1 はじめに
今日は交通事故で一人息子を亡くされたご夫婦の事例を報告させていただきます。
このご夫婦との出会いについてご説明しますと、私たちは、1997年(平成9年)に『広島犯罪被害者・心の支援センター』というボランティア団体を立ち上げました。電話相談と面接相談による支援を行う団体です。電話相談員は45名で、『広島カウンセリングスクール』や『広島いのちの電話』で専門的に研修を受けた方たちです。それに、臨床心理士が8名、精神科医1名、弁護士1名の55名のボランティアでスタートしました。
この『広島犯罪被害者・心の支援センター』は、10年後の2006年(平成18年)12月に活動の区切りをつけ、次の団体が引き継いでいます。私たちとしては、社会的にも被害者支援の意識があまりない時に活動を始め、現在の社会から認められて活躍できる団体設立までの過渡期の役割を果たした、と自負しています。
この『広島犯罪被害者・心の支援センター』の設立後のある年の11月、ある男性から電話をいただきました。ご主人(父親)でした。そうして、ご夫婦と面接をするようになりました。
今日はこのケースを中心にお話し、回復への歩みを共に学んでいきたいと思います。
2 死別による反応
最初に、危機的な出来事を体験された人、あるいは身近な方を亡くされた人に起きやすい反応は、どういうものかということを説明します。
① 感情・情緒面の反応
まず感情面、情緒面の反応が出やすい。何がなんだか分からない状態になったり、恐怖感が強くなると同じことが起きるのではないかと不安になったり、怒りが生じたり、あるいは現実感がなくなり、無感動になったりします。記憶がなくなることもあります。だから、事件当日のことをいくら聞いても、何事もなかったみたいに反応される人もおられます。また徐々に気が滅入ってウツ状態になる方もいます。
② 身体的な反応
身体の反応も出ます。動悸がしたり、過呼吸になったり、食欲がなくて食べられなくなったりします。眠れないというのが多いですね。また、疲労感があって身体がうまく動かないとか、いろんな反応が身体に出てきます。
③ 認知・思考面の反応
物事を筋道立てて考えられないとか、覚えられない、集中できない、正しい判断ができなくなる、簡単なことも決断できなくて迷うなど、決断力、判断力が落ちることもあります。
④ 行動面の反応
行動面では、口数が減ったり、逆におしゃべりになったり、家事をこなすことができなくなったり、身だしなみに気を配らなくなったりします。アルコールやタバコ、ギャンブルなどにのめり込んでしまうこともあります。また、いつも誰か傍にいてもらわないと動けないとか、忘れ物が多くなる場合もよくあります。
以上のような反応が出やすくなります。これは自然なことであり特別なことではありません。
3 悲哀の過程
対象喪失、つまり身近な人やとても信頼し頼りにしていた人、あるいは心を許した親しい人が亡くなるといった対象喪失に引き続いて起こるのが、悲哀の過程です。その過程を経て、悲哀からだんだんと回復していきます。それは段階的ですけれど、この段階のすべてを順番にたどるとは限りません。時間をかけながら行ったり来たりし、そうして回復に至ります。
以下が悲哀の過程です。
① 「最初の悲哀」の時期
最初の悲哀の時期は、茫然自失、呆然としてしまう。また、感情が麻痺してしまうという段階です。
② 「不安感と思慕」の時期
不安と思慕の時期で、不安感が強くなります。寝られなくて不眠が続いたりもします。眠れないのはとてもつらいことです。当事者を理解するのに、睡眠はどれくらい取れておられるのか?という視点は一つのポイントだと思います。
③ 「怒り」の時期
だんだんと自分の状況に対する怒り、腹立ちが生じてきます。なんでこんなことになったのか。神も仏もない。そういう怒りが生じます。事件であれば加害者に対する怒りが激しくなります。
心ない言葉がありますね。たとえば、庭で草むしりをしていたら「お元気になられたのね」と言われたり、「時間が薬よね」とか言う人がいます。言う方も何を言っていいのか分からないということもあるんですけど。人からかけられた言葉が自分の状態と違うわけですから、腹が立つことがあります。
また、自分を置いて先に逝ってしまった故人に対して、「何で自分を置いて」と腹が立ったり。対象は変わりますが、怒りの気持ちがどんどん出てきます。
④ 「深い罪悪感」の時期
その次の段階として、罪悪感の時期があります。あの時ああしてあげればよかった、こうしていればよかったと自分を非難して責める。自責の念におそわれて、しんどい思いをされる。後悔が続く時期です。
⑤ 「静かな哀しみ」の時期
その次が静かな哀しみの時期です。人との関係を持ちたくなくなり、誰とも会いたくないと家の中に引きこもってしまう。そういう時期があります。
⑥ 「突発的な悲哀」の時期
そして、突発的な悲哀の時期といって、理由もなく突然に涙がダーッと出てきたり、いたたまれない気持ちになったり、ずっと黙っていたりします。
⑦ 「悲哀が薄れる」時期
やっと悲哀が薄れてきて、他の人や他のものへの関心が芽生えてくるようになります。支援者の関わりを意識できて受け取れるようになります。
⑧ 「新しい人生を始める」時期
やがて新しい人生を始める時期が訪れます。気が滅入っていたのが薄らいで、複数の人たちと交わることや話し合いもできるようになり、少しずつ活力が出てくる。楽しいと感じることも多くなってきます。
以上のような悲哀の過程は、誰もが通る段階だと言えそうです。ただ、先ほども言いましたように、階段を上がるように順番に進むわけではありません。行ったり戻ったり、階段を飛ばしたりしながら辿っていくようです。
4 悲哀からの逃避
人は誰でも悲しいことやつらいことに遭った時に、あまりにもつらいので、そのつらさから逃れたくなります。そして他のことに逃避してしまいやすいのです。
その逃避の方法はいくつかありますが、以下に4つほど述べます。
