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「真宗入門」 (2ちゃんねるからの無断引用です) |
こんな簡単な宗教はないぞ。
「南無阿弥陀仏」と唱えよ、そうすれば成仏できる。
よいかね。
浄土系の宗派は、バカの中のバカ、無能の中の無能のための宗教だ。
修行? お布施?
全て不要。
南無阿弥陀仏と称えよ。それだけでキミの成仏が保障される。
なんでこんなに素晴らしい宗教の信者が増えないのか理解できん。
まぁ、分かりやすく教えすぎたために、強盗が「念仏すれば何をしてもいい」と勘違いして悪事に励む、ということが起きてしまうのだが。
もっと教学的な話をすると、阿弥陀仏は「全ての衆生を救わねばホトケにならぬ」という本願(ちかい)を立てた。
で、阿弥陀仏はホトケである=「全ての衆生は救われる」ということだ。
んで、そのためには「我が名を呼べ」=念仏せよ と言っている。
さらに言えば、教学的な考察をしたいやつは、念仏にそもそも向かない。
他力成仏をやめて、自力成仏をするのが良い。
自力成仏の最たるものは禅だな。
真に救われたければ、まず自力を徹底的に否定する。
自分を極端にまで貶める。
そのことにより自分が悪人の中の悪人でバカの中のバカでということが理解できる。
そしてそのことこそが救いへの最も近い場所にいるということだ。
阿弥陀様は悪人の中の悪人(つまり自分)をこそ救うからだ。
そういう境地に到れば、そもそも悪事を働こうという考え自体が否定される。
自分が悪人であると認識すれば、悪事は働けないのだ。
悪事を働く人間はみな自分が正しいと思っているから悪事を働くのだから。
…これであってたかな?
南無阿弥陀仏とは「阿弥陀仏に南無(帰依=随います)」という誓いである。
ちがう。
自力で悟れないのは自分がバカだからだ。
↑これを自覚することにより、自力で悟ることをやめ、阿弥陀様のお力にすがるのだ。
懺悔など必要としない。
そもそも「成仏」に関する死ぬほど面倒くさい思考や、教学をすべて「成仏に不要」とし、単純に阿弥陀仏に全てをお任せするのだ。
「おお、もう自分が悩む必要はないのだ。阿弥陀様はこの自力で悟れないバカをこそ済度してくださるのだ!!!」
自力で悟れる奴は他の宗教に行け。
深く考えないでいいのが念仏である。
何度も言うが、念仏の根本は「念仏すれば成仏できる」だ。
宗教は心を救うのだから、救われたい奴がまず阿弥陀様を認識しなきゃ話にならん。
んで宗教に関する悩みはすべて阿弥陀様にお任せ。
地獄も何も怖くない。
ただ誠実に一向に念仏するのだ。
空念仏を称えよ。
なんの意味もない言葉を称えよ。
でココまで達すればもはや来世の心配は何もない。
念仏すればするほど、自分がバカだと認識すればするほど、必ず救われるという確信をもてるのだ。
その確信をもてば、死を恐れる必要もなく、つまり死と死後の世界を恐れることなく、日々を安楽に暮らせるのである。
何かといえば「地獄に落ちるぞ、地獄は怖いぞ」という某宗教とは大違いである。
むしろ地獄に落ちるのはいいことだ。
阿弥陀様を信じていれば地獄に落ちた順番に救ってくださる。
阿弥陀様は地獄に落ちるほどの大悪人をこそ救うのだ。
どんつくどんつくは、信徒に毎日の修行を課しています。
念仏はただ称えるだけでよろしい。
毎日一万回称えたければそうすればよいし、ふと気がついたときに口から出るだけでもよい。
まぁ各宗派に入ればおのずから別でもあるが、念仏だけなら坊主はいらん。つか浄土系の宗派にもともと僧侶はおらん。
悩みがなくなって心が平和になり、死後のことを心配する必要がない。
少なくとも、死後に地獄にいく心配だけはなくなりましたので気楽なものです。
んで、この気楽さをみんなに広めようというのです。
ちなみに心の闇がとれるのと、悟りを開いての成仏とを混同なされないでください。
さらに言うと、自力成仏なら在世中にも仏になれます。
念仏すれば心は平和になりますが、真に悟ったわけではありません。
つか、自力で悟り、仏になれないから念仏するんです。
悟れないから来たる次の生で悟りを開こうと考えるわけですよ。
問 仏ってなに。
釈迦とどう違うの。
答 仏とは悟りを得たものの称号です。
お釈迦様は悟りを得られたときにブッダとなられました。
もし、利他心をもって、一心に念仏を唱えれば、きっと禅で言う「虚仮の自己」が消失すると思います。
仏教の真髄とは、この一点にのみあると思います。
火に焼け、水に溺れるこの肉体の自己とは、かりそめの自分にすぎないのだ、ということを自覚する。
「虚仮の自己」を捨てる手段として、いろいろな方法があるのだと思います。
ある人は「公案」で脳みそがオーバーヒートするまで悩み抜き、自己をぶち壊す。
別の人は念仏三昧になって、虚仮の自己をぬぎすて、妙好人として生まれ変わる。
問 だったら、どうして座禅をしないのですか。
答 なんで俺が禅にいかなきゃならん。
俺はバカだから、念仏でいいんだ。
お前は理屈をこねるから、禅にいって、理屈をいっぺん完全に破壊されてこい、といっているんだ。
いいかね、凡夫の中の凡夫にはそういう理屈が既に理解できないのだ。
じゃあ、そういうことを理解できない奴は救われなくて良いんだな?
