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  青草 民人さん 
   「現代の幸福と闇 ―地獄に仏をみて生きる―」

                             
2004年3月27日

<デジタルとアナログ>

 こんにちは。青草民人と申します。小学校の教師をしております。どうぞよろしくお願いします。
 皆さんの話を聞いていて、思ったことなんですが、いわゆるデジタルというか、数値で物事を判断するという、そういう雰囲気が今の世の中にはすごくあるなと思うんです。

 私事なんですけど、たまたま遠縁に保険屋さんがいて、「どうしても保険に入ってくれ」と頼まれたんです。私は保険といったお金関係のことはすごく疎いんで、気をもむようなことはあまりしたくないんです。けれど、「ぜひ話をしたい」と言われて、遠縁ということもあって、学校まで来てもらって保険の説明を聞いたわけです。
 私としては「掛け金はこれくらいで」という説明を聞いて、ハンコを押せばいいのかなということしか考えていなかったんですけど、最近の保険は、私が死んだら保険金がいくら入るというだけのものじゃないんですね。
 そこは外資系の会社なんですけれども、人生プランという、私の人生そのもの、死んで亡くなるまでのプランを考えた保険の仕組みを説明します、ということなんです。それで、「ぜひあなたの人生プランを教えてください」と。
 私は何のことかはじめわからなかったんですけど、いろいろと質問するんですね。 年収はこれくらいで、マンションのローンがあと何年あって、娘さんは何歳でとか、いろいろ聞くわけです。お子さんは私立大学に入れるんですか、公立ですかとね。
 わからないじゃないですか。将来の話でしょ。それをこと細かく聞くわけですよ。「結婚式の費用はどれくらいですか」「お墓はどのくらいにしますか」「葬式はどのくらいにしますか」。わからないですよ。
 モデルがあるんですね。パソコンに打ち込むと、それによって今度はグラフが出てくるんです。あなたは何歳で、収入がこれで、今からこれくらいのお金がかかりますと。ですから保険金はこれくらい入ったら、ここで死んでもたぶん大丈夫でしょうと。そういう話になるわけですね。
 こりゃ一体なんだろうかと、聞いていてだんだん空しくなってきたんです。すべて予想と見込みで、自分が死んだらという話をしているわけですから。
 「もういいです。わかりました。ハンコを押しますから帰ってください」と言いそうになったんですけど、遠縁ですからそうは言いませんでしたけど。

 それを聞いていて思ったのが、自分の人生がこうやって数字としてパッと現れるのが、デジタル化ということなんだなと思いました。
 時計でも針のあるのがアナログで、数字が出るのがデジタルですね。デジタルとアナログでは考え方の違いがあるんです。現代では何でも数値化して、数字で物事を考えるというデジタルのシステムが主流です。個人の経験や勘といったアナログではなく、統計的に信用度の高い確率の問題なんですね。
 それはいいとか悪いとかという問題ではないんですけど、最近では学校そのものも非常にデジタル化しているということがあります。

 学区域をなくすということが東京で流行り始めていて、区内だったらどこの小学校や中学校へ行ってもいいという区や市が増えています。電車で通おうが、バスで通おうが、自分の好きな学校へ行っていいということになっている地域がいくつかあるんです。
 そうすると学校が序列化するようになります。校長としては必死ですよね。数字を出さなきゃいけないから。たとえば、300人いた学校が、次の年は1年生の半分以上がよそへ行くということになれば、300人の学校が200人になるわけですよ。生徒数がすなわち学校の評価になってしまいます。学校が本来果たすべき役割で競い合うのではなく、児童数をいかに確保するか、そのために何を魅力にするかそんなことばかり競い合っている感があります。

 さらにデジタル化といえば、今、盛んに学校では評価評価と言っています。私が勤めている地区でも、学校の目標の中に数値目標を入れてるんですよ。学校の中での数値目標ですから、売り上げを何%上げようというものではないんです。この内容を教えたら、子どもたちがどれだけできるようになったかをきちんと調べなさいと。そして、それを数字として表す。たとえば算数だったら、目標としてどの子も80点以上は取らなければいけない。
 数値化ということはそういうことですね。数字を一つの目安にして、人間を数字として評価することがかなりいろんな面で出てきています。
 何でそんなものを設定しているのかというと、親への説明責任だと言うんです。学校としてはこれだけやっているんですよということを説明する責任があるというわけです。だから、学校は結果を出さなきゃいけない、というのが主流になりつつあるんです。どんなにお宅のお子さんは優しい子ですねと言われるよりも、結果として算数の得点が毎回100点のほうが、親は安心するというわけです。

