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カースト制
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山崎元一『古代インド社会の研究』
小谷汪之編『インドの不可触民』
小谷汪之『不可触民とカースト制度の歴史』
藤井毅『インド社会とカースト』
池田練太郎「仏教教団の展開」(『新アジア仏教史 2』)
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1 カースト制度とは
カーストという言葉はポルトガル語で、血筋、人種などを意味する。カーストに対応した概念はヴァルナとジャーティとされ、ヴァルナ=ジャーティ制度ともよばれる。すべてのジャーティがヴァルナの枠組みの中に位置づけられ、上下に序列化された社会制度のことである。
ヴァルナ制はバラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つの種姓と不可触民を基本的枠組みとする身分秩序。
バラモン 祭祀階級
クシャトリア 王と一族、戦士
ヴァイシャ 庶民、主に商人
シュードラ 奴隷、使用人、農民、職人
不可触民(アウトカースト)
ジャーティは、食事を共にし、通婚を許容し、職業を継承する集団。
ヴァルナとジャーティの関係、ジャーティの意味は時代や地域によって大きく異なる。
山崎元一氏によるカースト(ジャーティ)制度の特徴。
① 各カーストは内婚集団であり、飲食物と共同食事に関する諸規制をもち、構成員はカースト固有の職業を世襲する。
② カースト間には、バラモンより不可触民に至る上下の儀礼的階層序列が存在する。
③ 浄・不浄の観念と業・輪廻の観念とが、カースト制度を思想的に支えている。
ヴァルナが、現実の生活に直接かかわる社会区分というよりは、理念的・宗教的な立場からする社会階層の大区分であるのに対し、ジャーティは、住民の日常生活と直接結びつき、地域社会において独自の機能を果たす閉鎖的・排他的な集団を意味している。
2 古代インドの歴史区分
山崎元一『古代インド社会の研究』では、古代インドを以下のように時代区分します。
① 初期ヴェーダ時代(紀元前1500年頃~前1000年頃)
アーリア人がアフガニスタンからインダス川上流のパンジャブ地方に侵入し、牧畜を主として農業を副とする生活に入った時代。
4ヴァルナの区分は存在していなかった。
② 後期ヴェーダ時代(紀元前1000年頃~前600年頃)
アーリア人がガンジス川上流域、デリーあたりに進出し、先住民を征服し、農耕社会を築いた時代。
社会を区分するヴァルナ制が成立した。被征服民の多くはシュードラと位置づけられた。
人間を不可触視する観念が生まれ、ヴァルナ社会の周縁に存在する未開民の一部が不可触民とみなされるようになった。
③ 後ヴェーダ時代(紀元前600年頃~前320年頃)
アーリア人がガンジス川中流域に進出し、政治・経済・文化の中心となった時代。
コーサラ国、マガダ国などが成立し、商人階級の活動が盛んになり、都市が発展した。
先住民はヴァルナ社会に編入され、先住民の有力者からも、クシャトリアやバラモンに加えられる者がでた。
④ マウリヤ時代(紀元前320年頃~前180年頃)
統一国家が建設された。
⑤ 後マウリヤ時代(紀元前180年頃~320年)
各地に地方政権が興り、西北インドに中央アジアから侵入が相次ぐなど、政治的に不安定な時代。
都市の商工業活動が盛んになる。正統派のバラモン教が王朝の保護下に復活し、ヒンドゥー教が形成された。
大乗仏教の成立。
⑥ グプタ朝(320年~550年頃)
インド古典文化の黄金時代。
ヒンドゥー教が隆盛したのに対し、仏教は衰退の傾向を見せはじめる。
⑦ 後グプタ時代(550年頃~1206年)
群雄の割拠する分裂状態。
都市の商工業は衰え、村落を基盤としたヒンドゥー教が栄え、都市の住民によって支持されてきた仏教は衰退した。
3 カースト制度の歴史
カースト制度は時代、地域によって大きく違っており、原則はあっても、現実は違っている。ヴァルナ=ジャーティ制としてのカースト制度は、ヴァルナ制の成立を前提として、そのうえにジャーティと総称される、さまざまな人間集団が広範に形成された時、はじめて成立するものである。
