私は以前、身体にたくさんのチューブをつけるスパゲッティ状態になってまで延命するよりは、尊厳死がいいと思ってました。「こんな状態になってまで生きているのはかわいそうだ」とか、「無理してまで生きていなくてもいい」と。しかしそれは間違いでした。
チューブによって栄養補給をしたり、人工呼吸器をつけたりすることは「不自然で人間らしくない」と思われています。ですから、尊厳死では人工栄養や水分を断つことを認めています。
しかし、それは栄養の補給であり、呼吸の補助です。お腹はすくし、喉が渇きます。呼吸が困難だと苦しいです。延命措置はそうした苦しみを和らげます。
ところが、栄養や水分を与えないと、餓死や脱水死になってしまいます。人工呼吸器をはずすと窒息死です。ですから、かえって残酷だと思います。とてもじゃないけど自然な死とは言えません。
チューブや器械につながって生きているのは不自然でしょうか。だったら、ALS(筋萎縮側索硬化症)や筋ジストロフィーといった難病、脳性マヒや頸椎損傷などの障害、あるいは重度の認知症の人は器械につながれ、他人に世話をしてもらわないと生きていけないのだから、自然な生き方をしていないことになります。もちろんそんなことはありません。
植物状態や脳死状態は回復しないから延命治療をするのは無駄だ、という考えがあります。しかし、回復しないからというので治療をやめるのだったら、難病や障害を抱える人には何もしなくていいということになります。
『死の自己決定権のゆくえ』によると、安楽死・尊厳死には次の三種類があります。
・消極的安楽死 治療を差し控えたり中止することによって結果的に患者の死を早めたり招く行為
・積極的安楽死 致死薬を注射するなど積極的な行為を行うことによって患者を死に至らしめる行為
・医師による自殺幇助 自殺希望のある人が自分で飲んで死に至ることができるよう医師が致死薬を処方するなどの行為
一口に尊厳死といっても、「何もしないこと」「医者が死なせること」「自殺の手伝いをすること」というふうに違いがあるわけです。
2012年、尊厳死法案が作られました。終末期を「回復の可能性がなく、かつ、死期が間近」と定義されています。しかし、医師は患者の死が「間近」かどうかを正確に予測できません。実際、医師からは回復の見込みはないと言われながら、回復する人がいます。
多くの人は脳死と植物状態の違いがわかっていないそうです。
植物状態の人は意識がないわけではありません。コミュニケーションを持つことができないだけだと考える医師もいます。またガンの場合とは違って、植物状態の場合、助かる見込みのない末期だという診断は不可能です。もう駄目だとは誰にも言えないのです。自然に治癒することもあるし、さまざまな治療法も生み出されています。脳死寸前の患者も脳低温治療法によって生還しています。
ザック・ダンラップの例が『死の自己決定権のゆくえ』に紹介されています。ザックは19歳の時、交通事故に遭い、脳死を宣告され、家族は臓器移植に同意しました。ところが、従兄がナイフで足の裏を切ったら、ザックは激しい反応を見せました。ザックは48日後に退院します。ザックは臓器摘出の準備がされている状況を理解していたでしょう。ぞっとしますね。
ロックトイン症候群(意識はあるが、全身麻痺で体はほとんど動かせない状態)の患者の72%は「幸福だ」と答え、「死にたいと考えたことはない」と答えた人が68%もいるそうです。
延命治療を拒否するのは本人の意思だから認めるべきだと言う人もいます。しかし、本当に本人がよく考えた上での決定なのでしょうか。人に迷惑をかけるべきではないという悪しき風潮の影響という気がします。
延命は無駄な労力と無駄な費用がかかるだけ。みんなに迷惑をかけるんだったら生きている価値がない、死んだほうがいい。
そんなふうに思っていませんか。それは、尊厳死の実情を知らないまま、迷惑をかけることは悪だと思い込み、まわりの人に遠慮しているだけかもしれません。人は誰かに迷惑をかけずには生きられないのですが。
「尊厳死」や「平穏死」というと聞こえがいいですが、まわりの者が「こんなになったら死んだほうがましだ」と決めつけているように思います。