 そうすると、数字に合う子はいいんです。でも、そこからはみ出す子が必ずいます。障害を持っている子だとか、勉強についていけない子とか、あるいは生活環境に問題があるとか。デジタル的な考え方の中にはまらない子どもたちは、どうしてもそういうところではじかれてしまうんです。
 そして先生が枠の中で子どもたちを序列化する。数値化するということはどうしても序列化してしまうんですよ。番号をつけたがる。良い子悪い子普通の子じゃないですけど、どうしてもそうなるんです。できる子とできない子、よい子と悪い子を分ける発想なんです。
 文部科学省の中教審の委員長してる三浦朱門氏が、
「できる子は伸ばせばいい。できない子はできなくていい。世の中に出て従順な人間になればいいんだ」
ということを、はっきりと言ったといいます。
 そうなると、分けられるものとか、目に見えるものは評価しやすいですけれど、そうでない部分はなかなか評価の対象にならない。個性を大切にとか何とか、学校じゃ言ってるはずなのに、同じ枠の中に押し込めようとする。押し込めたほうが楽なんですよ。はっきり言って。みんなが同じようにしてくれたほうがいい。
 でも、枠に絶対はまらない子が出てくる。その時に我々はアナログ的な、その子に合った指導をしなくてはいけないんです。一人ひとりに寄りそっていくということは私たちにとってはしんどいことなんですけど、それが本来の教育のあり方だと私は思います。
 人間関係というのは数字では絶対表せないんです。みんなで仲良くしましょうと言ったから、クラスがみんな仲良くなるかといったら、それは無理なんですよ。気の合う友だちもいれば、気の合わない友だちもいる。それがクラスですから。大人の社会と同じです。
 アナログ的な付き合い方というか、ものの見方をしていかないと、はみ出た子をどうするかと我々自身が問われることにもなるし、子どもたち自身もどこかで我慢をしなければいけないということになってしまうと思うんです。そうすると、学校に行きたくない、つまらないからということになって、不登校も出てきます。これは大きな問題になってくると思うわけです。

 最近の若い先生たちはすごくマニュアルにこだわる。いわゆる手順書がないと何もできない。自分が習ってきたこととか、教えてもらってきたことの通りにできないと、パンクしちゃう。自分の予想していた行動と違う行動が起きたり、自分が習った通りに教えてるはずなのに、予想よりもっとできちゃう子がいたりすると、とまどうわけです。それでマニュアルから外れる子たちというのは排除されていく。
 これはまずいなという気持ちがあるので、我々経験してきた人間が経験でものを言うと、「はい、わかりました」と素直に聞いているんですけど、結局聞いたことをマニュアルとしてしまうんですね。自分なりにアレンジできないから失敗する。そういう話になります。「そうですね」と聞いてはくれるんだけど、でも実際にそれを学校の中でやっているかというと、そういうことはない。まあ、我々も同じことをしてきたのかもしれないですけどね。

<教育における現代の闇>
 学校が週5日制になって土曜日が休みになりました。土日が休みになったということも関係すると思うんですけれど、学力論争がここ何年かすごくあるわけです。学校で勉強をちゃんと教えてくれるのかとか、あるいは学校だけの勉強でいいのか、本当に子どもたちの学力は身につくのかと。これはかなりマスコミが先行してワアワア言ってる部分があります。
 目に見えない不安というのでしょうか。本当に公立の中学校に行ったら人間はダメになるのか。そこをちゃんと考えずに、何となくあおられて、見えない不安の中にいる。そういう感じで世の中が動いています。

 私の勤めている小学校では、いわゆるお受験、中学は私立を受けたいというお受験の子がたくさんいます。受験することが良いとか悪いとかじゃなくて、そのさせ方といいますか、そこが問われていかない。
 自分が行きたい学校を自分が選んで、納得して行くっていう子がいないとは言わないですけど、ほとんどが母親たちのお受験なんです。
 小学校の4年生ぐらいから受験の準備が始まります。今日は春休みですけれど、どこか遊びに行ける子はいいんです。だけど今日も塾のカバン背負って行く子もいるんです。
 そういう子どもたちは学校が終わるとすぐに家に帰って、多少ゲームなんかして、時間がきたら塾へ行く。弁当を持っていく子もいますからね。かなり長い時間、塾の中では競争し、あおられてやるわけです。
 学習塾というのはだいたい成績別にクラスを分けます。Sクラス、Aクラス、Bクラスと競い合うわけです。俺はAだとか、俺はSだとか、いつも言っています。試験があって、入れ替えがあって、その中で序列化ということを肌で感じているわけです。そういう子どもたちは、どこに入るか、どこが志望校になるか、10月、11月の決まるころが一番ピリピリしているんです。
 私の小学校では、6年生で受験する子がクラスの3分の1から半分ぐらいいます。そうすると、だんだん受験が近づいてくるにしたがって、クラスが半分に分かれてくるんです。公立の中学校に行く子たちと、私立を受ける子たちに。
 公立に行く子たちはのびのびとやってますからね。楽しくてしょうがない。受験のことを考えなくていいですから、学校のことを一生懸命やるんですよ。
 だけど、受験組の子たちはそんなことを言ってる暇がない。学校のことは差し置いてる。とにかく学校は公園のベンチみたいなもんです。来て休むところ。
 こっちはやる気があるのに、こっちはやる気がない。で、だんだん嫌な雰囲気なってくるわけです。