ヴァルナとジャーティの概念的区別が未確立の古代インドにおいては、カースト制度は成立しえない。
カースト制度の大枠であるヴァルナ制は、アーリア人農耕社会が成立した後期ヴェーダ時代(BC1000年頃~BC600年頃)にガンジス川上流域で成立し、『マヌ法典』(BC200年頃~AD200年頃)などのヒンズー法典により理論化され、インド各地に広まった。
ジャーティもヴァルナ体制のもとで発展した。
カースト制度が形成されたのは、7世紀から12世紀にかけての、インド中世社会形成期のことである。そして、イギリスによる植民地支配下、およびインド独立後に大きな変容を示した。
カースト制度の歴史にとって、インド古代史はその前史ということになる。
前期ヴェーダ時代(BC1500年頃~BC1000年頃)には、外来者である支配者と在来住民というおおまかな区分しかなかった。4ヴァルナ制の枠組みが形をなすのは、アーリア人が農耕社会を完成させた後期ヴェーダ時代の半ばころである。
バラモンは司祭職と教育職(ヴェーダの教育)を独占する。
クシャトリアは政治と軍事を担当する。
ヴァイシャは農業、牧畜、商業に従事する庶民階級。
シュードラは隷属民。
シュードラの下に賎民階層が存在し、その最下層にチャンダーラが位置していた。
『ジャータカ』(BC3世紀頃)では、貴い生まれ(ジャーティ)、家柄(クラ)はクシャトリヤとバラモン、卑しいのはチャンダーラ、プックサと区別されており、ヴァルナ以下のチャンダーラ身分が古代においてすでにあったことがわかる。
上位3ヴァルナはアーリア社会の正式構成員で、再生族と呼ばれ、バラモンの指導する宗教に参加する資格をもつ。
シュードラは一生族で、原則論では、シュードラは上位3ヴァルナに常に奉仕しなければならず、アーリア人の宗教への参加を完全に拒否されている。
シュードラの大部分はアーリア人の支配下に置かれた先住民で、アーリア人の一部がシュードラに加えられていたが、その割合は少なかった。
結婚は、同じヴァルナに属する男女の間で行われるのが原則である。
もっとも、ヴァルナ制は成立の当初より理論と現実の間の矛盾に満ちており、バラモンは現実の生活の場において、原則を適当に修正したり、ゆるめたりしていた。
再生族は儀礼的な浄性が求められたから、シュードラの料理したものを食べたり、シュードラの手から与えられた水を飲むことは、原則として禁じられている。しかし、日常生活でシュードラ差別を貫徹することは不可能だから、抜け道によって現実との妥協をはかった。
『ジャータカ』などに見られる当時の社会生活の中で、ヴァイシャとシュードラはあまり区別されておらず、シュードラ差別の様子も見えない。
ヴァイシャとシュードラは自らを「ヴァイシャ」「シュードラ」と呼ぶことも、他者から呼ばれることもない。それぞれ1つのまとまった社会集団として機能することはなく、両ヴァルナの区分も明確なものではなかった。
日常生活においては富裕か貧困かが問題とされ、差別も現実に即した形で行われた。バラモンの地位も相対的に低下している。
仏典には「たとえシュードラであっても、財産、穀物、銀、金によって富むならば、クシャトリアもバラモンもヴァイシャも、彼より先に起き、後に寝、いかなる仕事でも進んで勤め、彼の気に入ることを行い、お世辞を言う」と表現している。
『マヌ法典』には、シュードラ差別の原則と、現実との妥協をはかった規定が見出される。
時代が下がるにしたがって、次第にヴァイシャとシュードラとの区別がいっそう曖昧化し、シュードラを排除した「アーリア(再生族)社会」の観念が後退し、シュードラを加えた「ヒンドゥー社会」の観念が前面に出てきた。
バラモンは伝統的なシュードラ観の変更を余儀なくされ、農村に住むバラモンはシュードラのために冠婚葬祭などの儀式を執り行い、その報酬で生活を支えなければならなかった。
バラモン教からヒンドゥー教への展開とともに、宗教上のシュードラ差別は実体をますます失っていく。
インド中世の7世紀以降、ヴァルナの意味内容に変化を見せていった。
ヴァイシャは庶民を意味していたが、もっぱら商業に従事する集団に限定され、シュードラは隷属民だったが、農耕、牧畜、職人が包摂されるようになった。
玄奘(7世紀)は、ヴァイシャ=商人、シュードラ=農民という対応関係を記している。
