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浅田 正作さん「ただこの信心ひとつにかぎれり」 |
2001年11月29日 |
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今年もまた、皆さんとご一緒に「ほんこさん」のご縁にあわせていただきました。この「ほんこさん」というのは、私たち真宗門徒が親鸞聖人の教えである『正信偈』『和讃』でお勤めをし、蓮如さんの「聖人一流」の『御文』を拝読して、その尊い教えをいただき直す、一番大事な仏事として位置づけられております。
人間が生きていく上に、何が一番大事かということを蓮如さんは、親鸞聖人の教えを通して、
「聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う」
と、実に簡潔なお言葉でお述べになっています。真宗の教えの伝統は、「信心をもって本とせられ候う」と、信心ひとつに絞られています。だから、蓮如さんの『御文』のどこいただいても一念の信をとれと、そのことひとつです。
二帖目第三通の『御文』には、
「しかれば祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心ひとつにかぎれり。これをしらざるをもって他門とし、これをしれるをもって真宗のしるしとす」
とおっしゃっています。これを知らないものを他門とし、知っているものを真宗の門徒とすると。私たちは果たして真宗門徒といえるでしょうか。
「仏法なんか聞く耳もたんけれど、葬式してもらわんならんさかい、先祖のご法事してもらわんならんで門徒になっとる」と、そんな葬式門徒やご法事門徒がいっぱいおる。私もかつてはその葬式門徒の一人だった。それが、こうして皆さんと共に、仏法のご縁に遇わせていただいていることの不思議さです。
いつつの不思議をとくなかに
仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議ということは
弥陀の弘誓になづけたり
「いつつの不思議」とは、人問の知恵で計り知れない、説明のつかない世の中の不思議なことを、大きく五つに分けられたのでしょう。その「いつつの不思議」の中でも、仏法のご縁にあわせていただくということはただごとではない、不思議の中の不思議だと。
それは、浄土真宗の真実信心は、私がおこす信心ではなく、如来よりのいただきものだからです。「老少善悪の人を選ばれず」、如来回向の信心であると。そこに他宗他門の自力修行で得た信心と本質的な違いがあるのです。「これをしらざるをもって他門とし、これをしれるをもって真宗のしるしとす」と。
法然上人が京都の吉水の草庵で、念仏の教えを広められた時、その教えを受けられたお弟子の数は、「その門侶三百余人」と伝えられています。しかしそのなかで、法然上人のご信心と同じく、他力の信心をいただかれた方は、親鸞聖人のほかに数えるほどしかいなかったと、『歎異抄』や『御伝鈔』に伝えられています。
「源空(法然上人)が信心も如来よりたまわりたる信心なり、善信房(親鸞聖人)が信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり。別の信心にておわしまさんひとは、源空がまいらんずる浄土へは、よもまいらせたまいそうらわじ」
と、そこにはっきりと、浄土真宗の如来よりたまわる信心と、他宗他門の自力の修行で得た信心との断絶があることを示されています。
その断絶によって、引き起こされたのがあの承元の法難です。四人もの坊さんが首を切られ、法然上人や親鸞聖人はじめ主だった人びとが流罪となり、吉水教団が壊滅させられた。また蓮如さんのとき、比叡山衆徒に本願寺が焼討ちされたのも、やはりその断絶のためだった。そこに絶えず聖道門仏教から目の上の瘤とされる真宗門徒の受難のながい歴史があったのです。
『教行信証・証巻』に、
「それ非常の言は常人の耳に入らず。これをしからずと謂えり」
という言葉があります。常人とは、
「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひと」
と、『一念多念文意』にありますが、つまり自力作善の、自分はこれでも善いことが出来ると、自分を買いかぶっている人のことでしょう。
そんな人達の耳には、「本願を信じ、念仏をもうせば仏になる」という言葉は、非常の言葉でしょう。そんな馬鹿なことがあるかと、愚かな人間を誑かす邪教だと決め付けて、非難排除しようとするのです。