 そういったことに対して、お母さんたちは何か言ってくるかというと、そうじゃないんですね。受験する子たちは家ではすごくいい子なんです。親が一生懸命やってくれているということがよくわかっている。もちろんイライラしています。ストレスが溜まってますから。親に悪態をつくだろうと思うんですけれど、できるだけいい子でいたい。親もがんばってるんだからということで。
 親も気を使って、腫れ物にさわるような感じです。下手に「受験やめた」なんて子どもに言われても困るわけです。ものすごいお金をかけて4年生から積み上げてきたものが、いきなり6年の終わりごろでやめたって言われたら、ガタガタですからね。親も必死です。
 お母さんたちは受験に対しては学校よりも塾を頼りにします。進学塾の言うことなら聞くわけですよ。昔の小学校では私立に入れた、国立に入れたということが先生の評価でしたけど、今は塾の評価がそれなんです。どこの中学に何人合格したかということなんです。
 こうした中で、学校に対して親が何を期待しているかというと、「学校では楽しくしてくれればいい」ということです。「勉強はいいんです、塾でやりますから。それより人間関係とかしつけのことをちゃんとやってください」と。面と向かって言う親も中にはいるんですよ。

 また、子どもたちは学校へ来ると羽を伸ばしてしまうんです。今日は具合いが悪いと言って体育はやらない。委員会に行っても何もしない。5時以降の勉強に集中するためには、とにかく学校にいる間は静かに休んでいようと、子どもたちなりに考えるんです。そのへんは賢いんです。
 そして、合格した時はルンルンなわけですよ。もう関係ないから。学校で多少何があろうが関係ないんです。
 すると、あの子たちの小学校生活はどこへ行っちゃったのかなと思うわけです。子どもたちに育ってほしい時期が、別なものに変えられてしまっているということです。確かに卒業式を迎えて、6年生たちは雰囲気的に感動しているんですよ。小学校終わってよかったなと。だけど本音ではそれほど重く受け止めていないんです。
 その子たちは、楽しかったとか、友達となんかやったという思い出が作れないで、大切な6年生という時期を通過してしまうわけです。空過という言葉がありますけど、空しく過ごしてしまっている。あの子たちなりに一生懸命受験勉強したのは、中学で花開く世界があるだろうと思ってがんばったんですけれど、小学校に戻りたいと思っても、もう戻れない。

 ずいぶん前ですけど、しつけが厳しいと言われる有名な私立中学校に入った子がやって来たんです。その子は受験にどっぷりつかっていて、僕が何を言っても聞かない。はっきりと「そんなことは嫌い」と言う子だったんですね。
 その子が付属の高校に行かず、受験し直して普通の都立高校に行ったんです。その時に僕のところに来たわけです。
 あんなに受験受験でガリガリになっていた子が、3年後に来た時にはのびのびしていたんですよ。そんな子は珍しいと思うんですけど。異例中の異例だと思います。
 その子が、「先生の言ったことが今になってわかる。私は何のために大事な時期に勉強しかしなかったんだろう。もっと友達と遊んでいればよかった、もっとやりたいことをしとけばよかったなあと思ったら、今いる学校が自分にすごく合っていないことに気がついた」と言うんですよ。
 僕もこの子には合わないなとは思っていたんだけど、そんなこと言えないじゃないですか。受験で一生懸命に頑張っているのに。その子が言うには、自分が選んだんじゃない学校に行って、自分が浮いてしまう、まわりの雰囲気に浮いてしまうということを感じた時に、ここにはいることができないと思ったと言うんです。
 「今は一生懸命やってます」と言ってましたけど、そんな子はほとんどいないでしょうね。気づく子は幸せだと思うんです。親に「辞める」と言うことは相当勇気がいったと思うんですよ。
 だけど、その親御さんはそれを認めたんだから、大した親だなと思いました。

 子どもが親から離れる時期が来るわけですけれど、子どもによって親離れする時期が違うんですよ。早くから親離れする子もいれば、ある程度の年齢になってから親離れする子もいるし。
 逆に、子離れしない親のほうが多いんですね。いつまで経っても。町を歩いてても、姉妹みたいな親子がいるじゃないですか。ああいう感覚なんですよ。
 親であって、娘と姉妹みたいなつき合い方をする。ある意味では幸せな世の中なんでしょうけれど、でもこれは親が子どもを離したくないという表れだと思うんです。親が子どもに合わせているわけです。服装とか、感覚とか、そういうものでつなぎ止めたいというのがあるんでしょうね。
 子どもは親離れしたいんだけど、親が子離れしたくないという状況があって、そういう面もこれからは見ていかなくちゃいけないと思います。子どもが親離れした時に、親がバックアップできるとか、対等に話ができる関係を作っていかなければいけないのかなあと思います。
 ただ、親父と息子という関係は今も昔も変わらないわけで、当然ぶつかるべき時期にはぶつからざるを得ないんです。けれど、今はあまりぶつからないんじゃないですかね。子どもは子どもで家庭を避けるし、親は親で家庭を避ける。そうならないようにしたいと思っています。