ヴァルナ制の枠組みを固定化するために浄・不浄観が強調され、その結果、隷属下層民のある集団がヴァルナ制の枠組みの外へ排除され、排除された人々は不可触民として位置づけられていく。
不可触民制が発達して不可触民の数が増大し、古代のシュードラ差別のかなりの部分が不可触民差別の中に吸収されていった。
アル=ビールーニ(11世紀)は「ヴァイシャとシュードラとの間にはそれほど大きな違いはない」と記している。
ジュニャーネーシュヴァラ(12世紀)は、シュードラの義務として、再生族への奉仕、芸能、耕作、牧畜、商業を挙げている。
今日のインド社会では一般に、ヴァイシャは商人のヴァルナとされ、農民はシュードラに属するとされている。
シュードラ(奴隷)と不可触民の違いがわからなかったのですが、これで納得しました。
4 古代の不可触民 チャンダーラ
古代インドの諸文献には、「不可触民」という言葉は見られない。古代では、賎民は必ずしも不可触民ではなかった。
文献にチャンダーラが出てくるのは、後期ヴェーダ時代(BC1000頃~BC600年頃)の末期である。
ウパニシャッド文献(BC800年頃~BC500年頃)に、チャンダーラ、ニシャーダ、パウルサカなど賎民集団の名称が見られ、多くは先住民の部族名に由来するとされる。これらの未開先住民はアーリア人から蔑視されているが、必ずしも不可触な存在とされてはいなかったようである。
賎民層を一括して「第5のヴァルナ」として捉える考え方は、古代のインドにおいて萌芽的には生まれていたが、明確な賎民身分概念の形を取るには至らなかった。
不可触民制は紀元前800年頃~前500年頃にかけて徐々に成立した。この時代は、牧畜を主要な生活手段としていたアーリア人が、ガンジス川の上流域に進出して、農耕社会を完成させた時代である。
動物の屠殺やそれに関係した仕事を不浄とし、それを生業とする人間を不可触民とする思想は牧畜生活者の間からは生まれない。不可触民制の成立と農耕社会の完成との間には、密接な関係がある。
また、輪廻思想が一般化し、殺生や肉食を忌避する傾向も現れ始めている。
先住民の一部は定住農耕社会の最底辺に組み込まれ、死んだ家畜の解体、皮はぎや清掃、汚物処理の仕事をするようになった。
後期ヴェーダ時代は、バラモンが司祭職を独占し、ヴァルナ社会の最高位を確保した時代である。バラモンによって原始的で素朴な浄・不浄思想が極度に発達させられ、自己の浄性・神聖性を強調するために利用された。この浄性の強調は、社会の一方の端に不浄と見なされる集団を生んだ。
そしてここに、バラモンを最清浄、不可触民を最不浄とし、その中間にヴァルナ社会の構成員を浄・不浄の度合に従って配列した社会秩序が成立をみた。
賎民はチャンダーラを最下・不可触とし、可触に向かって不浄性の度合いを弱める複雑な一連の血縁集団から構成されていた。
この時代は、ガンジス河の上・中流域で領域国家が形成されつつあった。これらの国の支配をしたクシャトリアも、バラモンが唱道するヴァルナ制度を受け入れることを得策と考え、政治の面から不可触民制の形成に一役を買った。
不可触民の存在はヴァルナ社会の生産階級であるヴァイシャ・シュードラ層の不満をそらせ、ヴァルナ社会の安定的維持を約束するものであった。
不可触民、あるいはそれに準ずる賎民とされたのは、アーリア農耕社会の森林地帯で狩猟採取生活をおくる部族民だった。彼らの中には農耕文化を採用し、4ヴァルナのいずれかに編入された者も多かったが、そうした道に進むことのできなかった者たちが、差別を受けながらアーリア社会にとって不可欠な役割を果たす集団となった。
厳しいシュードラ差別が現実のものではなかったのに対し、賎民層の最下層にあるチャンダーラへの差別は実際に行われていた。
チャンダーラは一般の住民からは区別され、都市や村落の外側に一段となって住んでいた。
仏典の中で、チャンダーラの仕事は死刑の執行、動物の屍体処理、暗殺者として描かれている。村や町の清掃、土木作業、不浄物の清掃、皮革加工などに従事する者もいた。死者の衣を着衣とし、再生族が地上に置いて与えた食べ物を壊れた容器を使って食べ、特別に定められた標識を身につけて歩いていた。
仏典においてチャンダーラは、「最も下劣な人間」「邪悪な」「賤しい」「穢れた」などと形容され、接触によって社会の他の成員に穢れを与える存在として描かれている。
チャンダーラに触れたり、言葉を交わしたり、見たときには穢れを受けるので、浄化儀礼をしなければならないとされた。