① 抑圧
悲哀を抑圧してしまうやり方です。「別に私は悲しいことないよ」と、悲しみを抑え込んでしまう無意識的な操作です。
いったんは抑え込むことはできますが、心の中に留まって、いつの日か出てきます。
② 否認
否認というのは、喪失はなかったことにする。「自分にとってそんな大したことじゃない」と思う。あるいは「そんなことは起きなかった」と否定することもあります。しかし、喪失したという事実がなくなるわけではありません。
③ 依存
新しい対象に過剰に適応して、優しくしてくれた全然別の人に寄り添ってしまい、その人と一緒じゃないとやっていけないほど依存してしまう。主体性を失ってしまいやすい。
④ 逃避
短絡的に快楽へ沈んでしまうことがあります。賭け事をしたり、酒を飲んだりと、日ごろ自分がセーブしていた楽しみにドーンと行ってしまうという形で逃避します。日常生活が成り立たなくなってしまいます。
以上が悲哀からの逃避です。
ただ、逃避すると外見的には悲哀が解消したように見えますが、回復とは言えません。意識のレベルでは何ともないように思っても、無意識の中では強い悲しみは解消していないです。意識できないままに、無意識の世界では対象との関係がずっと続いているわけですから、長い人生の中で、いつか破綻してしまいやすいです。先ほど段階的に述べた8つの悲哀過程を、行ったり来たりしながら、それぞれの段階を十分に体験することによって、喪失の悲哀は解消されていくというのが、人の心の営みとしてあります。
ただ、悲哀の気持ちから回復したといって、大切な人を失ったという事実が回復するわけではありません。亡くなったのは現実です。悲しい思いをした、生活がつらい、そういうものを抱えて生きていかないといけないのが現実です。しかしながら、悲哀の過程を何年もかけて歩んでいった結果、事実は消えませんけれど、事実に圧倒されて立ち上がれないくらい落ち込んだり、とんでもない行動をしたりということから、自分の人生を着実に自分らしく歩んで行く方向に変わっていく。そう考えております。
5 聴くということ
「心の支援センター」を立ち上げたもともとの理由は、誰にも相談できずに長い間、一人で苦しんでいる性犯罪の被害者支援をしたかったからです。女性として、とてもつらい被害です。電話相談を始めると「20年間、誰にも言えなかった」という電話もありました。その後、徐々に交通事故の相談が多くなってきました。
被害を受けて自分の心の中が整理できないというか、苦しんでいるからそれを吐き出したいという思いがある人が多かったように思います。こちらの問いかけに、一気に話をしてくださったり、最初は声が小さくて聞き取りにくくても、30分ぐらい話しているうちにだんだんと声が大きくなってくることもありました。継続してお電話をいただくと、相談者のどこかに「電話相談をしてよかった」という気持ちがあったことが分かりました。
私たち相談員は電話相談だけではなく、面接でも当事者と共に回復への歩みを進めようとします。当事者に話してもらう。私たちはそれをちゃんと聴く。言っておられる事実を聞くだけでなく、そこに込められた気持ち・思いも聞く。そして、できるだけ理解しようとします。
しかし、気持ちを理解するといっても、人の気持ちはとうてい完全には理解できないというのが本当のところです。それは人によって体験が違うから、どうしても自分の体験で理解してしまいがちになります。
ただ、相手が話されるのを真摯に聴き、理解しよう、分かろうとし、それをくり返すことによって、相手に信頼感が湧いてくるんですね。信頼関係ができると当事者はもっともっと話したくなるわけです。話すということは何かというと自己表現です。自分を表現することです。表現にはいろんな形があります。芸術もあるし、スポーツもそうです。
簡単に「理解した」とは言えないと思っていますけど、理解しようとする姿勢だとか努力や態度は必ず心の動きをもたらすと考えています。
人間を肯定的に捉えようとするのがカウンセリングです。人間の心の中には回復力、あるいは生命力とか自己治癒力、最近ではレジリアンスという言葉を使いますが、自分の心の中にそういう力が備わっている。その力が悲しいことやつらいことのために十分に機能していない。話をし、理解されるということをくり返すという体験によって、人の心に備わっている回復力が動き出すのです。別にアドバイスしたわけでもないのに、当事者の心の中にある回復力がだんだん活性化して徐々に回復していく。そして、今までとは違う新しい生き方ができるようになると私は思っているし、願わくばそうなっていただきたいなと思って面接を続けています。
大切な人を亡くした方が経験される喪失感や悲しみ、怒り、つらさ、不信感、無力感、自責感等々にうちひしがれている状況を少しでも支援する方法はいくつかあります。その一つは自助グループで、当事者が集まって話し合うことです。他にも、宗教の世界に入られる人もいるでしょうし、あるいは絵や音楽といった芸術に昇華する人もいるでしょう。スポーツで身体を使うとか、いろんな方法があります。面接をして話を聞くことが一番正しいやり方だというわけではなく、心の支援の一つのあり方にすぎないと私は思っています。これしかないとは思っていません。しかし、一部分ではあっても、大切な分野であるなと思っています。このような考えで私たちは電話相談や面接をしています。
6 事例
実際の事例をお話させていただき、いろいろなことを学ばせていただきましょう。相談者は31歳の1人息子を交通事故で亡くされた50代のご両親です。この方には了解を得ています。
最初はご自宅にうかがって話を聞き、それからお父さんがお母さんを連れて「心の支援センター」に2週間に1回の割合でやって来られ、面接をしました。終わりに近い時は1か月に1回になり、2年3か月の間に36回の面接をして終わりました。私たちは面接によって共に悲嘆の状況や流れを体験させていただきました。