 親が子どもの何を見ているか、子どもを育てていく時に、どういうところを見てあげるかという、自分なりの立場を持っているか持っていないかということが大きいと思うんです。
 それじゃ、どういう立場を持てばいいのかということですけど、たとえば「受験、受験」と言うのも、親御さんの考えだと思います。
 しかし、いい学校に行かせるということだけだったら、それは違うと思うんですね。なぜその学校に入れたいのかということが大切なのであって、それがなくて、どこでもいいからとりあえずこの三つの学校の中でどこかに入れたらいいというのはおかしいと思うんです。
 また、受験させるのは子どもに人生のチャンスを与え、経験を与えたいからだということ、これは一つの考え方だとは思うんですけれど、それは親のエゴにもなるんです。小学生の子どもがそのように望むというのはおそらく無理でしょうから。
 学校に対して何を期待しているかということもあります。たとえば子どもが「学校に行きたくない」と言った時に、無理矢理行かせるのか、それとも休ませるのか。これは親の考えで違ってきますね。
 学校に行かなくても勉強することはできるという考えを親が持っていて、子どもが学校とは違うところを求めているなら、行かせなくてもいいという立場もあります。仮に父親がそういう考えだとして、それに対して母親が、学校に行かなくなったら将来どうなるのかと心配するのも当然あります。
 子育ては父親だけがやるもんじゃないし、母親だけがやるもんじゃないということです。両方で育てていかなきゃいけない。

 今のお母さんたちは、苦情を言ってくる人が多くなりました。本音でものをぶつけてくるというのはなかなか難しいことなんです。勇気がいることだと思うし。だけど、ものが自由に言える雰囲気が広がってきていて、学校も受け止めるようになってはいるんです。
 ただお母さんたちは結構言うんですけど、その言い方の問題もあるんですよ。なんかちょっとピントがずれているかなあというところもありますからね。自分さえよければ他はどうなってもいいという雰囲気が、世の中全体にもあると思うんですけれど、そういう感じがする時があるんです。
 親が子どもをしっかり受け止めて、その上で学校を見ないと、ただの批判で終わったり、あるいは預けたらお任せみたいな形になってちゃうと思うんですよ。それは、自分のことを棚に上げといて人を見るということになるし、自分さえよければ他はどうなってもいいんだということにつながってくると思うんです。

 私の住んでいるところでも、最近、親父の会というのがあちこちでできていて、とにかくお父さんを学校によぼうと。お父さんたちが学校に来て、なんでもいいから関わる。父親が子どもに関わるということをしないといけないという考えからなんです。
 お受験がそうなんです。こういうところに入れなきゃいけないと言うのはお父さんなんだけど、気をもんで実際の塾のことなどやっているのはお母さんなんですよ。本当にそれでいいのかということで、父親がちゃんと関わっていくことが大切なわけです。お母さんだけでなく、できるだけお父さんを学校に巻き込むということが、子どもたちにとってもいいことなんだろうなと。
 お父さんたちが来ると、我々が話をする内容が少し違ってくるんです。お母さん的なお父さんも多くなりましたけど、大体のお父さんは「先生も大変だよなあ」と言いながら、一杯飲んで話をしたり。そういう形で膝を割って話し合うということが、お父さんだとしやすいんですよね。
 私も学校の教師をやりながら、地域では息子が入ってるんで少年野球のコーチもやっています。子どもの世界に入っていって、自分の子どもだけじゃなく、他の子どもも見てやるというのがすごく大事かなと思います。しんどいんですけどね、土日をつぶしてやるのは。
 時代社会が変わったからとすませられるもんじゃないので、小さいことからやっていかないと、世の中って変わっていかない。学校だけじゃなくて、地域とかお寺などで、場がどんどん開けていけば、大人の意識も変わるだろうし、子どもが自由にできる場が多くなれば、大人も参加する機会が増えるから、そういうものを増やしていけたらなあと思っています。