私も「あんなになるくらいなら」とか「どうせ生きていても」と思うことがあります。こうした「あんな姿になってまで生きていたくない」という気持ちは、「この人だって生きていたいとは思わないはずだ」とか「そんなになってまで生きているべきではない」となります。
そして、「あんな人」や「どうせ」の中に、植物状態の人、認知症の人、意識はしっかりしても寝たきりの人を含めるようになります。さらには障害者、高齢者、医療費を払えない人への医療を切り捨てることになりかねません。
児玉真美さんには重い障害のある娘さんがいます。娘さんは中学生時代に腸ねん転の手術を受けたのですが、いくら頼んでも手術後の痛み止めはもらえず、娘さんは苦痛にあえいだそうです。
これは特殊な例ではなくて、多くの障害児者や家族が体験していることだそうです。イギリスでは、知的障害者の死亡件数のうち、37%は死を避けることができたものと考えられています。
適切な治療を受けられなかったために死んだ障害者が少なくないのです。ということは、障害のある人は人間扱いしなくてもいい存在だと、医療の現場では思われているわけです。障害さえなければ当たり前の治療を、障害者であるためにしてもらえないのです。
1970年、母親が脳性麻痺の子供を絞殺した事件があり、減刑嘆願運動が起きました。長い間介護してきたんだから、障害のある子供を殺したのは仕方ないと、多くの人が思ったわけです。しかし、殺された子供のことは考えていません。
重度の障害を持っている子供を親が殺しても仕方がないと、私たちが考えるのは、障害のある人を障害のない人より価値の低い存在とみなす意識があるからでしょう。そして、障害者は生きるに値しないと思っているのかもしれません。
「現代の医療は人間性を無視してきた」と言う人がいます。はたして尊厳死が自然な死に方なのでしょうか。昔の死は人間らしい死に方だったのでしょうか。
何もしないことが自然だとは思えません。痛み止めの技術がなかった時代だと、七転八倒しながら死ぬこともありました。延命治療を拒否することが、はたして自然で人間らしい死に方なのかは疑問です。
「安易な尊厳死には反対を唱えたい。悩むことなく尊厳死に与する医師や看護婦には何かうさんくささを感じるからである」という意見は、脳死での臓器移植についても言えます。
尊厳死(自殺幇助も含む)の法制化には移植用の臓器の確保という狙いもあります。ベルギーでは安楽死の要望書には臓器提供承諾書が一緒についており、すでに未成年への積極的安楽死が日常的に行われています。
日本でも、運転免許証と健康保険証の裏面で臓器提供の意思を表示できるようになっています。普及啓発、記入促進のためにパンフレットやポスターが作られ、運転免許センターや薬局なども協力しています。こうして、国民は「移植のために臓器を提供します」に○をつけるのが国民の義務だと思う雰囲気が作られていくわけです。
一定の条件下で医師による積極的安楽死、または自殺幇助を認める法律があるのは、3か国とアメリカの3つの州だけです。
スイスには自殺幇助機関や施設があります。自殺幇助機関を利用して自殺したスイス在住者は、2009年では約300人、ある施設で1998年から2011年の間に幇助を受けて自殺した人は1298人です。
ラグビーの試合中の事故で四肢マヒになった選手(23歳)、本人は健康でありながら末期がんの妻と一緒に自殺した指揮者(85歳)、「老いて衰えるのがつらいから」という理由で自殺した人(84歳)など、終末期ではない人も含まれています。
オランダでは安楽死が合法化されており、2011年のオランダの安楽死者数は3695人、前年から559人も増加しています。70歳以上の人は「生きるのが嫌になったから死にたい」という自己決定できることを認めるよう運動が行われているそうです。
オランダで1993年に可決された安楽死に関する法律では、一定条件(26項目)を満足した場合については医師が患者を故意に死亡させてもやむを得ないとされました。(現在では安楽死は合法となっています)
安楽死が認められるための条件
・患者本人のはっきりした意思表示
・耐え難い苦痛