そんなこたぁない。
だから、バカのためには念仏がある。
頭のいい奴は禅とか他の自力門に行け。
念仏しなきゃ成仏できないわけじゃない。
普通にやってると成仏できない人のために念仏があるのだ。
問いと答え
問 成仏とはどういうことでしょうか?
答 貴方の悩みがなくなって心が平和になり、死後のことを心配する必要がないことです。
問 仏様には死んでなるんじゃないんですか?
答 んなこたないです。
それじゃあお釈迦様は悟りを開いた瞬間に死んでいることになる。
問 「南無阿弥陀仏」と称えると成仏できるって、どうしてなんでしょうか?
答 阿弥陀様が念仏するものすべてを救ってくださるという誓いを立てられたからです。
問 阿弥陀仏は、いつころの時代の、どこの国の方でしょうか?
答 すべての時代のすべての国の人です。
問 小泉さんは誓ったんだから、小泉さんの名を呼ぶと、みんな救われるというということでしょうか?
答 なんで?
純ちゃんは別に衆生済度の誓いを立てたわけではないでしょうが。
それに名を呼ぶ(念仏)ということは阿弥陀様を意識するという行為です。
阿弥陀様が救ってくださるという確信を得て始めて成仏できます。
問 鈴木さんがそういう誓いを立てると、「南無鈴木」と唱えると救われるようになるの?
答 鈴木さんが仏なら大丈夫でしょう。
阿弥陀様は「人民すべてを救うまで仏にはならない」と誓われました。
んで阿弥陀様は仏になられました。
よって人々は全て救われます。(時間的概念は存在しません)
問 「阿弥陀仏は「全ての衆生を救わねばホトケにならぬ」という本願(ちかい)を立てた。」と言われましたが、阿弥陀仏は、いつの時代の、どこの国の方でしょうか?
答 ああ、阿弥陀仏が「誰か?」って聞いているんですか?
阿弥陀様は極楽の方ですよ。
問 極楽とはどこにあるのですか?
阿弥陀様は、おいくつくらいの方ですか?
答 知らない。
あんた、アホなこと聞くな。
問 はて?
こんな話で、どこかに確信できる人がおるんですか?
答 うむ、浄土系宗派数千万の門徒は救われております。
仏典に対する文献批判が厳密になった現代において、浄土陀三部経が釈尊の死後、大衆部の主張を「釈尊」に代弁させたものであることは明白な事実です。
四十八誓願もまた、釈尊の口から直接出たものではありません。
これを、「阿弥陀如来の誓願があるから、念仏で成仏できる」と説明することは、学問的事実としては一種の虚偽でしょう。
けど、念仏そのものが「虚仮の自己」を廃棄するための手段と解釈するならば、仏教の本質から見て、目くじらを立てるべき逸脱とは言えないと思います。
法然上人が、鎌倉時代にこのようなことを念頭にしていたとは、さすがに思えませんが、上人は天台宗で禅定の修行を積まれ、「虚仮の自己」を捨てるという要諦ははっきりと理解されていただろうと思います。
その上での「念仏の勧め」であったように思えてならないのです。
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