仏法聞いても、判らぬとよくいわれます。それでいいのです。判ったらかえってあやしい。人間がいくらその知恵や学問を積み重ねても、判らないのが本当です。人間の知っておる、判っておるという知恵や学問が抱え込んでいる深い闇が、仏法を判らなくするのです。仏法は、この身に染み透って、心身徹到して感じとるものです。
丁度いろんな職人さんが、その技術を体で会得するようなものです。だから、文字ひとつ読めず虐げられ、追い詰められ、余計な知恵を働かせる暇もなかった昔の人たちが、その苦しい環境の中で、かえって「本願を信じ、念仏をもうせば仏になる」という教えが、ストレートに身にひびき、救われたことは想像に難くありません。
法然上人のお弟子方には、知恵の法然房とうたわれた法然上人の知恵や優れた学問が魅力だったのでしょう。しかし、人間の知恵や学問は誰でも個人差があります。そこに、私とあなたは違うという、比較の眼でしかものが見えない深い闇を抱え込んでいます。その比較の眼で法然上人と自分達を比べて見れば、どうしても自分達と師の法然上人のご信心が一つだとはいえません。
人間に共通した底なしの闇の深さゆえ、法然上人でさえも天台宗の教学にあきたらず、唯識、三論、真言、律宗などの師の門を叩かれ、その奥義を究められながら、なお悟りを得ることが出来なかった。その苦悩と怒り悲しみに悶えながら、比叡山・黒谷の報恩蔵に籠られ、五千余巻の大蔵経を繰り返し読まれること五度に及んだと伝えられています。
ほかのお弟子方には、法然上人のお念仏が、そのような深い苦悩と、よるべない孤独の傷み悲しみを通して、如来よりたまわった御信心からこぼれ出ているということに思い及ばなかったのです。
『教行信証・信巻』に、「信不具足」ということが説かれています。
「また言わく、信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞よりして生じて思より生ぜざる。この故に名づけて「信不具足」とす。また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん。これを名づけて、「信不具足」とす、といえり」
と、信心に二通りあると、「聞」より生ずる信心と「思」より生ずる信心があると。「この人の信心、聞より生じて思より生ぜざる。この故に名づけて「信不具足」とす」と。
これはどういう意味でしょうか。我々は「聞く」ということの大事さを教えられています。「聞即信」と、聞くことがそのまま信ずることだと。ところが、この人の信心は「聞」よりして生じて「思」より生ぜざる。だから名づけて「信不具足」とすと、そのような信心は「ほんまもん」ではないとおっしゃる。
この「思」という文字で教えられているのは何でしょうか。私は迂闊にも、この間はじめて、今度お話せんならんようになって、この「思」という文字に突き当ったのです。これまでも聖典を開いて読んでいた、読んではいたけれど、考えるのが面倒くさくてただ読んでいたんです。
考えても考えても、何のことか判りません。こんな場合、梶丸さんにお聞きするのが一番利口なやり方です。しかし、大体が何でも素直に人に聞く根性のない人間ですから、ムタムタしとったんです。
そのうちフッと、判らんようになるといつも出して見るメモの短い言葉が目に飛び込んできました。
「本当に大事なことを知る智慧は人間にありません。それは必ず思い知らされるというかたちでのみ、他力よりたまわります」
と、私は、この「思い知らされる」ということを、「思」という文字で表わされたのでないかと思います。これは私の独断です。だから、本当はどういう意味かはこれからの課題です。
この「思」という文字が、『教行信証・総序』の文に「聞思して遅慮することなかれ」と仰せられている、「聞思」という言葉の意味でもなかろうか。また、「煩悩具足と信知して」とうたわれている、「信知」ということでもなかろうかと思ったりしています。
人は、道理にかなった言葉を聞けば、頷かざるを得ません。わけても、わが身のありのままが照らし出されて見れば、そこに深い感動を覚えます。しかし、それがほとんどの場合「いいお話聞かしてもろた」と話で終わるんです。それが「聞」より生ずる信ということであり、いくら聴聞を重ねても、単にものを覚えたに過ぎません。それがやがて、耳なれ雀になるんです。
『蓮如上人御一代記聞書』にもございます。
「「おどろかす かいこそなけれ 村雀 耳なれぬればなるこにぞのる」此の歌を御引きありて、折々、仰せられ候う。「ただ、人はみな、耳なれ雀なり」と、仰せられしと云々」
と、本当に心すべきことではないでしょうか。私たちが法座に座って、仰せにこの胸を貫かれ、骨身に染みて、悪業煩悩の、地獄一定の凡夫であるわが身を思い知らされるということが、やはり聴聞ということのかなめではないでしょうか。