① 最初の電話
中川さん
最初に電話をいただいたのは、ある年の11月2日(土)のことでした。電話でのやり取りを再現します。男性の声で電話がかかってきました。相談者は、青年のお父さんです。
相談者「息子が6月に交通事故で死んで4か月あまりになるんじゃが、妻が死にたいとばかり言って、1人では何もできない状態です。息子が亡くなってから、そういう状態なんじゃ。毎日、自分が妻を仕事場に連れていっています」
相談員「奥さんに電話に出てもらえませんか」
相談者「電話にはよう出んのんですよ」
相談員「そうですか。電話は無理なんですね。面接となると、こちらに来ていただくようになるんですけども」
相談者「今は外出できんじゃろう。男の自分では分からんことがあるので、女の人に相談にのってもらいたいんじゃが」
相談員「それではこちらで検討してみますので、連絡方法を聞かせてください」
連絡先や息子さんの亡くなられた時の状況とか、ご夫婦の生活の状態、奥さんの様子を詳しくお聞きしました。そして、「できるだけ意向に沿いたいと思います。それまでどうぞ奥さんを支えてあげてください」と伝えました。30分ぐらいで初めての電話相談を終わりました。
「心の支援センター」で、このご夫婦をどういうふうに支援していくかを相談しました。奥さんが外に出れない状況なので、こちらからお伺いする方法が一番いいのではないかと考えました。それまでは、規約に家庭訪問をして面接をするということはなかったんですけど、家庭訪問をして支援していこうと役員会で決めました。
家庭訪問に行く時の注意といいますか、申し合わせ事項として4つのことを決めました。まず1番目は相談員は2人で行く、そして、相手も複数にしてもらう。2番目に、相談者にどのような支援ができるかを伝え、どのような要望があるかを聞くことを最初の訪問の目的とする。そして、家庭訪問で終るのではなくて、電話相談や面接相談に結びつけていく。3番目は、訪問は1回が1時間ぐらいにする。4番目に、身分証明書を持参する。この4つの取り決めをして始めました。
倉永さん
面接を1時間ぐらいに設定したことですけど、普通の面接でもそれくらいの時間です。あんまり長い時間お話を聞いたり、話しかけるというのはきつすぎますので、1時間以内に終わることを心がけています。あんまり長く話して心が開きすぎたら、あとでおさめるのが大変ですから。
このご夫婦とはほぼ毎回1時間ほど面接をしまして、終わるまでに2年間ちょっとかかりました。長い間かけて同伴するというんですか、一緒に歩むというのがいいんじゃないかと思います。
よく「時間が解決する」と言われますよね。だけど、時間があれば自然に回復するというものではないと、私は思っています。時間が過ぎれば人の心はいい方向に変わるという、そんな楽観的なことはないと思います。
その時間をどういう過ごし方をするかということと、回復するためには時間がかかるということです。面接に来ておられる方の中には何年もかかっている人もいます。時間はかかります。変わっていくには、話をし、話を聞いてもらう中で、気がついてみたらすごい時間がかかってたねというものだと思います。心の傷は消えませんけど、生傷がかさぶたになっていけばいいなと思っています。
② 最初の家庭訪問
中川さん
相談者に前もって電話をし、「家庭訪問にお伺いすることになりました。こちらから2名の相談員がまいります」と日時を約束しました。11月の初め、地図で確認したお宅に行きました。
お父さんがマンションの前で待っていてくださいました。最初に息子さんの部屋に案内してくださり、「衣服などに手を触れると涙が出て、とても片づけられない」とおっしゃいました。部屋の中を見渡してみますと、息子さん愛用のCDとか人形が置かれていました。
その後、居間に通されたんですけど、そこには大きな仏壇がありました。その前に十数個の花瓶にたくさんの花が盛られ、鉢植えの花も置かれていました。部屋の中ほどには座卓があり、その端にお母さんが小さくうつむいて座っておられました。
私たち2人は仏壇にまず手を合わせ、そして自己紹介をしてお話を伺いました。
テーブルの上にはアルバムが数冊用意されていまして、息子さんの赤ん坊のころから始まって、最後の年に旅行したハウステンボスで写した写真でそのアルバムは終わっていました。
亡くなったのは6月26日ですから、お母さんと初めてお会いしたのは亡くなって4か月半ぐらいの時でしたけど、ほとんど仏壇の前に座っておられる。お茶はお母さんではなくてお父さんが出してくれました。
お父さんによると、ウツ状態がひどく、ぼうっとして座っているだけで、家事一切ができない状態だということでした。食べてもらわないといけないので、お父さんがスーパーで惣菜を買ってきては「これを食べろ」という感じで。毎日、花瓶の水を換え、花を新しく買う。一人にしていたら死んでしまうんじゃないかという不安がお父さんにはあって、心配で目が離せない。お父さんがお母さんを自分の仕事場に連れて行っているとのことでした。この方は1人職場で働いておられるとのことでした。
お父さんが交通事故や病院でのことを記録を示しながら説明して下さいました。事故は6月14日午前10時前に起こり、救急センターに搬送されました。骨折していて、血圧が低下して意識がなかった、お医者さんからは「回復しても植物状態でしょう」と説明されたそうです。そして、25日に危篤となり、26日に亡くなられました。
お母さんはほとんど話をされませんでしたけど、「きれいにお花が飾ってありますね。お母さんがなさっているんですか」と声をかけたら、小さい声で「はい」と言われて、涙を流されました。
お父さんは自分の父親を亡くしたばかりで、これからは家族3人で暮らしていこうと思っていた矢先に息子さんが亡くなられたという状況で、自分自身を支えるのが大変なのに、妻が死んでしまうのではないかという不安が大きくて、一時も目を離せないということで困惑しておられました。こういう事態をすべて受けとめるのはとても困難なように見えました。