ジャータカには、釈尊の前生でチャンダーラの家に生まれて、さまざまな差別を受けたという話がある。
「バーラナシーの長者の家にディッタマンガリカーという名の娘がいた。ある日のこと、マハーサッタ(釈尊の前生)は、ある仕事をするために都に入ったところ、城門の内側でディッタマンガリカーの一行に出遭ったので、道の片側に身を寄せてじっと立っていた。ディッタマンガリカーは、幕の中から外を眺めていたが、彼を見つけて「あれは誰ですか」と尋ねた。「お嬢様、チャンダーラです」というのを聞いて、「見るべきではなかったものをついに見てしまった」と言って、香水で目を洗い、そこから引き返した。伴の者たちは怒りに我を忘れ、マハーサッタを手や足で打ち蹴り、気絶させてから去って行った。(山崎元一『古代インドの差別』)」
法顕(5世紀初め)は「チャンダーラは悪人と名づけられ、一般の人びととは離れたところに住み、彼らが城市に入るときには、自分で木を撃って異常を知らせる。住民はただちにそれを知り、チャンダーラを避けるので、互いに突き当たることはない」と記している。
5 中世の不可触民
「不可触民」という言葉の初出は『ヴィシュヌ法典』(100年頃~300年頃)であり、『カーティヤーヤナ法典』(5~6世紀)になると不可触民規定がさらに明確となる。この頃、4ヴァルナと不可触民という身分概念が成立し、5ヴァルナ体制が成立したと考えられる。
「不可触民という賎民身分概念は中世において本格的に成立したもので、古代の賎民あるいは被差別民と直結するものではない。不可触民に属するとされるカーストの多くは、もともと「山の民」であり、中世後期になっても完全には農耕社会に吸収されてしまわず、山城の兵士、駐兵所の番役など、一般に不可触民という言葉からイメージされるのとはかなり異なる存在形態をもっていた。また、不可触民として農耕社会に吸収された人々も、単に差別されるだけの存在ではなく、地母神信仰の世界においてはバラモンにまさる精神的権威を保持しつづけていた。(小谷汪之『不可触民とカースト制度の歴史』)」
アル=ビールーニー(11世紀)は、シュードラの下に8つのカースト的集団があり、その下にはチャンダーラを含む4つの集団が存在していると書いている。
古代の不可触民制と、近現代の不可触民制との相違点。
① 近現代では不可触民カーストの数や人口が多いのに対し、古代では不可触視される者はチャンダーラなど賎民の一部にすぎず、人口比も少なかった。
② 古代ではチャンダーラを含む各種賎民が部族組織を保ちながら、まとまった集団として農耕社会の周縁部に居住していたのに対し、近現代においては各村落の周縁部にいくつかの不可触民カーストに属する者たちが、それぞれまとまって居住している。
③ 近現代の不可触民の多くが、伝統的な職業に従事するほか、農繁期の農業労働提供者となっているのに対し、古代ではチャンダーラなどが村落の生産活動に直接参加することはなかった。
山崎元一「古代インドの差別と中世への展開」(『インドの不可触民』)に、古代の不可触民制(チャンダーラ差別が中心)から、中世の不可触民制(村落に分散定住した多数の不可触民カーストに対する差別)への展開として捉えていいだろうとあります。
① 農耕社会の拡大によって、狩猟採取の場を失った部族民の中で、農耕民化できなかった者たちが、農耕社会の周辺で、農耕社会に必要な補助的労働(不浄視される労働)を提供しつつ生活することを余儀なくされた。
② 地方分権的な封建的支配体制が成立し、都市の商業が衰えて地方的経済単位が形成された6~7世紀以後に、村落の再編成が進み、自給自足性の強い村落が徐々に形成された。その過程で、カースト的職人集団が分裂し、村落に分散定住した。不可触民・賎民諸集団も村落再編成の進行にともない、部族組織をカースト組織に変えて、各村落に分散定住した。
③ バラモンによって、浄・不浄思想がいっそう発達させられ、多数のカーストからなる村落に上下関係の秩序がもたらされた。従来、必ずしも不可触視されていなかった階層の賎民や職人を不可触視する傾向が見られるようになった。されに、不可触民カースト相互の排他性も強まった。
④ 不可触民の存在は、村落内部の不平等に起因する緊張関係をゆるめ、村落に一定の安定をもたらした。不可触民制の発達は、支配者や土地所有者の期待に応えるものだった。