 基本的に、親はどんな子であろうとかわいいと思わないといけないと思います。勉強ができようができまいが、障害があろうがなかろうが、親が子どもを基本的に大事なんだという、見捨てないという姿勢をもっていないといけない。親がそれをはっきりさせている子は受験してもどうってことはないんです。
 塾や学校が子守りをしている中で、子どもは泣きついていくところというか、最終的に親が抱きとめてくれる場がないんです。ものを与えてくれるし、楽な環境を与えてくれるんだけど、受け止めてくれるところが結局ないんですよ。だから荒れちゃうんだと思うんです。
 学校が不満だとか、塾でうまくいかないとかいうことで悩んでいることを、親が聞いてやって受け止めることがある子とない子とでは全然違うんじゃないかなあと思いますね。
 受け入れてくれているという安心感があるから、叱られても、子どもは悪かったなあと思うんですよ。見放さないんだよということですね。自分のエゴで怒ってるんじゃなくて、お前を何とかしてやりたいという気持ちの表れとして叱っているんだと。まあ、それが伝わるかどうかという問題はありますけれど。
 体罰の是非が言われていますけれど、切れちゃう子は叩いても逆効果なんですよ。叩かれたら痛みしか覚えていない。自分がそういうふうにされたという意識が、他人に同じことををやっちゃうんです。簡単に人は叩けるんだとか、俺だけがなんでということで、人を殴っちゃう。
 友達同士が言い合いから始まって、つかみ合い、殴り合いのケンカになるんならいいんですよ。だけど、腹いせでやるとかになると、大人から受けた暴力が引き金になっていたりします。
 児童虐待が問題になっていますけれど、親の一方的な暴力、親の都合による暴力を受けた子どもが、自分がやる側になった時には歯止めが効かなくなるんです。親の暴力には愛情もへったくれもないですから、子どもは被害者意識しか持たないんですね。
 今は暴力に対して世間が敏感ですから、教師の体罰については先生と子どもとの関係ができていても、親は殴られたという意識のほうが強いですね。暴力で訴えられる先生が親から言われることは、「親も殴ったことがないのに」というのが多いんです。「親も殴ったことがないのになんで学校の先生が暴力をふるったのか」ということが一番多いんですよ。
 親にも叩かれたことのない子が第三者から叩かれた時に、愛情を感じるかといったら、それはないわけで、小さいうちに親が家庭の中で愛情と厳しさの両方を育てていかないといけないと思います。

 教師も自分の保身とか出世とかを考えて数字にこだわっていたりすると、デジタルな考え方に乗ってしまいます。
 東京では教頭や校長という管理職になるために主幹というステップが新しくできました。何でそんなの作ったかというと、教頭が大変だから。教頭は何のためにいるかというと、校長が大変だから。じゃ主幹は何をするのかといったら、苦情を受け止める受け皿を増やすため。しかも、先生たちのリーダーも兼任する。まさにハンバーガーの中身のように、上からたたかれ下からつつかれる立場。上になりたかったつらい目に遭えと。多少のことははねのけられるようにしなければいけない、しかし上から言われたことには意見を言えず、その通りにやる。そういう仕事です。
 主幹は担任をやりながら、いろいろ思っていることはあっても口に出せない。だけど結果は出さなきゃいけない。上からの言うことは聞かなきゃいけない。で、どんどん病気になっていく。胃に穴があいたりして。だからといって、途中でもう辞めたいと思っても、そのポストには降格というのがないんですね。辞めても元の教員に戻ることはできないんです。主幹を辞めたら教職も辞めなきゃいけない。だから辞められない。生き地獄みたいなものです。
 主幹にならないと上になれないし、なったら下に降りれない。そういう宙ぶらりんなシステムができたんです。そういう段階を踏まなければ昇進できないシステムを教育委員会が全国に先駆けて作ったわけです。
 新規採用されたばかりの先生が、将来校長になるかどうか決めることはできないじゃないですか。若い人たちが縛られるのはそういう見えない未来にです。自分の将来をもうすでにマニュアル的に設定されちゃっているわけです。
 自分のやりたいことをやってみたいと思うんだけど、枠にはめられた中でしかできない。しかし結果は出さなきゃいけない。はみ出した子には一生懸命やる。じゃ、こっちの子はどうなるんだということになる。八方ふさがりになっちゃうところがあるんです。

 その一方で、フリーターと言われている人たちがすごく増えているんですよ。大学を出ても仕事に就かない、就職してもすぐに辞めてしまうという人が。定職を持たなくてもある程度は生活ができるという雰囲気がどこから出てくるんだろうと思います。
 この長引く不況の中で子どもたちが大人も含めて、見えない先行きに不安感を抱いて、先を見越して明日のために今を犠牲にしているという感覚がすごくあります。