倉永さん
お父さんは最初の悲哀の段階でしょうか、だけどあんまり感情的に動揺している状態ではなくて、目の前のことを処理しないといけないという動きをしておられました。お母さんの方が先にダウンしたので、まず妻が死なないようにというところに精力を費やしておられたようです。
お父さんは行動的な方です。羅列しますと、よく話をする。食事を準備する。自分が買ってきて妻に食べさせる。自分は酒を飲んで寝る。仕事には妻を置いていくわけにはいかないので、車に乗せて連れていく。積極的に自助グループを探して参加する。息子への思いを詩に書いたり、文集を作る。アルバム作りをしたりだとかされていました。
お母さんの方は、感情がマヒしたような感じで、ボヤ~としてウツ状態になっておられるように思いました。
お父さんが「市役所に行っていろいろな手続きをすると、息子の名前が消えていって、息子の存在をこの世から完全に消すようでやりきれない気持ちになる」と言われました。先日、『ひろの会』で、頂いた本『悲しむということ 2』にT・Yさんが「役所や色々な手続きをする中で、あの子はこの世のどこにも居ない、どんなに大声であの子の名前を呼んでも返事が返って来ることはないのだ、と思うと、絶望の中、やりきれない気持ちになります」と書いておられます。そういう気持ちのなる方は多いんでしょうね。
中川さん
最初の家庭訪問では1時間半ほどお話を伺いました。お母さんにとっては、今は息子さんの遺影のある家だけが自分の居場所となっているように思いました。ですから、そこに私たちが行ってお話を聞かせていただいたということで、少し安心された部分が大きかったかなと思います。
お母さんに少し気持ちが落ち着いた様子が見られたので、「よろしければ次からは支援センターに面接に来られませんか」とお誘いしました。そうしましたら、それを受けてくださったんです。
訪問してとてもよかったのは、目で見るということは言葉で語られるよりも具体的に理解ができる部分がありますよね。生活の様子とか家庭の雰囲気がよく分かりました。仏壇の前にたくさんの花瓶があり、お花が盛りだくさんに入れてあったのを見て、親御さんの息子さんを思う気持ちを感じるとることができたように思います。
それから、私たち二人は女性でしたし、話は心を込めて聞くと考えていましたし、それからこのご夫婦のつらい気持ちをできるだけ支えてあげたいという態度で面接をしたということで、お母さんにとって不安が少しは取り除けたかなと感じました。
次回、『心の支援センター』に来られる時には、お母さんの気持ちをしっかり聞きたいなと思って、ご夫婦別々に面接しようかという話も出しましたが、両親と相談員2人がいろんなことを共有した方がいいということになり、面接は4人で実施することにしました。
③ 『心の支援センター』への来訪
中川さん
家庭訪問から8日後、『心の支援センター』にタクシーで来られました。3人掛けのソファーに、お母さんは端っこのほうに、お父さんから距離を置いて座っておられました。ほとんどうつ向いたままでしゃべられませんでした。涙をこらえるような仕草が多くて、両手で顔を覆ったりというようなこともあったんですけど、一言「ビラをまけばよかった」と言われたんですね。「そのビラには何と書きたかったんですか?」と尋ねると、しばらく間を置いて言いにくそうにでしたけども、「人殺し」と言われました。
倉永さん
なぜお母さんを中心に面接したかったかというと、お父さんは「妻を見ないといけない」という現実感があり、仕事にも行かれ、行動的で外向きな人なんですね。ところが、お母さんはすごく沈んで細くなっていくような落ち込み型の人だったんです。
3人掛けのソファーで、ご主人がでんと座り、奥さんは端っこでしょぼんと座っておられたことが表しているように、息子さんが亡くなることで、夫婦の間に溝ができてしまって、子供の死が夫婦関係にすごく影響するんだなという気づきもありました。
溝ができる場合と、助け合って協力していかれる場合とがあると思います。
私たちはご両親の訴えを丁寧に受け止めていくことを心掛けていました。お母さんが「人殺し」と言われましたが、ご主人も「交通事故とは言わん。交通殺人だ」という言葉を使われました。お母さんは一言しかしゃべらなくても、加害者に対する怒りとくやしさがこめられていました。
中川さん
お父さんの父親の一周忌があったんですが、「兄弟に会いたくない。出席したくない」と行かれませんでした。
お母さんには、お母さんが自分の死について考えないよう注意をしながら、息子さんの思い出をいろいろ話してもらいました。息子さんの思い出を語ることで、息子さんの死を現実のものとして心の中に位置づけて、息子さんの死というつらい出来事を受け入れてもらいたいという願いを込めて面接をしました。
日頃、お父さんは仕事から帰ったら1人で晩酌をして過ごしていたけど、お母さんは息子さんと過ごすことが多かったので、息子さんが亡くなると、夜をどう過ごしたらいいか分からないという様子でした。
倉永さん
息子さんの事故から6か月あまりが経ち、お父さんは『全国交通事故遺族の会』といった自助グループをあちこち探しておられました。広島で開かれる会に参加したそうです。自助グループの助けを得ながら、少しずつ歩んでおられるなというふうな状態でした。
だけどこの時期は「集まりに出ている時はいいが、終わったらまたいっしょだ」という感想を持たれることもありました。その後はかなり活発に活動されるようになったんですけど、この時期はまだそんな状態でした。
中川さん
加害者に対する気持ちをお父さんに聞きましたら、「いくら責めても、息子は帰ってこないんだから許してもいい」という気持ちも出ていました。お母さんの方は息子さんが生き甲斐だったので、「自分は生きていても仕方がない。もっと息子にいろいろなことをしてあげたかった」と、夫婦で違いが見られました。
