母の家に着く間に、父か誰か姉弟が先に避難しているかと期待していたが、その期待は完全に裏切られた。
 祖母があれこれ矢継ぎ早にいろんな事を問いかけてくるが、何一つとして祖母に理解できるような満足な答えは出てこない。「義彦、あんた怪我をしとるで」と言われて、初めて自分を意識した。
 被爆の瞬間は校舎の中だったので、幸い火傷はしていなかった。下敷きになった時に受けた傷だ。右目の上に切傷と耳たぶが切れ、そして手足に血がこびり付き、顔は真っ黒に煤(すす)け、それに気が付いてみれば裸足だった。言われるまで気付かず、またそれほど痛みを感じなかったのが不思議だ。

 時間はすでに午後3時をすぎていた。祖母が麦ご飯の握り飯を作ってくれた。朝食後は何も食べていなかったので、腹は空いているはずなのに喉を通らない。しきりに喉が乾くのだ。
 家族のことが気がかりである。あの時、潰れた家に何度となく呼びかけたが、返事がなく消息も解らないまま、次第に炎に包まれた我が家を後に逃げなければならなかった。その事で自分を責める気持ちを拭いきれなかったのだ。

 その日は家族の内の誰一人として連絡も消息も掴めなかった。翌7日も一日中不安と期待にかられて、汽車が着く度に駅に駆けつけたが、その度に失望と不安を重ねるだけに終わってしまった。

 八人もいた家族がみんな死んでしまい、自分一人になったんだ。もう親姉弟の誰にも逢えないだろうか。そんな悲しさ、淋しさが11才の私に襲いかかってくる。もうじっとしてはおられない。原爆投下二日後の8月8日になっても、誰からも何の連絡もない。もうじっと待ってはいられなくなった。

 祖母に握り飯の弁当を作ってもらい、竹の皮に包み、風呂敷にくるんで汽車に乗り、広島に向かう。列車は救援や肉親探しの人で大混雑だった。切符は買わずに乗れたと思う。確か当分の間、無料だったと記憶している。
 途中、大きな声で話す人はなく、みんな声を落としてひそひそ話だったが、「あの爆弾は新型の爆弾で、先にピカッと光ってドーンと音がした」と話していた。遠くから見るとそうだったのだろう。後から巨大なきのこ雲が沸き上がったのも見えただろう。

 その後、日も経たずに「ピカドン」と「ヒロシマには70年間は草木も生えない」と噂が広がった。ピカドンがどんな爆弾なのか、70年も草木が生えない事がどんな事なのか、十一才の私には理解できなかった。
 軍と警察は市内の被害状況が外部に漏れるのを恐れて、箝口令(かんこうれい)が出されている事も話していた。何故なら、たった一発の爆弾で一つの都市が壊滅してしまった。この実態を国民が知り、その結果として、全てを犠牲にし、苦しみ、戦ってきた国民の戦意が低下するのを、軍部の中枢は非常に恐れたのである。

 列車は戸坂駅で折り返しになり、そこからは歩いて市内に入る。その頃から風向きによって何とも云えない異臭が鼻をつく。毛糸を焦がすような、魚とゴムが一緒に燻(いぶ)るような、とても表現できない異様な吐き気がする臭いだった。
 救護の人の流れに付いて歩き、牛田から神田橋に辿り着くと、橋の下では小舟や筏に乗った兵隊さんが、竹竿や竿の先に鈎(かぎ)が付いた材木を扱う道具で、多くの水死体を集めて川原に運んでいる。
 一口の水を求めて川に入り、そのまま力尽きたのであろか。大きく膨らみ腐敗が始まっている。惨めで無残で正視できるものではない。おそらく他の川でも同じ事だったろう。

 神田橋の上から見渡せる市街地は、完全に焦土と化し、かろうじて倒壊を免れた幾つかのビルが途中なんの障害物もなく目に入る。その向こうには瀬戸内の島が直接すぐ近くに見え、山の緑が場違いの景色のように感じられた。

 まだ市内のあちこちでは大きな建物が火を吹き、くすぶり続け、溶けた水道の鉛管からは水が吹き上げている。たった二日前まで営まれていた暮らしは、あれは一体なんだったのか。目の前に見る悲惨を極めた現実を子供の私が整理し理解することはできなかった。

