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東京発25時  ―青草民人のコラム― 

虚飾   2006年2月 

マンションやホテルの偽装事件、防衛施設庁の談合事件と、虚飾という文字を絵に書いたような事件が相次いで発覚している。

ライブドアの堀江社長は、華々しく登場し、堀江容疑者となって掃き捨てられるようにテレビの画面から消え去った。

自殺者三万人時代、勝ち組負け組、フリーターにニート。
不況という暗闇を突破する光のような存在だった堀江氏も、最後はそのブラックホールに飲み込まれてしまった。

高い志と誠意をもって会社を創設し、技術と努力によって信用と利益を得て、国民の平和的、文化的な生活の安定に寄与することが、日本の企業倫理であったと思う。

日本が敗戦後、武器を棄て、経済をもって世界に挑戦し、平和と豊かな暮らしを得てきたことは、一人の国民として誇りに思う。
企業のトップから作業員にいたるまで、はたらく意義と喜びにあふれ、それをはげみに家族を養い、今の日本を作ってきた。

最近のいわゆる郵政民営化からはじまる小泉構造改革路線は、沈滞する不況に風穴をあける核ミサイルだったのだろうが、結果的に放射能をまき散らし、長い間人々を苦しめることとなるやもしれない。

国内の経済が危機に陥ると戦争が起きるという歴史の見方がある。表面に見える形は違っても、根がつながっているということもある。

 日本がどこに向かうのか、危惧する材料が見えたときこそ注意深く世相を見なくてはいけない。

戦争の美化   2006年1月 

 八月六日の広島の原爆の日、九日の長崎の原爆の日、十五日の終戦記念日は、戦争というものに対して深く考えさせられる日である。もう一つ、十二月七日は日本が真珠湾を攻撃した開戦の日。

 戦争を体験したことのない私にも、この日は、人が傷つけあうことの愚かさと、時代の波に飲まれて死んでいった人々の無念さを痛切に感じる。

 戦後六十年の節目を迎え、最近では日本人の危機意識に警鐘をならし、国家としての独立性を軍備の再編に求める気風が増している。

 自己防衛力を高めることは、世界の警察を自称する米軍との安全保障条約にもかない、日本の自衛隊がある程度自立することで、米軍の国際的役割もさらに強化できるとする意見もある。

 最近、頻繁に太平洋戦争中の潜水艦や戦艦、自衛隊の護衛艦を扱った映画が公開されている。国民のナショナリズムに訴え、自国を武力で守ることの正当性を強調し、軍備の増強を肯定する風潮にある。

 白い軍服を身にまとい、統率のとれたたくましい海軍の男たち。人気のある俳優が演じ、かっこよく死んでいく。愛するものを守るために命をかけて戦うことの美しさ、すばらしさ。
 そういった、現実とはまったく違う戦争の世界を、映像は美しく描き出す。

 戦争の愚かしさは、愛するものを守るために他人が愛するものを殺すことである。戦う相手は未知の国からきたエイリアンではない。

 自国民以外を鬼畜とよび、人間扱いしなかった歴史をしっかり見つめ、戦争を美化することなく、回避する感性を大切にしたい。

 戦争とは、自分以外の人間が見えなくなることである。自分と同じ大切な命を相手ももっている。自分が愛する家族と同じくらい愛されている家族が相手にもいる。それが見えない。

 戦争で尊い命を犠牲にされた方々に捧げるのは、強い日本国の姿ではなく、平和な世界が繁栄している姿であるに違いない。

 
有終の美    2005年12月

今年もいよいよ師走。街中にクリスマスツリーの明かりとジングルベルの軽快な音楽が流れ始めた。

今年は一体どんな年だったのだろう、と感傷にひたる間もなく、忙しさに追われて毎日を送っている。

雪がちらつく時期になんだが、日本人の好きな花は何といっても桜であろうか。毎年のように「桜」という歌がヒットチャートに上がってくる。

年が明けて三学期の卒業式間近になると、哀愁をおびたメロディーとともに、別れを意識した歌詞が中高生の心をゆさぶる。本来ならば、四月の入学シーズンを彩る桜だが、春爛漫の華やかさよりも散り際の潔さやはかなさのほうが、日本人の心をとらえるようである。

師走といえば忠臣蔵。浅野内匠頭の辞世の句も「風さそう花よりもなお我はまた春のなごりをいかにとかせん」と、散る桜を自分に喩えた歌であった。

今年の師走も有終の美を飾るような話題は見当たらない。
巷をにぎわすクリスマスの軽快な音楽とは裏腹に、暗く横たわる現実の闇の深さに戸惑いを覚えるのは、私一人だろうか。