お父さんは妻が死んだらいけないと、すごく配慮をなさっていました。お母さんはそれを夫の束縛ととらえておられたんです。夫が妻を守ろうとすることが束縛以外の何物でもない、夫の配慮を押しつけというふうに受け取っておられて、拒否感を覚えておられるようでした。
お母さんの言葉もだんだん増えてきて、いろんなことを話してくださるようになりました。
④ 2回目の自宅訪問
中川さん
年末になり、この時期は人の行き来が多くなって、特に家族団欒が増えてきますので、この時期の面接を休みにしたらよくないと思いました。「心の支援センター」がお休みのために部屋が使えないので、ご自宅にお伺いしました。そしたら、仏壇には最初に行った時よりもはるかにたくさんの花が添えられており、花瓶は30個ぐらいあって、居間の半分ぐらいが花でうまっていました。
お父さんは、自分の気持ちをワープロで書いた文章を見せてくださいました。やりきれない気持ちを書くという作業で鎮めているということが分かりました。私たちはお父さんがいろいろ書いておられるなら記念誌を発行されたらどうでしょうかと勧めました。
お母さんは「自分にも書いたものはあるけど、誰にも見せない。見せる人の気がしれん」というふうにおっしゃいました。12月に、お母さんは初めて一人で近所のスーパーに買い物に行かれたそうです。事故から半年たって、やっと一人で買い物に行くことができたということでした。
倉永さん
お父さんは文章を書かれる人なんです。誰かに見せるというよりも、自分の気持ちを落ち着かせたいといったお気持ちだろう思うんですけど。詩も書かれてました。詩を書くような雰囲気の方じゃないんですけどね。いくつか読ませてもらいました。
逢いたい
逢いたい もう一度逢いたい
逢って謝りたいこと たくさんある
一言だけでも
助けてやれなかったこと
謝りたい
あれは僕ではなかった 人違いだったと 夢の中で現れた。
声を掛けようとしたら 目が覚め
そこには 遺骨と仏壇。
限りない怒りと屈辱
涙に満たされた 夕食のゴハン
こんなもの 食べたくない 欲しくもない。
人前で
「しっかりするのよ」
「気を落とさないで」
「淋しいでしょうが」
人は励ましの言葉をかける
身も心も凍りつき
挫折と後悔のはざまで
ひっしに悲しみに耐え
ひっしに淋しさにこらえ
ひっしに 一日を送っているのに
「意外に 元気そうではないか」と追い討ちをかける
なんで どうして
人前で 哀れな泣き顔が
人前で 惨めな真顔が見せられるか
すれちがっても 黙って頭を下げ 通り過ぎて欲しい
この詩の一編は、『悲しむということ 2』にN・Hさんが書いておられる川柳もどきの「会いたいよ 会って詫びたい 抱きしめたい」と重なっているように思いました。
そういう方に対してどういう声かけをしたらいいのかなというのは、皆さんも考えられることだと思います。私も親を亡くし、兄弟を亡くし、知人を亡くしと、死別体験をしているわけですけれど、どこかで他の人への言葉かけに悩みます。この詩を読んで、どうしたらいいのかなとあらためて考えさせられました。
⑤ 年が明けて
中川さん
年が明けて墓地を買われたそうです。墓地はお父さんの実家の近くです。墓は洋風にして、“笑顔再び”という文字と、息子さんが好きだったウサギの絵を墓石に刻まれました。お父さんは「あり得ないけど、息子がもう一度帰って来られたという願いを込めた」と言われました。お墓は3月22日にできあがりました。
墓地からの帰りにドライブインでお昼ご飯を食べた時に、「息子においしいものを食べさせてやりたかったと思った」とお母さんは言われ、涙を流されました。お父さんによると、「妻の気持ちは最初から全然変わっていない」そうです。
お母さんが「いつまで生きたらいいのか」と聞くから、お父さんは困ってしまって、「お墓ができるまで」と言ったそうです。「いつまでがいいか」とか、「高いところに連れて行ってほしい。朝、目が覚めると、つらい一日が始まる」と言われて、朝、感じていたつらい気持ちを夕方にも感じるようになり、「なんで生きていかにゃいけんのんか」「早く楽になりたい」などと、苦しい気持ちを告げられるお母さんに、お父さんは「お墓ができるまで」と言ってしまった。「そういうのが愛情かなと思って言ってしまった」と話されました。でも、「自分は二人で支え合って生きていきたい」と話されました。お母さんのつらい気持ちがよく分かりました。
お母さんは「何もする気がしない。買う楽しみなどない」と言いながらも、炊事がまだできなかったんですけど、近所のスーパーで「自分が食べたいものを選んだ」と買い物をしたり、夫婦で町に出た時には、高価な花瓶を買ったりされていました。まわりのことに少しずつ関心が向いてきた様子が見受けられるなと思いました。
思い出作りとして、墓に納めるアルバムを作ったり、A4の大きさで10ページぐらいの冊子を作ったりされました。この冊子は表紙に写真とか挿絵を描いて、手書きで色づけをしてありました。この冊子はお父さんがほとんど作られたんですが、お母さんも誤字の訂正とか色を塗ることで参加されたそうです。お父さんは家で墓に納めるアルバム作りなどをして、息子の死を受け入れようとしていらっしゃるように思いました。
夫婦それぞれに息子のことを思って物事を現実的に進めていくと、お墓の形とか供養の仕方とか、いろんなものへの興味とか、食事の仕方なんかについて夫婦の間で一致しないことが起きてきます。それを一つずつ主張したり、譲り合って歩み合うことで形にしていく作業をつづけられました。そして、思い出の品や記念の品がだんだんでき上がってきました。
この時期は面接で回想法を取り入れた時期でした。お母さんに息子さんの小さいころの話をしてもらって、そして話をしながら涙を流したりされるわけですけれど、前よりも気持ちがスムーズに表現できるようになられました。