<食といのち>
 もう一つ、最近気になっているのが食べ物の問題です。学校でいろんなことやれって言われているんですけど、食の文化を指導しなさいということもその一つなんです。
 鳥インフルエンザということで、明日から京都府で1900万個の卵を処分すると、ニュースでやってました。一日35トンと言っていましたけれど。あのニワトリも二酸化炭素かなんかで窒息死させて殺しちゃったわけです。
 食べているもののもっている意味、つまりもともと生きていたんだという感覚が子どもたちにはないんです。もっとも、「これは生きていた魚だよ」とか、「このブタは歩いていたんだよ」と言ったら、子どもたちの場合、食べられなくなってしまうと思います。
 自分が食べているものは命を持っていたものである、という感覚が、食事というものを通して家庭で育っていないなと感じてます。べつに食べ物を粗末にしているわけではないんでしょうけれど、食べているお肉が牛であったり、ブタであったり、ニワトリであるという感覚がないわけです。
 それはお母さんたちの中でも、都会だとスーパーでは魚は切り身になっちゃているわけですからね。冗談で、魚の形は見たことがないから、サケが本当に切り身で泳いでいると思っていたという話があります。野菜に泥がついているから、汚れているんじゃないかと思って買わなかったという、そういう話も聞きます。
 若いお母さんたちのそういう感覚が子どもに伝わっているみたいだなと思います。好き嫌いをなくすためには形が見えないようにミンチ状にして食べさせればいい、それだったら栄養としては取れる、と言います。それとか、魚も骨を取る包丁が売られていて、尻尾のほうから差し込んで引っぱれば、骨が全部抜けるというのがあるそうです。
 「給食を食べてて骨が刺さりました」と文句を言ってくる親がいるんです。魚に骨があるというのは当たり前のことなんですけれど。そういう感覚なわけです。結局、食べてるものが実際に生きていたんだ、そして我々が生きていく上ではそういう命を食べなくては生きていけないんだ、という感覚があまりないということです。
 平気で食べ残し、食べ散らかしをするということは、子どもたちの生き物というか、命の感覚を小さいうちから身につけさせていないということがあると思います。

 子どもたちの入学資料を見ると、アレルギーの子がものすごく多いんです。アレルギーなのでサバは食べられません。アレルギーなので牛乳は飲めません、でもコーヒー牛乳は飲めます。ヨーグルトだったらいいんですけど、普通の牛乳はアレルギーがあるので飲めません。宿泊しても、ダストのアレルギーがあるので枕を持っていってもいいですかとか、すごく多いんです。
 ほんとに卵アレルギーのある子は卵を食べると死んじゃいますから、それはその通りなんですけれど、食物アレルギーというのが我々の時代にそんなにはなかったんだろうなと思うんですね。
 そういう意味で、今は食事を選ぶということだけでなくて、それが身体からの発信として出ちゃう。食べ物に対して、「これは安全だ」とか「安全じゃない」とかいったことに敏感になっています。昔だったら落ちたアメは洗って食べるなんて平気でしていましたけれど、今の子はあまりしないですからね。
 そういうものに警戒心が強いということはマスコミの影響もあると思うんです。あれだけ毎日、鳥インフルエンザだ、狂牛病だとやってれば。食べるものがないじゃないかという感じになります。

 食べるものがすごく豊かになりました。給食でもすごいですよ。グルメみたいでね。魚だって焼いただけじゃないんですよ。クリームがかけてあったりしないと食べられないわけですから。
 学校給食があるというのは、日本の教育の中では世界に誇っていいことだと思うんです。学校給食で使っているものは検査が非常に厳しいんです。遺伝子組み換えは使えません。外国のものは使えません。国産しか使わないんです。だから、今、鶏肉困っちゃてるんですけど。それから農薬がある基準を超えたら使えませんとか。かなり厳しい基準がある中で栄養士さんが考えて、作ってくれているんです。
 そういう面では、子どもの食は考えられてるんですけど、食べてる子どもの側がそのへんのことをわかっていないということがあります。
 ある教育相談の先生と話をしていて、「今の子は給食をまずいから、嫌いだからと残すんです。茶わんにごはん粒をいっぱいつけたまま返すんですよ」と話したら、「そんなこと当たり前ですよ」と言われましてびっくりしたことがあります。「そんなこと当たり前です。家でもやってないし、世間にそういう価値観はありません」と言われて、愕然としました。
 「今の子どもたちにもったいないという感覚はありませんよ」と言われましたけれど、そこを言っていかないと、じゃ、何を大事にするのかということが全くないじゃないかと思うんですね。
 私が子どものころは、父親や母親にご飯を粗末にしてはいけない。中に仏様がおられるんだとよく言われたもんです。そういった食物に関する感覚がほしいんです。