・病気自体が快復の見込みがない
・複数の医師の合意
などです。
苦痛と言いますと普通は肉体的苦痛を思います。しかしオランダでは痛み止めの治療が発達していて、ほとんどの痛みを取り除くことができるそうです。
安楽死を望む重要な理由として多いのが
「意味のない苦しみ」 29%
「屈辱に対する不安とその予防」 24%
たとえば、ずっとベットに横たわり何もかも人にしてもらわなければならない、一人でトイレに行けない、見舞客の言動に傷つく、といった精神的苦痛が安楽死を希望する一番の理由なのです。「肉体的痛み」が理由なのはたったの5%です。
となりますと、「耐え難い苦痛」とは肉体的苦痛ばかりではなく、精神的苦痛も含まれなくてはいけないでしょう。先にあげたような精神的苦痛を取り除くための努力がなされなければならないはずです。
もし本当にそうした努力がなされれば、「人々は心の痛みが取り除かれ、精神の拠り所が得られたとき、安楽死を必要としなくなる」はずです。医大の学生の「患者さんが安楽死を望まないですむようになるよう、努力したいと思っています」という言葉に期待したいものです。
では、オランダには問題がないのでしょうか。
安楽死が合法化されると、医師は生命を終わらせるために注射をすることに抵抗を感じなくなり、国民は安楽死を当然のことと考えます。そしてオランダでは、安楽死合法化によって専門医が国外に去り、緩和ケアが崩壊しています。希望する治療を受けることができず、緩和ケアも存在しないのだったら、残された選択肢に自殺幇助や安楽死があれば、自ら死を選ぶしかありません。
こういう状況では、自分で尊厳死を選択しているつもりでも、実際にどうかは疑問です。「まわりに迷惑をかけてはいけない」などと思い込み、自ら命を絶つことを選ばざるを得ないようになっていきます。
そして、医療側や行政の意向、圧力があります。尊厳死の法制化を進める人たちの狙いは、福祉・医療費の削減(つまりは切り捨て)だと思います。
高齢化で医療や福祉が財政を圧迫し、納税者の負担が増えている。ただ生きさせるだけの延命措置は無駄だということです。「ただ生きているだけ」かどうかはまわりが判断しているのにすぎないのに。
多くの患者や家族は医者の言いなりです。「治療を続けてくれ」とは言いにくい状態にあります。
「死にたい」と望む人に、「死にたいと言うなら死なせてやればいい」とか「安楽死は合法化すべきだ」と結論を急ぐのは安易だと、児玉真美さんは言います。そもそも、日本では国が自死対策を行なっているのに、「死にたい」という人に、尊厳死という名の自殺・殺人を認めようというのはあまりにもおかしいですよね。
児玉真美さんは、「死にたい」と望む人に安楽死や自殺幇助で応じ、長期の介護者に「これ以上どうにもできないというなら、死なせても殺しても大目に見てあげよう」と目をつぶる社会になるのか。それとも「苦しければ助けを求めてほしい」と呼びかけ、支援する社会を求めるのかと問いかけます。
この人は死んだほうが幸せだと、はたの者が決めつけるのは間違いです。どんな人であろうとも死んでいい人などいません。苦しみや絶望の中にある人に社会で支え、適切な支援の提供をすべきです。
「介護が大変」「患者が苦しむのを見たくない」「暇な時に葬式をしたい」といった生きている者の都合で勝手に生き死にを判断するようになっては困ります。まわりの者の都合が患者本人よりも優先されたり、生者の都合で死ぬ時を選ぶべきではありません。
『母の身終い』(母親がスイスで自殺幇助によって死ぬ話)という映画のチラシに、樹木希林さんが
「私はもっとジタバタするし、ジタバタして逝くのを見せることも私の役割だと思ってます」
というコメントを寄せています。私はジタバタすることに断然賛成です。
元気なときに家族で話し合うと「延命治療はしない」という話になります。しかし、家族が医者から「どうされますか」と聞かれる事態になったとき、「何もしません」と言えるかどうか。簡単に割り切れる人間より、どうしたらいいのかと葛藤する人に私はなりたいと思っています。
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