さらに、お二人の結婚までのいきさつを話してもらうと、少し涙の出る時もありましたが、思い出を大きな声でなめらかに語っていただきました。だんだん表情に活気が見られるようになって、口では「気持ちは変わらない」と言われながらも、今までになく楽しそうな様子が見受けられました。
面接では、湧いてくるいろんな思いを次々に口にして、すごく多弁になっているようでした。お父さんも「妻が話ができるようになって安心した」と、帰り際におっしゃいました。
倉永さん
今、回想法と言われたんですけども、これは専門的なやり方なんです。昔のことを思い出してもらって、再びその時の喜びとか悲しみとかを体験していく。たいていはよかった思い出を話されますよね。それを小さい時からずっとやっていくというやり方があるんですけど、それを導入してみたりしました。
私たちとしてはお話をよく聞き、うなづけるところはちゃんとうなづいて、詩やアルバムを作るなどしておられることは肯定していこうという気持ちでいました。お母さんの方はなかなか動きがなくて、心配がずっと続いたんですけど、少しずつ意欲が出てきて、食べることだとか外に出るとかをされていることを知って、少しずつ私たちも安心したという経緯があります。
⑥ 自助グループへの参加
倉永さん
息子さんの死から9か月後ぐらいに、お母さんはお父さんに連れられて自助グループに参加し、そこで発言できるようになりました。その後、5~6人のメンバーで食事会に行って、「また次回も出席したい」と言われました。
悲哀や悲嘆の過程を経験し、茫然自失したり、不安感が強くなったり、怒りが生じてきたり、自責の念が起きたりといったことを行ったり来たりしながら、お父さんとお母さんのプロセスは違いますが、それぞれ体験しながら進めてこられました。
自責の念についてですが、身近な方が亡くなると、亡くなった方をいとおしむ気持ちがあって、ああもしてあげたかった、こうもしてあげたかったという思いが強く起こります。実際に自分が何か悪いことをしたという自責の念ではないと思うんですね。
いろいろしてあげたい気持ちはあっても、亡くなっているのだから何もしてあげられない。してあげたかったという思いがあるけれども、それが断ち切られてしまう。思いをかなえることができなくなった。それで、自分を責めるんでしょうね。
人間て、ある意味、現金なもんじゃないですか。新聞なんかで殺人事件や交通事故が報道されても、知らない人だったらあまりピンと来ないですよね。すべての事件や事故にいちいち反応しない鈍感さが私たちにはあります。
だけども、自分に近い関係だったら、すごく動揺しますよね。それだけに、自責の念を持つことは尊いことです。自分を責めるのは相手にすごく愛情を持っていたということなんでしょうから。
中川さん
お母さんは事故について「事故の本当の様子が知りたいけれど、息子はもう帰ってこないから、知ってもどうしようもない気がする」と涙を流されていました。気持ちが揺れ動いて苦しまれている様子がうかがえました。
このへんから、面接でのお母さんの発言が多くなってきました。声も大きくなって、だんだんと沈鬱な状態が少なくなり、気持ちがやわらいでいるなと感じることができて、私たちとしてはうれしく思いました。
倉永さん
交通事故ですから、法律的な問題がからんでいます。このご夫婦は、裁判の動きとかに直面しておられるのに、そういうことを全く無視し、話だけを聞いていればいいというものではないと思いました。法律の専門家の助言を受ける必要性を感じたので、『心の支援センター』のボランティアである弁護士に助言をもらって、現実的な問題が甘くならないようにと心掛けました。
中川さん
事故のことについては、加害者の説明にお父さんは納得できないという感じでした。お母さんも疑問が残ってはっきりしないままだということで、わだかまりがあるようでした。そういう状況の中で『全国交通事故遺族の会』という会に連絡を取ったと言われました。
最初の面接から約半年経った4月、13回目の面接の時、お父さんは明るい表情で「自分たちだけが相談をしているのも悪いから、そろそろ面談を卒業させてもらおうと思います」と言われました。しかし、その言葉から2週間後、ご自分でも心の揺れがあったと思われたんでしょう、「前回、卒業と言いましたが、まだまだ無理なようなので、もうしばらくお世話になります」と言われました。
倉永さん
この時期のことをまとめてみますと、ご両親ともに多弁になり、お母さんが悲しむ場面が少し減ってきました。これは、本当に悲しみが減ったと理解したらいけないんじゃないかと思います。特に、「加害者を厳罰に処してほしい」という怒りが鋭く出ていて、怒りが他者に向いているために悲しみがちょっと抑えられているんじゃないか、悲しみが表現されていないんじゃないかと思い、もう少し面接を続けた方がいいと考えました。
中川さん
一周忌の法要で、「加害者からは “御仏前” と書かれたお供えが来たけれど、すぐに返送した」と言われました。お父さんの願いで、事故現場にお地蔵さんを造られました。事故が起きた時のことをやはり言われ、「早く救急車を呼んでくれれば死ななくてすんだんじゃないか」とか、無念さが尽きないという感じで話されています。
このころ『全国交通事故遺族の会』の総会に出席するために、東京へ1泊で行かれました。その会では刑事裁判と民事訴訟と分かれていて、お父さんが刑事の方に、お母さんは民事に出席されたそうです。この時に、関西支部から「一緒に旅行に行きませんか」と誘われたけど、「よその子供さんを見るのがつらい」という理由で行かないことにされたそうです。
『生命(いのち)のメッセージ展』をご存じですか?これは犯罪や交通事故等によって理不尽に亡くなった人の写真とメッセージを書いたものを、等身大の白いパネルに貼り、足元にはお気に入り、あるいは被害時の靴を置いて展示するんです。2001年、東京駅八重洲口広場から始まったそうです。全国をまわり、毎年たくさんの場所で実施されています。「熊本で『生命のメッセージ展』が開催されるので出席したい」と言われ、息子さんの帽子や靴を送られたそうです。