 まだ遺体の収容さえはかどってはいない。焼け跡の至る所に焼け残った木材とも、焼死体とも見分けが付かないくらい焼け爛れた遺体が散乱している。男女の区別もできず、ただそれが遺体と解るのは、蝿が集まっているから見分けが付く。これだけ広く焼け尽きた死の街にも蝿は出ていたのだ。
 道端に掘ってあった退避壕の中に折り重なり、防火用水に頭から体半分突っ込んで、腰から下は骨になるほど焼けた遺体もある。言葉にならない惨(みじ)めな果てかたをしている。たとえ肉親であっても遺体を確認することは無理だろう。目も鼻も口も耳も閉じてその場にかがみ込んでしまいたくなる。

 肉親や知人の消息を尋ねる人々が、まだくすぶり続ける焼け跡になす術(すべ)もなく立ち尽くしている。ほんとうになす術がないのだ。それでも私は自宅の焼け跡へ急がなければならない。
 途中大八車が一台に五、六人の遺体を載せ、荒縄で縛って川土手へ運んでいた。とても仏さん扱いではなく、一人の人間に対する尊厳も敬意もない非情なものであったが、現実は一体ずつ丁寧でねんごろな扱いができない程厳しい状況でもあった。

 私の家は西白島町で、爆心地から僅(わず)か1キロ余りの至近距離にある。あらかじめ予想はしていたがその通りだった。跡形もなくきれいに全焼し、製麺機のシャフトが高熱で無残にねじ曲がり、投げ出されている。焼け残った機械の残骸で、やっと我が家の焼け跡を確認することが出来た。
 だが、そこには焼け爛れた瓦や溶けたガラス片が散乱し、炭化した庭木を残すだけで、二日前までそこに一家団欒があったとは思えない惨状との直面だった。この惨状は決して夢ではなく、現実に私はそこに立ちつくしている。
 避難していた近所の人にも会い、家族の消息を聞き回ったが、「まあ、あんた、よう生きとったのう」と言われるだけだった。他人の消息まで気配りは出来ないのだろう。唯一つだけ、人伝てで弟の猛(5才)によく似た子供が、勧業銀行ビルの焼け跡に収容されていたとのことで、急いでそちらに向かった。

 途中、福屋や中国新聞社にも、兵隊さん他大勢救護の人が戸板やトタン板を持って出入りしている。入る時には怪我人を乗せ、出て行く戸板は遺体を運び出している。これらの遺体は身元も解らず、川原に積み上げられ、油をかけて焼かれるのだ。無名無縁のまま葬り去られる。夜になれば川原や土手のあちこちで、遺体を焼く恨みの焔が火の粉を吹き上げ、火柱となって赤く青く舞い上がり、夜空を焦がしていた。

 勧業銀行にも広い一階に百人を超える人が収容されていて、左右に分けられている。片方はすでに息を引き取った人で、救援の人が遺体を調べ、身元が解れば記録に残して戸外に運びだす。
 肉親を探し求めて来た人は、ビンに水を入れて一人ひとりの顔を覗き込み、声をかけて尋ね回っているが、収容された人は重症者ばかりで身動きもできず、声をかけても確かな返事は返ってこない。ただ「助けて下さい」「水、水を飲ませて下さい」と、か細い声で呻き、哀願するのがやっとだった。医者はおらず、薬などあるはずがない。水を配り、飲ませるだけで手当てはされないままだった。ここでも傷の痛みと喉の渇きに苦しみ、不安と恐怖に曝され、死を待つ以外の途は残されていない。
 私も負傷者の間を縫うように、小さな子供一人ひとりに声をかけ、顔を覗き、寝返りまでさせて、「猛ではないか」「八木猛ではないか」と聞き回ったが、力なく首を横に振る子や、多くの子供は顔や手足も真っ黒で、火傷で皮膚が破れ、顔は腫れ上って、顔形で確認することはとてもできない。耳元に口を寄せ大きな声で名前を呼ぶが、みな返事ができる体力は尽きている。
 私はたまらず声を上げた。「猛、猛はおらんか。八木猛はおらんか」と返事が返るのを祈る気持ちで何度も何度も、「お兄ちゃん」との返事を待って何度も何度も繰り返し呼び続けていた。
 行方不明の肉親の中で、唯一人消息が掴(つか)めた弟だったので何としても捜し出してやりたかった。一人ぼっちになった自分が泣きたいほど淋しく、一刻も早く肉親の誰かに逢いたい、絶対に一人にはなりたくなかった。遺体で運び出された場所にも行ったが、そこにも何の手がかりもなかった。

