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悪について
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同情するという思いが、いかに傲慢で恥知らずのものであるか。 西元宗助『宿業の大地にたちて』
アウシュビッツへの道は無関心で舗装されている。 イアン・カーショー
私たちが認識し、謝ることのできる罪はほんの一部で、しかも浅いものだよね。 マイケル・コンウェイ
お前の中にもヒトラーがいる。 水野梓『蝶の眠る場所』
人を悪人にしなければ自分が善人になれない。 金子大栄
暴力とは言葉の放棄である。 毎田周一
「何を言おうが世界は変わらない」と皆が思うと、世界は悪い方向に変わります。 篠田総州
二つの行き過ぎ
理性を排除すること。
理性しか認めないこと。
パスカル
差別は、差別される人の尊厳を損ない、差別する人の人間性を損なう。 谷元昭信
我々は我々の祖先が犯した過誤に気がついても、自分たちが現在犯している過誤には気がつかぬものです。 渡辺一夫『寛容について』
世の中で一番の悪党は、間違っているものを見て、それが間違っていると頭でわかっていても、目を背けるやつだ。 ボブ・ディラン
「正義」の反対には「悪」ではなく、もう一つの「正義」がある。 佐々木芽生
善事は罪悪感を抱きながらせねばならない。 亀井勝一郎『愛の無常について』
生きるために殺さなくてはならないというのは大きな矛盾ですね。この矛盾を仏教では罪というのです。 宮城顗『歎異抄講義』
そういう信仰家という者は世間にたくさんあるものだよ。外では悪いことを仕て来ながら、家へはいるとすぐお念仏。眼では悪魔のすることを捜しながら、お寺へ来ればすぐお念仏。人を撲っても、後でお念仏さえいえば、罪障消滅、極楽往生、うたがいなしと信じている信心家だ。こまるね、ああいうのは。 吉川英治『宮本武蔵』
本当の赦しとは、ともに罪人(つみびと)であるという自覚からしか出てこないの ではないかと思うのです。 菅原伸郎
人間は外から罪ということを言われた時、必ずどこかで自己を究極のところで弁護し弁解し正当性を主張するということがあるのです。だからそういう意味では、罪という言葉は徹頭徹尾自覚語であり、自覚内容なのだということです。 広瀬杲『観経四帖疏講義』
他の人が苦しんでいる時に楽しむためには固い心が必要だ。或いは、他の人が飢えている時に飽食するためには。 E・カルデナル『愛とパンと自由を』
どんな悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によるものであった。 ユリウス・カエサル
にくむべき罪人であっても極悪ではない。極善という人が居りますか? おそらく人間としてないだろうと思います。 島秋人『遺愛集』
人間はあやまちを犯さずには生きられない、可哀そうな存在だ。 丹羽文雄『有情』
親鸞にとっては、悪人というのは人間ということの別のいい方だ。世間ふうの人間らしい欲望をもち、人間らしい欲望をすてきれないひとのことをいっているのだ。 丹羽文雄『有情』
君が盗みをはたらかないのは、正直者だからではなく計算にすぎない。つまり君は、道徳的なのではなく、用心深いだけなのだ。 アンドレ・コント=スポンヴィル『哲学はこんなふうに』
普通の人間とは、すばらしい英雄にも、また悪の権化にもなりうる人です。 スタッズ・ターケル『よい戦争』
オナカガスクト悪魔ニナルワ。オナカガクチイト天使ニナルワ。アタシハ天使ニナリタイケレド、天使ニナルニハ食ベナキャナラナイ。アナタハナンニモ食ベナイノ。 舟崎克彦『ぽっべん先生の日曜日』
人の非は知りやすけれど 我が非をば 智者も知ること難きぞときく 雲居奇膺
悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているのですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。 夏目漱石『こゝろ』
私は生きていけば生きるほどさとります。罪人などはいない、不幸な人がいるだけだと。 アナトール・フランス『住み込み泥棒』
人に悪人のレッテルを貼ることには、その人が悪人であるよう期待し、実際にそうなるよう促す効果があります。 大城信哉『図解雑学ポスト構造主義』
自分を嘘であざむき、自分の嘘に耳を傾ける人は、ついには自分のなかの真実も周囲の真実も見定めることができなくなり、その結果、自分をも他人をも尊敬できなくなる。誰ひとり尊敬する相手がなくなると、人は愛することをやめ、愛を持たぬようになると、何かに没頭して気をまぎらすために情欲や卑しい快楽に溺れて、あげくのはてには畜生同然の罪悪を犯すようになります。 ドストエフスキー『カラマゾフの兄弟』
自分は修身教科書的な正義とか何とかという道徳には、あまり関心が持てないのです。あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている人間が難解なのです。 太宰治『人間失格』
自分の都合さえよければ、人が迷惑しようがあとはどうなろうとかまわんというのが、極重悪人や。我が身のことしか考えておらんのやから、我が身だけよければという考えでおるんや。で、一番困るのは極重悪人でありながら、自分が極重悪人であると思うとらんのが、一番困るんや。 米沢英雄『歎異抄ざっくばらん』
人は人の前を横切らずには生きていけない。 遠藤周作
凡夫の自覚とは、たんに、愚かものということだけではない。自分で自分に戦慄することである。煩悩が一度わきおこれば、善悪の区別等意味をなさなくなってしまうのである。 阿満利麿『法然の衝撃』
身体の痛みによって身体の異常に気づくように、心の痛みによって正しい道からはずれていることの気づくのである。
苦痛を眼にしながら何もしない人間は、苦痛を与える人間とさして変わりない。 ジョン・ル・カレ『ナイロビの蜂』
自尊心、虚栄心、劣等感、この三つは人生の癌である。 車谷長吉『銭金について』
おのれを知るとは、他人の欠陥よりおのれの欠陥のほうが多いことを思い知ることだ。 フリードリヒ・ヘッベル
鏡の面になにか書いてあれば、ものは映らんでしょう。われわれの鏡には黒々と「われさえよければよい」と書いてある。だからして、ものが正しく映ってこないのです。 仲野良俊
人間は、天使でも、獣でもない。そして、不幸なことには、天使のまねをしようとおもうと、獣になってしまう。 パスカル『パンセ』
書き初めや恥ずかしながらうそ初め 高尾
感謝は、自分の卑劣さをありのままに認識し、それにもかかわらず、ある意味で感謝することなのである。 R・リーズ
なぜ浄土なのか。私たちの生活が地獄を作り出しているからです。竹中智秀
天使を作ろうとする者は、けだものを作る。 デカルト
大きな池のそばに、子どもたちが遊びに来て、石を拾い、池に投げはじめました。楽しい遊びでした。子どもたちは明るい笑い声を立てながら、いくつもいくつも石を池に投げました。その池の中に蛙がたくさん住んでいました。一人の子どもが投げた石が蛙に当たり、死んでしまいました。でも、子どもたちは何も知らずに、次から次へと笑いながら石を投げ、何匹もの蛙の生命が亡くなっていきました。 イソップ『池の中の蛙』
時代劇なぜか殺人気にならず 三谷和子
善人の定義をあなた言えますか 赤坂若楓
被害者をさらに裸に剥ぐテレビ 丸山巧
赤い羽根鳥殺すのと子に聞かれ 秋山順子
いままでに俺ブタ何頭食ったかな 田辺三四柳
してあげたことしか覚えてない不幸 三谷ゆりえ
死刑印押す人死刑に立ちあわず 大畑教作
人間は弱いものだと知る事件 橋本陽美
正直に生きたら俺は犯罪者 河又則雄
善人と言われて仮面外せない 伊川登美男
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