それと、『ちいさな風の会』という子供を亡くした親の会があるんですけど、「神戸で集まりがあるから出席する予定です」とお母さんが言われました。お母さんは「同じような体験をした人と話し合うのは、遠慮しないで話ができるのがいいんだけれども、子供が3人とかいる人は、自分のところみたいに子供が1人しかいない家族とは違う」と、気持ちの上でズレが少しあることを述べられていました。というふうに、いろんな活動に参加して忙しく過ごしておられました。
⑦ 夫婦の感情の時差
中川さん
息子さんの事故の裁判が進展しないので、お父さんの気分が落ち込んでいるような感じを受けました。私たちが「じっと待っているのはつらいですよね」と声をかけ、三回忌の準備をどういうふうにされるかという具体的な話を聞かせてもらいました。
お母さんはまだ料理ができなかったんですけど、この頃にはスーパーへ行って自分の好きな惣菜を買ってくることはできるようになっていました。そして、16回目の面接では「最近は2、3日だったら、自宅に1人でいることができるようになりました」とおっしゃっています。
17回目の面接では、初めてお化粧をしてこられました。女性は外出する時にお化粧をしますね。今まではそういうことをする気持ちの余裕がなかったんでしょうけど、17回目でやっと化粧をしたお顔を拝見しました。
事故後1年3か月、9月の20回目の面接で、お母さんが「事故直後、まだ意識があった時に、息子を抱いてやらなかった。助けてあげられなくてひどいことをした」と言われました。そして「息子は薄情な親だと思っただろうな。一緒に死んでない母親のことを恨んでいるのではないか。息子はなんでこうなったのかと思っているだろう。交通事故の人はみんなそう思っているんではないかな。病院で脳の写真を見せてもらった」と言われました。その写真が真っ黒になっていたんだそうです。「お医者さんから〝真っ黒になっている〟と言われたことが頭から離れない。なんでそんなになるのか。そこまでひどい目に遭わないといけないのか」と訴えられました。
そして、「1年3か月も経っているので、周囲からは〝前向きに生きて〟などと言われるけど、自分のこととして考えたらどうなんだろうか」と、残念で悔しそうな様子を表しておられました。
「息子に申し訳ない」と泣かれたお母さんに、私たちは「息子さんは車に轢かれたと一言も言わないで亡くなられたんでしょうね」と言ったんですね。お父さんはそばで黙って聞いておられたんですが、初めて涙を流されて、ハンカチで拭いておられました。お父さんの気持ちに言葉が添ったところがあったと思います。
お母さんが「以前は夫が、死ぬんなら一緒にと言っていたのに、今は言わんようになった」と言われると、お父さんは困ったように黙っておられました。私たちは「ご主人は一人では生きていけないと思いますよ」と言うと、お父さんはうなずかれて、お母さんはちょっと安心したような様子を見せられました。
倉永さん
怒りの出方もお父さんの方が早くて、お葬式の時に香典を突き返したりだとかされたそうです。お母さんはこの時期になって怒りが出てきました。病院を訴えようかという話もされましたが、取り下げられました。
お父さんがハンカチを出して涙を拭かれたことなんですけど、お父さんは1週間に1回、事故現場に花を供えに行っています。病院や加害者などに対する怒りはかなりあったんですけど、一段落ついたら今度は気分が落ち込みがちになられたようです。妻は「死にたい」と言うし、何とかしないといけないということで、お父さんはゆっくりと自分の悲しみにひたることができていなかったんじゃないかと思います。
お母さんの方は、子供を助けてあげられなかったという罪悪感や、後悔だとか、自己非難が続いていました。親の法事や姉の娘の結婚式など、親しい人との交流も断っておられます。
そういうふうに、夫婦の間で思いに時差があります。子供さんが亡くなられると、夫婦関係が変わってくることがあるんです。子供との関係でも、子供のうちの1人が亡くなり、お母さんが死んだ子供のことばかり思っていたら、残された子供は最初はお母さんを慰めるけど、「私は生きているのに、お母さんは私の相手をしてくれない。私は誰の子供なんね」と不満を感じたりします。家庭の中で大変なことが起きると、今までの家族関係が変わってくることが多いんですね。
最初に面接に来られた時、3人掛けのソファーに、こっちにお父さん、あっちにお母さんが座って、間がぽっかり空いていたんですね。それはどういうことかというと、お父さんが「いつまでも泣くな」だとか、「ちゃんとご飯を用意せえ」とか「食べろ」と言われるわけです。お母さんとしては、自分はしたくてもできないのに、いろいろ命令されたと思って反発する。そういうことで夫婦の間に距離ができたということです。
しかし、子供の死が家族関係、夫婦関係に影響するといっても、逆に結束が固くなったり、家族への思いやりの気持ちが強くなることもあります。
家族が事故や事件で亡くなると、それによって両親、兄弟も被害者になるわけです。お友だちやおじいちゃん、おばあちゃんもいるわけで、被害者が広がるわけですよね。当事者との距離が違うと、心理的なショックも異なりますけれど、人は多くの人と関わって影響しあいながら生きているということを、被害者支援をしていて痛感させられました。
⑧ 面接を月1回にする
中川さん
年が明けて、27回目の面接の頃に事件の判決が出たという通知があったそうです。ご両親は加害者に刑務所に入ってほしいと思っていたのに執行猶予だったので、「通知をもらって泣いた」と言われてました。
このころからですけども、お母さんは1人で留守番ができるようになるなど、徐々に生活のことを自分でできるようになりました。仏壇の花を入れ替えたり、月命日に墓参りに行くとか、「『生命のメッセージ展』に参加することが自分たちの仕事だから」と、亡くなった息子さんの供養を行うことが毎日続いている状況でした。