 わたしはときどき、子どもたちにパネルシアターというのをやるんです。やってみましょうか。小さい子はすごく喜ぶんですよ。またやってくれと。
 ハトとタカという話です。昔あるところに修行している仙人がいて、そこへ一羽のハトが飛んでくるわけです。タカがハトを食べようとやって来ました。
 仙人はハトを助けようとしてタカに向かって「待て、待て」と。「ハトがかわいそうじゃないか。傷ついたハトをなんで襲うんだ」と言うわけです。
 するとタカが怒って言うには、「何を言うか。このハトを食べなかったら俺は生きていけないんだ。ハトの命を助けても、俺の命は助けないのか」。
 困った仙人は、修行をしてますから、「よし、わかった。このハトと同じだけ、わしの肉をやろう。それでハトを許してやってくれ。それでお前も食べものを得られるだろう」ということになったんです。
 「それならやってみろ」と、大きな天秤を持ってきて、片一方の皿にハトをのせます。
 仙人はおもむろに刀を抜いて、「ではいくぞ。わしは痛みなんか感じないんだ。修行で何とでもなる」と言って、自分の腕を一本切り落としたんです。ばさーっと。そしてはかりの上にのせました。ハトと同じぐらいの肉を。でも天秤はびくともしません。「おかしいな。腕一本切り落としたのに」
 それでタカがわめくわけです。「それでは足りない。もっと入れろ」と。仕方ないので右足を一本切ってのせましたが、天秤はやはりびくともしない。「まだ足りない。もっと出せ」「じゃあ、こっちの足も切っちゃえ。わしは空中を移動できるから足などいらん」
 足も切ってしまうわけですけど、これでも天秤はびくともしません。
 やけになった仙人は胴体も切っちゃいました。ばしっと。でもびくともしないんですね。困った仙人は「仕方がない。わしがのろう」と、とうとう自分が天秤にのってしまうんです。その時にはじめて天秤が釣り合いました。
 そしたらタカがなんと言ったかというと、「よし、それで許してやる。その代わりお前を食う」と言ったんです。「お前を食う」と言われた仙人はギャーとわめいて、そこで目が覚める。実はこれは夢でしたという話です。

 かけがえのない命ということで子どもたちに話をする時に、こういう話をするんです。人間一人の命もハト一羽の命も同じである、どんな命もみんなかけがえのない命なんだ、命としては同じなんだよ、ということを表しているお話なんです。
 ですけれど、仙人はそんなことを考えていない。肉としてこのハトを見ているんです。だから天秤がいつまでたっても釣り合わない。
 子どもたちはこういうのでやると、すごくよくわかってくれるんです。面白いからだと思うんですけどね。こういう話をしていかないと、なんで給食は大事に食べなきゃいけないのかという意味がわからないんです。6年生に言ってもわからないと思います。

 これは笑い話ですけど、愛鳥モデル校というのがあるんです。野鳥の観察とかをするんですね。テレビで愛鳥モデル校の発表をしますというので、給食の時に「今日は愛鳥モデル校の発表がある日だね」って言いながら、みんなで見てたんです。
 ところが、その日の給食がニワトリのもも肉だったわけですよ。グッドタイミングでしたけれど。テレビでは野鳥を大事にしましょうと言いながら、自分の目の前にはニワトリのもも足がのってるわけです。
 その時、これはどう説明したらいいのかと思いましたけど、ハトとタカの話を思い出して、「ああいう話をしただろう」と。「飛んでる鳥は今、目の前にいるこのニワトリのもも肉と同じことなんだよ」と。「そういうものをいただいているんだよ」と。「みんなが食べているものはただのニワトリじゃなくて、生きていた、命のあるニワトリだったんだよ」と。
 なんで「いただきます」と言うのかということは、「言いなさい」と命令するだけではわからないんですけど、子どもとこういうことを話しながら食べると、次第にわかるようになるんですね。
 そういう物語を家でどんどんやってほしいなと。小さいころ、寝る時に物語を読んでもらった経験があったじゃないですか。そういうものが今テレビとかビデオとかに置き換えられてしまっているから、そこに親子の断絶が生じてしまうのでしょう。

 もう一つの話は皆さんよくご存じでしょう。「蜘蛛の糸」という作品です。
 ここは極楽です。お釈迦様が極楽の蓮池の近くを散歩していました。極楽のずうーと下は地獄の血の池です。
 地獄の亡者は鬼に、「悪いことをしたのはお前のせいだ。誰が悪いんじゃない。お前が悪いから地獄へ堕ちたんだ」と責められています。
 血の池地獄でもがいている男の中に、カンダタという極悪人がいました。人は殺すわ、ものを盗むわ、女は犯すわ、あらゆる悪事をはたらいた男です。
 カンダタはいろんな悪いことをしたんですけど、たった一つだけ、いいこととは言えないかもしれないけど、悪いことをするのをやめたことがあったんです。
 カンダタが道を歩いていた時に、一匹のクモが通りを横切ろうとしていました。殺生人ですから、いつものようにそのクモを踏みつぶそうとしたんですが、たまたまその日だけは機嫌がよかったのかどうか、カンダタはそのクモを踏みつぶさなかったんです。こんな小さなクモでも命があるんだ、むやみに殺生してはいけない。普段はそんなことを考えない男が、その時だけは考えたわけです。
 そのことを覚えていたお釈迦様は、蓮池の近くにいたクモの糸を池の中へするするとおろしていきます。すると、「助けてくれ」と叫んでいたカンダタの上に真っ暗闇の中から銀の糸がすうーっとおりてきました。
 しめたとばかり、大泥棒のカンダタはその糸につかまって上にあがっていくではありませんか。こういうことには慣れていますから、するする上っていく。「ああ、これで俺も助かるかもしれない」
 ちょうど地獄の針の山が下に見えるようになったころ、一息つくわけです。「しめたぞ。これで俺にも運が向いてきた」と。地獄を抜け出して、もしかしたら極楽に行けるかもしれないと思ったんですね。
 ふと下を見たら、なんとなんと地獄の亡者どもがその細いクモの糸を次から次へと上ってくるではありませんか。蟻がアメにたかるように上ってくるわけです。
 それを見たカンダタはびっくりして、一言「おい、この糸は俺の糸だ。さっさと下りろ。切れたらどうするんだ」と言った瞬間、手元からぷつっと糸が切れるんです。で、カンダタは真っ逆さまに地獄に堕ちてしまいました。
 お釈迦様は手に持っていた糸がふうっとたるんだのを見て、悲しそうな顔をしました。なんと無慈悲な奴だ、かわいそうな奴だということで、また散歩されるという話です。