近・現代では不可触賎民の数が極めて多いが、チャンダーラなど賎民の人口比率はそれほど大きくなかった。また、近・現代の不可触賎民制は北インドに比べ南インドにおいてより厳しい。
1931年の国勢調査によれば、不可触賎民の割合は全人口の14%、ヒンズー人口の21%である。
6 釈尊在世のころのインド社会
紀元前600年頃、ガンジス川流域に都市や商業が興り、貨幣が使用されるようになった。農業生産が拡大し、生産物が都市に流入し、商人階級が成立した。都市と農村間の流通を担った商人は貨幣を蓄積し、経済的実力をつけた。
釈尊の時代に都市を構成する人々の民族系統について、アーリア系と見る説とチベット・ビルマ系など非アーリア系と見る説とがある。マガダ国は先住民の国だったという説もあり、バラモン教の習慣や権威の影響力が小さかった。
ガンジス川の中・下流域(マガダ地方が中心)でも4ヴァルナの区分は受け入れられていた。しかし、ガンジス川上流域の正統派バラモンは、東方のガンジス川中・下流域をヴァルナ制度が乱れた不浄の地とみていた。
正統派バラモンの目から見れば、東方の地の住民はシュードラに近い存在で、ナンダ朝やマウリヤ朝はシュードラ出身が王朝を創始したとされた。
僧伽を支えた人は、王族や都市の富裕な人が多かったが、グプタ朝の衰退とともに都市が衰え、それにともない都市社会に基盤を置く仏教やジャイナ教が勢力を弱めていく。
7 仏教とカースト制
山崎元一『古代インド社会の研究』に、仏典はバラモン側の主張に厳しい批判を加えたとあり、それぞれの主張が書かれています。
バラモンの主張
①4ヴァルナの区別は神が定めた絶対的なものである。
②バラモンこそアーリアの純粋な血を持つ最清浄・最上の存在である。
③4ヴァルナには、バラモンを最上位とし、シュードラを最下位とする上下の身分関係が存在する。
④各ヴァルナに定められた義務に違反することは宗教的罪悪である。
仏典の批判
①各ヴァルナに定められた義務は現実にはあまり守られていない。
②現実には富の有無によって上下関係が決まる。
③ヴァルナとは個人が「生まれ」によって与えられる名称にすぎない。
④バラモンの血の純粋さを示す証拠はなく、人間の肉体・生理・能力などはヴァルナとは関係ない。
⑤人間の価値を決めるのは「生まれ」ではなく、個々人の行為の善悪である。
⑥善悪の行為およびそれによって得られる現世・来世の果報はヴァルナとは関係ない。
⑦出家・精進・解脱はすべてのヴァルナに平等に開かれている。
ゴーカレーによると、出家者の構成は、328人のうち、バラモン134人、クシャトリア75人、ヴァイシャ98人、シュードラ11人、アウトカースト10人。
サンガ内の序列は、具足戒を受けてからの歳、すなわち法臘の順番であり、出家前の出身階級は顧慮されなかった。
釈尊は奴隷が比丘になることを許したが、奴隷所有者の反対を受け、主人の許可を得た奴隷以外は出家させることを禁じたと、律蔵にある。
初期の仏教教団は賎民層が社会に存在することは認め、そのうえで、彼らが正しい信仰を持ち、道徳的な生活を送り、あるいは出家して修行にはげむなら、彼らとバラモンたちヴァルナ社会の成員とに差はなく、宗教的な果報も同等であると主張する。また、賎民を蔑視する人には、有徳者がチャンダーラであっても、敬意を払うべきであると諭している。
比丘らは奴隷から布施を受け、教えを説いていた。その教えの内容は、奴隷として生まれたのは前世の業の結果であること、仏道に帰依し、布施の徳を積み、奴隷としての義務を果たすならば、死後は他の者たちと平等に天国あるいは高貴な家柄に生まれ得ること、などを強調したものであったらしい。
初期の仏教教団は賎民層も不況の対象とし、賎民層にも門を開いたが、現実に教団や信者が偏見なく受け入れたかどうかは疑問視される。
釈尊の死後、次第に差別的色彩を強めていき、障害者、犯罪者、不可触民は比丘になることができなくなった。
平岡聡「インド仏教における差別と平等の問題」に、『ディヴィヤ・アヴァダーナ』(10世紀前後の仏教説話集)から、下層民が出家する話を2つ紹介しています。
・スヴァーガタの出家譚
物乞いに身を落とし、散々な苦痛を経験するスヴァーガタが縁あって出家する。ブッダは彼に蓮華を買ってこさせ、彼にはそれを比丘達に布施するよう命じ、また比丘達には次のように命じる。