この頃です。お母さんから「面接は月に1回でいいです」と申し出がありました。ご両親がかなり回復され、新しく生きる道も示されてきたので、面接は月に1回にしました。
お二人とも社会的なつながりが広がってきて、いろんな活動をされるようになりました。2月から4月にかけて、『全国交通事故遺族の会』関西支部総会、『生命のメッセージ展』、『全国交通事故遺族の会』総会と、大阪や東京へ1泊から3泊ほど、出かける計画を立てられました。
お父さんが「天気が悪いと気分もよくないけれども、自分としては80%から90%は回復したように思う」と言われました。しかし、お母さんから「生きていても仕方ない」という言葉が時々は出てくるんだとも話されました。私たちは「お母さんは精神的にはお元気になられてきたけれど、これまで息子さんとのつながりが深かったので、息子さんを思う気持ちを汲んでほしいんだと思いますよ」とお父さんに伝えました。
5月29日に墓参りに行った時にあじさいを摘んだと、そのあじさいをお土産に持ってこられました。この時はお母さんはギックリ腰になって面接は欠席されて、お父さんお1人で来られたんです。青森で開催された『生命のメッセージ展』のアルバムとチラシも持ってこられました。そして、「1人でも多くの人に命の尊さを分かってもらいたい。広島で『生命のメッセージ展』を開催したい」という希望を述べられました。青森に行った時に恐山にも足を延ばしたという話をされ、そして三回忌の行い方について息子さんが喜ぶような法事をしたいとも話されました。
倉永さん
この時期は、ご両親の間に多少の温度差はありますが、今後は息子のために何かしようという気持ちに少し切り替わって、前向きに考えることができるようになったと思います。
お父さんから「自分の面接は今回で終了したい。しかし、妻の気持ちは今までどおり聴いてもらいたい」ということで、しばらく面接を続けることになりました。
中川さん
9月に入って、お母さん1人が来られました。「最近、なんか変化がありますか」と問いかけますと、「自分が食べたくて肉じゃがを作った」と言われました。料理ができるようになられたということですね。
加害者に手紙を出されたそうです。「なんて書かれたんですか。思いを書かれたんでしょうね」と尋ねると、すごく言いにくそうに間を置いて答えられたんですが、「息子を返してくれと書いた」と言われました。
10月には夫婦そろって来られました。息子さんの追悼本を200部印刷されたそうです。広島で『生命のメッセージ展』を開催したいとメッセージ展の本部に相談し、「会場を仮契約してきた」とお父さんが言われました。開催にすごく積極的に動かれているお父さんに、お母さんはそれについていくという感じを受けました。
⑨ 面接の終了
中川さん
この頃から面接の終結を考えていました。終結には、来談者が心理的な安定を得られているか、そして社会的な参加が進んで積極的、選択的に社会支援が活用できるようになり、社会的な行動という形で安定してきたかどうか、それから来談者との話し合いで終結に納得していただくことができるかの3点を面接者2人で話し合いました。
ご夫婦に3点をあてはめてみると、終結に結びつけていいのではないかということになりました。これからはご夫婦の社会的な活動を『心の支援センター』が支援していく方向にしようと判断しました。
広島での『生命のメッセージ展』の開催の準備を進めていきたいというお気持ちが強くありましたので、開催プログラムや施設の運営などについて、自分たちの案を持ってこられ、それを見せてもらいました。
そうして、2年3か月、計36回の面接を終了しました。
倉永さん
まだまだ支援は必要だと思いましたが、私たちや『心の支援センター』のできるのはここまでではないかなと思っています。
お母さんに関して思うのは、まだまだ加害者に対する恨みと、息子さんへの思慕が強烈に残っていますし、そのことがくり返しくり返しお母さんの心に突き上げてくることです。心の傷の深さをあらためて知ることになりました。
お父さんに関しては、イベントを行うことによって一般の人びとに被害者の苦しみ、命の尊さを理解してもらう方向に積極的に動き出されたという感を深くしました。
4 最後に
中川さん
私は保健師で、体と心の支援をする仕事をしています。今回は、一人息子さんを亡くされたご両親と面接をさせて頂きました。私は相談者の心を聞いていくにはどういうふうな態度がいいのかと思っていました。まず、被害者の話されることをよく聴くということ、そして、その人の心の状態に寄りそった言葉を選び出して、伝えていくことを心がけました。
倉永さん
一人息子さんを亡くされたご両親との面接をお話しさせていただきました。あんまりピンと来なかったところもおありかと思いますし、回復するのはそんな簡単にはいかないと思われたかもしれません。
こういうテーマでお話しすることは、みなさんが自分の体験を再び思い出すことになって、つらい気持ちになるし、そこに引き戻される。それはよくないのではないかという気もするんですね。しかし、何回も引き戻され、ふたたび体験して悲しみを味わっていくことは、次に一歩踏みだす力になるように思います。その時は悲しいですけど、思い出し方がだんだん変わっていくんじゃないかと思います。
出来事は記憶から消すことはできません。けれども、だんだんと良かったことだとか楽しかったこと、その後どうしているかなといったことを思ったりというふうに、思い方が変わってくるんですね。今は思い出されてつらいでしょうけれど、皆さんは、自助グループの皆さんに話を聞いてもらって少しずつ強くなられると思います。
どうもありがとうございました。
(2016年11月8日、22日に行われました「ひろの会」の勉強会でのお話をまとめたものです)
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