「また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん。これを名づけて、「信不具足」とす」
と、この「道」ありと信ずるということも、お経にああ書いてある、こう書いてある、あの先生はこう言われたと、ものしり顔になった、それだけのことでしょう。お聖教を沢山読み、聴聞も熱心にするけれど、今現に念仏に救われている得道の人に出遇うていないということです。
この得者を信ずる、得道の人ありと信ずるということが、我々にはなかなか出来ないのです。よき人との出遇いです。三百余人の門侶のうち、本当に法然上人に出遇われ、よき人と仰がれた人は、親鸞聖人のほか数えるほどしかいなかった。
昨日、本誓寺でご正忌のお参りがあり、梶丸さんのお話がありました。本当に、しみじみとした、この胸にしみとおるお話でした。大勢の人がみなそのお話に頷き頷き聞きほれているのです。しかし、私はその光景を見ながら、まことに不遜で驕慢なことですが、この中に本当に梶丸さんに出遇うている人が、何人あるだろうかと切ない思いがしたのです。
私には、梶丸さんのお話の背後にある苦悩の激しさが、どんなものか想像も出来ません。そのため遂に健康を害され、やがてそれが持病となり、それ以来病躯にむち打たれながらの法務の傍ら、法話や執筆に精魂を傾けられ、また苦悩を抱えて来訪された人びとや、その私信などへのご懇切な配慮をされながら、なお御自身を悲嘆しつづけておられます。そのご苦労を目の当たりにする時、「ああわが身の辛さなど問題ではなかった」と、いく度励まされ、助けられてきたことか判りません。
私は、年齢的には梶丸さんより二十才ほど年上ではあります。しかし梶丸さんが、大きなお寺の住職であり、よいお話をしてくださる先生という、ただそれだけのことなら、私にとってそれは、足下にも近寄れぬ遠い存在でしかありません。ただこの自分も梶丸さんとまったく一つのご信心をいただいているということにおいては、法然上人に出遇われた親鸞聖人といささかも異なるところがありません。
判りやすい話をしてくださる有名な先生のまわりには、ファンがいっぱい集まります。テレビのタレントとそのファンみたいなもんです。しかし、念仏は悲嘆です。いつも念仏は悲しみ嘆きてという悲嘆の涙によって光を放ちます。それが親鸞聖人のご信心であり、あの膨大な『教行信証』をはじめ、数多くのお聖教や和讃を編纂されたエネルギーの源泉だったと思われます。
判りやすい、有難いお話も結構です。しかし、そんなことで浮かれていると、悲嘆の念仏がいつの間にか道楽の念仏になる落とし穴があります。大事な聴聞の道場が、暇つぶしや気休めの人間の溜まり場になり、お祭り騒ぎのイベントに利用されては、仏教本来の目的からいよいよ遠ざかるほかありません。
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私はこの頃の、アメリカで起こった同時多発テロに始まった殺し合いから目が離せません。一方では正義の戦いだと言い、一方ではアッラーは偉大なりと、アッラーに殉ずる「ジハード」、聖戦だと言っています。そこに、信仰によって異なる信心が災いする人間というものの、愚かさを感ぜずにはおられません。
私にとってこれは人ごとではありません。かつての日本が同じく、平和のための聖戦だ、正義の戦いだと、「東洋平和のためならば、なんで命が惜しかろう」と、アジアの各地で人殺しの戦争をしたのです。自分の命さえ惜しくないほどに荒み切った心で、平和を口にするほどの欺瞞があるでしょうか。
沢山な尊いいのちが失われ、いくら悔やんでも悔やみ切れません。今も昔も、正義だ、聖戦だという言葉が、いかに欺瞞に満ち、人間を狂わせるものかということです。そのことを知りながら、過ちを繰り返す人間の愚かさ悲しさを見せつけられ、この胸の古傷をえぐられるような痛みを覚えます。
それだけではありません。これからの私たちの生活はどうなるんでしょうか。バブルがはじけて久しくなります。けれども、一向に景気がよくなりません。企業の倒産が相次ぎ、失業率が過去最高をしめし、職を失った人や若い人が就職先を探すのも大変です。そんなことで、自殺する人や、生活苦や金欲しさの犯罪が続出し、全国にある男の刑務所も女の刑務所も受刑者が既に定員を越え、収容しきれなくなってきたと、この間の新聞に出ていました。
二十世紀は戦争の時代だったといわれます。ところが、二十一世紀の幕があけてみれば、世界中の人間がこぞって狂いはじめ、人類の破滅に向かって走りはじめたのでないでしょうか。恨みに報いるに恨みをもってする殺しあいが始まり、世界中が核兵器や炭疽菌などの生物化学兵器の不安におののき怯えねばならなくなった。