「比丘達よ、〔青蓮華を〕納受せよ。一切の芳香は目を喜ばす。彼の〔悪〕業を取り除くべし」
ブッダは布施の功徳でスヴァーガタの「過去世での悪業」を取り除こうとしている。
・プラクリティの出家譚
マータンガ種の娘プラクリティがあることが機縁で出家をする。当時の僧団としてはプラクリティをそのまま出家させるのは都合が悪いと考えられた。
ブッダは、どんな悪趣〔への業〕も清める陀羅尼によってプラクリティが前世で積んだ悪趣に導く一切の業を余すところなく清浄にし、マータンガの生まれから解放する。汚れなき者となったプラクリティにこう言われた。
「さあ比丘尼よ、お前は梵行を修しなさい」
ここには浄不浄の観念が見られ、「生まれ」による「汚れ」の思想が見られるが、ここではそれを「陀羅尼で浄める」というステップを踏んでから、初めて出家が許されている。
これらの説話は後代に創作されたものであり、ブッダ在世当時にはなかった考えである。このようなことは釈尊在世当時に行われていなかったが、時代が下ると、このような人の出家が問題視されるようになり、これらの話に反映している。
なぜ不可触民たちの出家が敬遠されたかというと、社会から非難が浴びせられたからである。糞尿の除去をしているチャンダーラを出家させたことで、コーサラ国王プラセーナジットは釈尊を非難した。
信者にすれば、僧伽に布施することで功徳を積もうとしたのに、チャンダーラや犯罪者が僧伽にいると、僧伽が清浄ではなくなり、布施をしても功徳にならない。
物質的な援助は信者の布施に全面的に頼らなければならない僧伽としては、信者の機嫌を損ねると布施が断たれることになるので、信者の顔色を窺わざるを得ない。
釈尊は非難されても意に介さなかったが、釈尊の滅後、身分の低い者や障害者の出家が禁止されたり、出家の許可には慎重な態度を取るようになった。
8 疑問
カースト制について本を読んで、ますます疑問が増えました。
釈尊在世時、身分差別はどの程度きびしいものだったのでしょうか。
たとえば、コーサラ国のパセーナディ王はシャカ族の王族の娘を妻に迎えようとしたが、気位の高い釈迦族は卑しいコーサラ国に王族を嫁がせることを拒み、大臣が下女に生ませた娘を自分の子と偽って嫁入りさせたということ。
パセナーディ王の息子ビルリ王子が釈迦国に行ったとき、釈迦族の人たちから侮辱されました。
マウリヤ朝の政治論書である『実利論』は、父親がクシャトリアであっても、母親がシュードラの子供はシュードラと定めているので、ビルリ王子はシュードラということになります。
だから、釈迦族の人たちはビルリ王子を王族とは認めなかったのでしょう。
しかし、釈迦族とコーサラ国は本家と分家の関係らしいのに、なぜ釈迦族がコーサラ国を見下していたのか。
釈迦族はイクシュヴァーク王の子孫だと称しており、コーサラ国もイクシュヴァーク王の子孫だという系譜があるそうです。
磯邊友美「SardalaKamavadanaに見るチャンダーラの出家」には、「コーサラ国王がマータンガの末商であると伝える記述がLalitavistaraとその漢訳『方広大荘厳経』『普曜経』や『仏本行集経』に見られる」とあります。
先祖がマータンガであれば、コーサラ国の王家は不可触民ということになります。
もっとも、磯邊友美氏は「姓としてのマータンガをチャンダーラの一種であるとする理解が一般的になされるが、パラモンの法典類は、両者の関係をはっきりと規定しているわけではない」と書いていますが。
マガダ国が非アーリア人の国だという説があるそうですが、コーサラ国の王族も先住民なのでしょうか。だとしたら、マガダ国やコーサラ国の王族はクシャトリアではなく、シュードラ、もしくは不可触民だということになります。
もう一つ、釈尊が釈迦国に帰った時、王族の子弟たちが出家しました。その時、王族の子弟は「私たち釈迦族は気位の高い者です。床屋のウパーリは私たちの召使いでした。この者を最初に出家させてください。そうすれば、私たちはウパーリに対して、礼拝、合掌をなすでしょう。そうして私たち釈迦族の気位が除かれるでしょう」と言っています。
ビルリ王子が釈迦族の人たちに侮辱されたのは、このエピソードの前なのでしょうか。釈迦族は身分差別を当然のことと考えていたのかどうか、そこらも疑問です。
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