 これは芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という話です。自分さえよければ他人はどうなってもいいということはどういうことなのかを、子どもたちにわかってもらうために話してるんです。
 このクモの糸がプツッと切れる瞬間に「えーっ」と思わせようとするのはテクニックですけれど、1年生の子どもたちはこれをやった時に、「えーっ」とか「わあー」とか歓声をあげましたね。
 1年生の感性はそうなんです。こういうものでも「きゃー」とか「かわいそう」とか、絶叫するんですよ。そういうことがすごく大事なのかなあと。いっぱい説教するよりも、こういうもののほうが子どもたちにはいいのかなと思うんです。

<子どもを信じて>
 このあいだ卒業式がありました。その時に珍しく卒業生が顔を見せてくれたんです。公立の中学校に行った子どもたちだったんですけど、なんと言うのかなあ、中学生の顔になってきているなあと。
 小学校の時にいろんな面でつらい思いもしたけれど、自分というものを持っていた子はすごく明るい顔をしてるんです。もちろん悩みを抱えている子もいるんだということは聞くんですけれど、子どもたちがいい顔して来てくれたのがうれしかったですね。
 時々、6年生たちが1年生の時の遊びとか、小さい時にやったこと、鬼ごっことかをやりたいと言うことがあるんです。「最後だからやってみよう。鬼ごっこいいよ。けど怪我するなよ。身体、大きいんだから」と言うと、「わかった」と言いながら遊んでいます。
 そういう時の顔って、すごく無邪気なんですよ。いつもツーンとした顔している子が、1年生みたいになって遊ぶんですね。
 子どもって時々赤ちゃん返りする時があるんです。お母さんの膝に乗ったりとかするんですよ。そういうスキンシップというか、求めてるんだなと。6年生が膝の上に乗ったら気持ち悪いけれど、しかしそういう気持ちだけはあるんだと、それが子どもの純な姿なんだということを覚えておかないと、親ははき違えちゃうのかなと思います。

 子どもたちの目を見ると、すごく疲れた目をしてるんです。ところが、京都に本山奉仕に行った時、たまたまネパールの子どもたちの写真展があったんで見に行きましたら、目がものすごくいいんです。輝いているというか。身なりからしたら相当貧しい生活をしていると思うんですよ。誰かが着ていたお古のシャツを着てるような子どもたちなんだけれど、目がすごく澄んで輝いているんですね。赤ちゃんの目も、あるいは幼児の目も青く澄んでるんです。
 人間て見たくないものを見たり、聞きたくない話を聞いたりすると、だんだん目も濁っていくのかなあと思います。そういうふうにしたいわけじゃないんだけど、汚れたものを感じていくうちに、自分もその汚れに染まっていくというんでしょうか。もちろん、それも成長なんでしょうけれど、12歳でそうなってしまうにはちょっと早いんじゃないかなと思います。

 とりとめもない話で終わってしまいました。ただ僕が信じたいのは、学校の先生はいろんなタイプの先生がいるんですけど、一生懸命やろうと思っている人の方が多いと思います。
 ただ自分をどうやったら発揮できるか。それにはお父さんとかお母さんの力、あるいは地域の力を得ることだと思います。自分の仕事を差し置いてでも子どもの面倒を見てやるという気持ちのある方が、この中にもいらっしゃるわけですから。
 学校のこととか教育問題が叫ばれることは悪いことじゃないと考えています。ただ子どもたちの声なき声に耳を傾ける姿勢を大切にしないと、いつのまにかデジタル化された虚像しか目に入らなくなると思います。
 今日はどうもありがとうございました。

(2004年3月27日(土)に行われましたひろの会でのお話をまとめたものです)