私たちもいつなんどきどんなひどい災難に襲いかかられるか判りません。戦争だけではありません。地球の温暖化や環境破壊など、さまざまな社会不安に怯えながら生きねばならない地獄が、世界中に広がっています。まさしく「到る処余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く」という善導大師の言葉が、いよいよ現実のものとなったのです。
けれども、そういうひどい地獄の中にいながら、自分は結構幸せだと思っている人がほとんどでないでしょうか。そんな暗い悲惨な現実から目を背け、無関心をよそおい、いろんな祭りというイベントが各地で企画され、お祭り騒ぎをやっています。そんな人たちには仏法なんかほど遠い存在です。
いつも言うことですが、「世の中は地獄の上の花見かな」。私たちが生きているということは、地獄の釜の上で花見をしているようなものです。それが判ればお祭り騒ぎなんかやっておれません。人類の破滅を思わせる危険が世界中を覆いはじめ、誰もその地獄から逃げ出せない。それが二十一世紀でないでしょうか。
この世界の危機的状況から、人間を救い出し、世界に平和をもたらすものはなんでしょうか。世界にはいろんな宗教があり、宗教であれば人間を救い、平和を願わぬ宗教はありません。それが宗教の本来の目的でしょう。私たちはイスラム教を戦争の好きなテロを平気でやる宗教のように思っています。
けれども、本来のイスラム教はやはり世界の平和を願い、「人を殺すのも、自分で命を絶つのも罪である」とコーランに書かれていると。
そういう、本来、人間の心の底を無意識に流れている普遍的な願いを、宮城先生は「生まれながらの願い」とおっしゃっています。この「生まれながらの願い」とは普遍的なものであり、生きとし生けるすべてのいのちに宿されており、どの宗教を問わずその原点にあり、それを浄土真宗で如来の本願と言うんでないでしょうか。
その本願が、人間の「生まれてからの願い」である煩悩に覆われて、世界に地獄が蔓延し始めたのが今日の世界的な状況です。今日、キリスト教もイスラム教も、そして仏教も何をしているんでしょうか。私たちの所属する真宗大谷派も過去に戦争に協力するという大きな過ちを犯しており、また、今日の危機的状況の中から私たちを助け出してくれるでしょうか。
ただ、ここでもう一度確認しておきたいのは、地獄から人間を救い出し、世界に平和をもたらす如来の本願が、たとえ言葉や肌の色は違っても、私たち人間の底を流れているということです。
宗教などというものは
もとよりないのだ
ひょろりと
天をさした一本の紫苑よ
これは詩人でもあり、キリスト教の牧師でもあった山村暮鳥の詩です。
我々が依りかかっている宗教を、もう一度点検し直せといっているんです。いつの世、いずれのところであろうと、古今東西を問わず、宗教の名において利権と憎悪をむき出しにした醜い争いの絶え間がありません。そんなところに真実の宗教などというものはないんだと、キリスト教の牧師が宣言しているのです。
宗教はどこにあるか、「ひょろりと天に向かってのび、風にそよいでいる一本の紫苑を見よ」と。暮鳥はそこに、本来のいのちの輝きを、如来の本願を仰いだのではなかったでしょうか。
その如来の本願を私たちが信じられるかどうかです。たとえ言葉や肌の色は違っても、世界中の人びとの貪瞋二河の煩悩の、火の川水の川に見え隠れしている、巾、四・五寸の一筋の白道が信じられるかどうかです。浄土真宗で信心がかなめと教えられているのもこのことでしょう。この一筋道が信じられず、私たちは、自己自身を信ずることも、また人さまを信ずることも出来ません。私たちの信心一つが、この世界が救われるかどうかにかかっています。
その意味で、誰もかもすべての人が地獄より行き場のないところへ追い詰められてきた二十一世紀は、人間が救われる絶好の時節到来の時代でもあるといえます。
ただ『蓮如上人御一代記聞書』に、
「「時節到来ということ、用心をもし、そのうえに事の出で来候うを、時節到来とはいうべし。無用心にて事の出で来侯うを、時節到来とはいわぬ事なり。聴聞を心がけてのうえの、宿善・ 無宿善ともいう事なり。ただ、信心は、きくにきわまることなる」由、仰せの由に候う。
とあります。いくら信心をいただく条件がそろっても、仏法聞く耳のない無宿善に時節到来ということはないとおっしゃる。どんな悲惨な状況に巻き込まれ、泣き喚き叫んでも、無宿善の人に時節到来して、その苦しみの地獄から救われる時は万劫にもないということです。だから仏法は、判っても判らんでも、先ず聞けと。
何を聞くのかといえば、やはり、わが身の後生の一大事であり、往生極楽の道です。しかしこんな言葉も、お祭り大好きな、「生きとる間、楽しまにゃ損じゃ」と思うとるような人の前で口にするのは、かなりの勇気が要ります。なんと辛気臭い、時代遅れのことを言うかと、おぞましい目で見られるのは目に見えています。
