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  日本人の宗教観
阿満利麿 『中世の真実』 人文書院

阿満利麿 『宗教の深層』 ちくま学芸文庫

阿満利麿 『日本人はなぜ無宗教なのか』 ちくま新書

阿満利麿 『人はなぜ宗教を必要とするのか』 ちくま新書

日本人にとっての宗教とはいかなるものであろうか」というのが、阿満利麿さんの問いです。

日本人の多くは自分は無宗教だと言いますが、日本人は宗教心がないのかというとそうではありませんし、宗教や神仏を否定しているわけでもありません。しなければならないとされる年中行事や通過儀礼、葬式や法事、彼岸の墓参り、盆や正月の里帰り、七五三、クリスマスなどをきちんと行います。

日本人は特定の教団に入信し教義を学ぶということを好まないだけなのです。
つまり無宗教ということは「
特定の宗派の信者ではない」、ことに「創唱宗教(仏教やキリスト教など)に対する無関心という意味」だ、そして日本人の多くは無宗教ではなくて、自然宗教の信者なんだ、と阿満さんは言います。

日本人の信じる自然宗教とは何かといいますと、「
ご先祖を大切にする気持ちや村の鎮守に対する敬虔な心」、すなわち先祖崇拝です。

あの世とこの世の間には断絶がなく、死者の魂は、決まった日に、この世の肉親のもとへもどってくることができる。そして、生きているものは、追善供養を行い、死者の冥福増進のために、力を貸すことができる。あの世にあるものと、この世に生きるものとは、目に見えない紐帯で結ばれている。これが日本人の伝統的な宗教的心情である。

このことは
死という超えがたい断絶を、もっとも素朴に納得することのできる方法であり、それだけ人情に深く根ざしたものである。
と阿満は言います。

日本に仏教が受け入れられ、とけ込んでいった理由の一つは、先祖祭祀儀礼に仏教儀礼が取り入れられということです。死者のケガレを祓い、祟る霊を鎮める力が仏教にはあると信じられたからです。
これが葬式仏教の始まりです。
葬式仏教とは自然宗教との妥協の産物なのである。自然宗教の先祖崇拝や霊魂観をそっくり認めた上で、仏教的色彩を施したのが葬式仏教にほかならない。葬式仏教とは、自然宗教に仏教の衣を着せたものなのだ。日本において、仏教が葬式仏教という形でしか浸透できなかった。

こうして死ねばみんなホトケになると信じられるようになりました。日本人の多くは、葬式仏教によって死後の安楽が保証されたわけです。

しかし、はたして現代の我々はそうした世界を信じることができるでしょうか。

 1,共同体の崩壊
人は死ねば、一定期間子孫の祭祀を受けることでご先祖になることが信じられているし、そのご先祖は、やがて村の神様ともなり、ときには孫子ともなって生まれ変わることもできる。あるいは、人は死んでも遠くへはゆかず、近くの山に住み、子孫やゆかりの人々を草葉の陰から見ているのであり、盆や正月に子孫を訪ねることもできる、と信じられているのだ。
こうした世界観の中で、人々は生き、そして死んでいったのです。

しかし「
その世界を、そのまま私たちの全体性とすることはできない。祖神を信じ、祖神とともに生きていくことが、私にできるであろうか。それは、明らかに不可能である。
なぜなら、同じ共同体をともに生き、その共同体の神話を信じる人にとってのみ有効だからです。しかもその共同体が現代では崩壊しています。

人間の生が、幸も不幸もこめて、村やなんらかの共同体の中で結着する時代には、民族の神も有効性をもっていた。だが、現代はあまりにも共同体の時代から遠くなってしまった。人は共同体の被護から切り離されて、じかに孤独とむかいあっている。
死の不安や生の不条理を、孤独の真只中でひきうけねばならない私たちにとって、素朴な「たましい」論が救いになるわけはない。


つまり現代において「
民俗信仰における神は、生きている個々の人間に対してなんら救済の手だてを持っていないのである。

 2,明治以降のやせた宗教観
明治維新以降、天皇崇拝を中心とする国家神道の成立によって、日本人の信仰が変質してしまいました。国家の組織からはみ出すような宗教は弾圧されていきます。
その結果、日本人は
宗教といえば、「オカルト集団しか連想することができない」し、「苦しいときの神頼みといった自分に都合のよい欲望追求の営みだと考える」ようになってしまったのです。

 3,宗教の世俗化
宗教の世俗化とは宗教が日常の考え方の枠内にとどまっていくことです。つまり宗教が世間的に充実した生活を送るための手段になることです。単なる心の平安を得るための技術に宗教はなったわけです。

『宗教の深層』で、阿満利麿さんは日本の宗教の源流を求めて沖縄などを旅します。そして柳田や折口のたましい論、先祖教について論じ、さらに宗教意識の世俗化を本居宣長に見ていきます。(この三人はともに仏教嫌いですが、いずれも念仏の教えに強く影響を受けていることは興味深いことです。)

私たちは宗教に何を求めているでしょうか。
既成の普遍宗教を拒否し、また、科学的世界観と抵触することなく、そして、日常的意識ととびはなれた神秘感をともなうこともなく、しかも、死の恐怖を超克できる世界―それこそが現代人の多くが待望する世界であろう。
現代人のこのような要求にこたえうるのが、宣長の世界である。宣長の世界は、神仏なき救済論の原型である。

(この本が書かれた1985年では「日常的意識ととびはなれた神秘感をともうこともなく」ということだったかもしれませんが、現在はそうではありません。神秘現象、超常現象に対する関心が深くなっています。)

現代では世俗化がさらに進んでいます。
宗教は、死すべき運命をまぬがれぬ人間にとって、あるいは、愛する人を失ったものにとって、心理的慰めをもたらす一種の方法となった。
死の問題を解決するために、その手段を私たちは宗教を求めるというわけです。

しかし阿満利麿さんにとって宗教とは、死の問題だけではなくて死で象徴される、死によって鮮明にされる、私の抱えている不条理、人生の苦しみ、「
死によって象徴される、人間の有限性に発する苦の解決」を示してくれるものです。
そうした深く豊かな宗教観、人間観の一つが親鸞の教えだと阿満利麿は言っています。