 今でも心残りなのは、そこに居ながら、私の声が聞こえても体を動かすことも声さえ出せなかったのではないかとの思いだ。あの時、もう少し念をいれて探してやればと残念でならない。
 後で中国新聞社や福屋も探し歩いたが、虚しい努力に失意を重ねるだけだった。一日中、暑さと息苦しい捜索も報われる事はなく、長寿園の土手で遺体を焼く鬼火を見ながら、大勢の野宿の人達と一夜を明かした。失意と悲しみと疲れを引きずって、祖母へ辛い経過を報せることになる。

  6

 それからの数日は捜索の当てもなく、祖母宅裏の背戸に出て淋しさに耐える無為な時間を過ごした。祖母もあまり話しをしない。慰めを口に出せば、それがまた新しい悲しみを呼ぶ事はよくわかっていたのだ。二人の間にはその事以外には通じる話題があるはずがない。お互いに押し黙り、失意の日を繰り返し、ただ待つことだけの辛い日を送っていた。

 被爆から五日後に、妹と叔父が相次いで避難してきた。それぞれ顔と上半身に火傷や怪我をして、ボロボロの布切れをまとい、口も利けないほどの疲れようだった。それでも命にかかわる程の重症ではなかったので、お互いが肉親に逢え自分が一人ぼっちでない事を喜び安堵した。

 妹(小学一年生7才)は登校途中の路上で被爆したらしい。前後の記憶は曖昧だったが、気が付いた時には沢山の人と一緒で川土手にいたそうだ。被災後の全市を焼き尽くした大火から助かるには川の近くに逃げる以外にはなかった。
 身寄りのいない幼い女の子を心配した小母さんが面倒をみてくれたそうで、おぼろに憶えていた祖母の住まいと名前を聞き出してくれたそうだ。その方向へ行く人に託され連れられてきた。あの惨禍の中で妹がよく思い出したのと、自分の身を守るのが精一杯の時に、他人の子の面倒を厭わなかった方に深謝したい。

 叔父の火傷の手当ては大変なもので、首から肩、腕から手の甲にかけて皮膚が灼(や)け落ち、赤く腫れ、化膿して異臭を放つ。手当てをしようにも薬がない。祖母が近所から聞き付けて来て、胡瓜やじゃがいもを摺りおろして傷口に貼りつける。それ以外には手当てのしようがなかった。
 摺りおろした胡瓜を布に延ばして傷に貼るのだが、取り替える度に傷口に蛆が這っている。割り箸で一匹ずつ摘み取って、水で洗い流して貼り替える。生きた人間に蛆がわく、こんな事が信じられますか。油断していると、傷口に蝿が止まって卵を産み付けたり、傷口をなめるそうだ。すると傷口がヒリヒリと痛むらしい。生身の人間としてこれ以上の屈辱はないだろう。

 残る家族五人の消息は依然として不明のままだったが、まだきっと誰かが尋ねて来る。望みと確信で待ち続けたが、日を重ねる毎に望みは不安と焦りになり、絶望の淵へと沈んでしまった。捜索の手は尽くしたが、被爆後一ヵ月余りを経て消息は何一つとして掴めなかった。あの日の強烈な閃光で一瞬に灼(や)かれ、一条のけむりと化し、天に駆け昇ったのだろう。

  7

 悪魔に魅入られた兵器。一発の核爆弾で一瞬にして我が故郷「ヒロシマ」の街を焦土と化し、数多くの人命と全ての生物をあのきのこ雲と共に天高く吹き上げ、真っ黒い雨と共に地上に叩きつけたのだ。あの一機の爆撃機B29エノラゲイ。エノラゲイの名を忘れる事はないだろう。
 私と妹の二人だけが生き残り、父と姉弟五人が行方不明のままで、焼け跡から遺骨も出ず、昭和20年10月22日に行方不明のままで市役所に届け出た。

昭和20年8月6日午前8時15分本籍地にて被爆死。(五人共同じ)

 被爆五十回忌を期に、五人の死は確認出来ないまま、心にわだかまっていたものを整理して、やっと墓石に名を刻み、法要をすませ、私の戦後に終止符をうった。
 母と祖母の二人は被爆の惨禍を知らず、家族に見守られてねんごろに弔われた。遺骨の一片も残す事が出来ず被爆死した家族五人より、今となってはある意味で幸せだったのかとも思う。
 叔父は昭和25、6年頃に別居して、しばらく後、入院。未婚のままで昭和31年に亡くなった。死因は内臓疾患と聞かされた。妹と二人だけで通夜と葬儀を営んだ。

 被爆者に限らず、第二次世界大戦で数多くの尊い犠牲者を出し、その犠牲者によって支えられた今日の平和を忘れてはならない50年前の「ヒロシマ」「ナガサキ」を二度と繰り返す事のないよう祈る。

 1995年8月記