この往生極楽の道を問い聞くということを、現代の言葉に直せば、どうなるでしょうか。清沢満之先生は、
「自己とはなんぞや、これ人世の根本問題なり」
とおっしゃっています。仏教徒の根本問題を曾我量深先生は、往生極楽の道を問い聞くということだとおっしゃいました。我々に人生の根本問題が、二つも三つもあるわけがありません。
清沢先生が出られた明治の初めは、日本がイギリスやアメリカなど西洋諸国の植民地とされるかも知れなかった危機感から、強い統一国家となるため西洋文明を取り入れる文明開化が国策となり、日清、日露の戦争に勝ち、日本は近代国家の仲間入りが出来るようになりました。
けれどもその反面、今まで曲がりなりにも生活の中に根をおろし、日本人の心のよりどころだった仏教が、時代の流れに対応することが出来ず、国家、民族の将来を左右する、大事な人間教育の面でほとんどその用をなさなかったのです。
そのために、外国から入ったなんの間にもあわん仏教なんか止めてしまえと、廃仏棄釈の厳しい洗礼を浴びたのです。
しかしこれは、仏教や儒教と同じく、やはり外国から入った西洋文明を崇拝するという矛盾した愚かさを犯したのです。その自我の主張を何よりも優先し、何ごとも論理的に解明する科学文明の利便さに惑溺して、その抱え込んでいる闇の深さを知らず、いのちの不思議さとその尊厳を忘れ果てた傲慢さが、後々まで日本人の心の貧しさを招く最大の原因となったのです。
そのような状況の中で、自らの信心の確立と、宗門改革のため悪戦苦闘された清沢先生の生涯を通じての課題が、「自己とはなんぞや、これ人生の根本問題なり」という言葉ではなかったでしょうか。
往生極楽の道とはほかでもない、この己れ自身を知ることだと、そのことが人生の根本問題なんだと、『わが信念』や『絶対他力の大道』など、仏教の教えを現代の言葉で語りかけられたのです。それはひとり、真宗大谷派という小さな宗門の為ではなく、新しい時代に対応する術も知らず、古い徳川の鎖国時代からの教学に閉じこもり、眠りつづけている日本の仏教界全体への、清沢先生の呼びかけではなかったでしょうか。
しかし、この清沢先生の呼びかけも、自分の人生が問題にならねば聞こえません。ただ、人間なら仏法が判ろうと、判るまいと、宗教など関心のない人でも、幸せを求めない人は一人もいません。幸せとは何でしょうか。どうしたら人間は毎日いきいきと、明るく楽しい生活が送れるのかということです。
人間にとって本当の幸せはどこにあるか、自分とは何だろうか、自分はどこから来てどこへゆくのか、何のために生きているのか。これらは全人類に共通した、八十の老人から十歳の子供までが抱えている共通の問いです。このことを仏さまの教えに問いつづけてゆく道を、往生極楽の道というんです。
3
随分前のことですが、ある先生から、皆さんは真宗の教えを聞き、念仏申しているから真宗門徒だと思っているだろうけれど、私も含めて一人残らず、中身は全部自力聖道門だと言われ、ビックリしたことがあります。
亡くなられた小松市の森ひなさんは、
他力他力とおもうていたが
思う心がみな自力
ああ 恥ずかしい
南無阿弥陀仏
とうたっています。
思う心がみな自力です。この自力聖道門のままで、「ああ恥ずかしい南無阿弥陀仏」と掌が合わされたときが、他力の救いでないでしょうか。私たちの毎日は自力の難行苦行の連続です。それこそ、「バラバラでいっしょ」。信心があろうがなかろうが万人平等、心の休まる暇なんかありません。それが自力聖道門の証拠でないでしょうか。
聖道門のひとはみな
自力の心をむねとして
他力不思議にいりぬれば
義なきを義とすと信知せり
「恩徳讃」がはじまる少し前の、『正像末和讃』の六十五首目ですが、私にはとても身近に感じられます。
皆さんはどうでしょうか。私は聞けば聞くほど、自分が自力か他力か、何がなんだか訳が判らなくなります。何が善いやら、悪いやら。ただ、このお念仏だけは離せません。
自分がもうす念仏が、自力なのか、他力なのか。念仏はそんな人間の思案を超えて、与えられているんでないでしょうか。
「念仏には、無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」
と仰せられた『歎異抄』のお心が、この頃なんとなくあたたかく懐かしく感じられます。
これで終わります、有り難うございました。
(平成13年11月29日、松任市村井町、得田市良様方における村報恩講(尼ぼんこ)の法話を整理、補筆したものです)
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