 
紅葉   2005年11月 

 月日が経つのははやいもので、今年も十一月を迎えた。冷たく張りつめた空気が頬をさす。

 晩秋には紅葉。我が家から見えるケヤキの大木は、天辺を紅く染め始めた。校庭の桜もはらはらとなごりを惜しむかのように散り始めた。

 レオ・パスカーリアの「葉っぱのフレディー」という童話を読んだことがある。
 青々と小さな芽をだした葉っぱのフレディーは、季節の移り変わりを友だちとすごす中で、新しい出会いと別れを経験し、やがてやってくる冬の落葉にいのちのうつりかわりを感じ、自分もまた一枚の落ち葉として一生を終えていく。

 春夏秋冬。私たちの人生も一枚の葉のように、ときには暖かい光を浴び、ときには嵐の猛威にさらされ、ときには静寂の中で物思いにふけり、そして自己の生き方を振り返りながら、最後のときを迎える。

 鮮やかな紅葉の姿は、私たちの目を和ませてくれる。自然が私たちに見せてくれる大いなる摂理。その燃え盛る彩りに圧倒されながらも、移りゆく季節と新たな息吹への期待を静かに味わいたい。

 
衣替え   2005年10月 

 暑さ寒さも彼岸までというが、本当に涼しい季節になった。この間までのあのうっとうしい暑さが嘘のようである。

 人は、気温の変化によって生活の一部を変えることがある。今日は冷えた生ビールが飲みたいなあと思っていたのに、気温が下がると熱燗が飲みたくなる。
 短パンに半袖ルックが肌寒さを感じると同時に、いつの間にか長袖、長ズボンになっている。

 最も季節に敏感なのは、コンビニエンスストアであろうか。気温の変化やその日の天気によって商品をこまめに変えて販売している。昨日まであったソフトクリームやかき氷の看板が、おでんや肉マンの宣伝に変わっている。消費者のニーズに敏感に対応することが売り上げに直接結びついているのだろう。

 秋といえば、何となく物悲しいというか、感傷的になりやすい季節である。一日の昼の長さも彼岸を過ぎるとどんどん短くなる。落葉樹の葉は紅葉し、やがて落ちていく。大騒ぎしていた蝉の声は、静かな秋の虫たちの声に変わる。なんとなく人恋しく演歌が聞きたくなる。

 都会では、クールビズ姿よりもスーツの着こなしが気になる季節になった。町を歩く女性の装いも落ち着きを取り戻し、なにか物足りなさを感じる。頬をつたう冷たい風が、衣替えを促している。

 ああ、もう秋なんだな。すごしやすさを感じつつ、過ぎ行く季節を惜しんでいる自分がいる。過ぎ行く時を惜しんでいる自分がいる。


 
蝉(せみ)   2005年9月 

 うだるような暑さも峠を越し、残暑に夏の名残を惜しむ時期になった。

 夏の代名詞ともいうべき蝉の鳴き声。その蝉にも時期によって変化がある。

 夏休みの始まりとともに一番早く鳴き始めるのが、ヒグラシという蝉である。カナカナカナカナと、なんとなくもの悲しく鳴き始める。真っ昼間というよりは、日がやや傾きはじめた午後から夕方にかけて鳴き始めるので、よく怪談話の中に出てくる鳴き声である。

 盛夏を代表するのは、ジージーと鳴くアブラゼミ。蝉時雨という言葉があるが、まさに鳴き声が降ってくるように聞こえる。暑さを倍増させるような騒々しさながら、松尾芭蕉はそれを逆手にとって、「静けさや岩にしみいる蝉の声」と、見事に蝉時雨の音に包まれた静寂の世界を表現している。

 この蝉の鳴き声をアブラゼミとするか、ニイニイゼミとするか、真面目に議論した人がいるらしいが、まあどちらでもよい。

 夏の代表的な蝉といえば、ミンミンゼミ。この声を聞くと、かき氷やよく冷えたスイカが食べたくなる。風鈴の音や麦茶の氷の音ともよく似合う。まさに夏休みの音である。

 さて、そろそろ宿題が気になる頃に鳴き出す蝉が、ツクツクボウシ。オーシン ツクツク オーシン ツクツクと始まると、ああ夏休みが終わってしまう。そんな寂しさを感じる。ヤダヨ ヤダヨ ヤダアーッという感じで終わる鳴き声には悲愴感が漂う。

 蝉は、生涯のほとんどを地中で過ごす。桜満開の春や実りの秋、厳格な冬を知らない。短い一生を暑い夏の真っ只中で完全燃焼させる。

 道ばたに転がる蝉の死骸をよく目にする。つま先にぶつかるとカラカラと乾いた音がする。一生を悔いなく生ききった小さな生き物の最後は、とても潔すぎて、もの悲しい。

 
 弱肉強食   2005年8月

 自然の中で生きている動物たちは、弱肉強食という過酷な世界を生きている。大きなものが小さなものを食べ、強いものが弱いものを食べる。
 大自然のバランスは、こうした生態系を維持することにより成り立っている。

 弱いものたちは、食べられても種を保存するに十分の個体数をもち、平然と食べられている。
 逆に強いものほど、空腹に耐え、種の保存にあくせくしなければ生きていけない状況にあるのが、大自然の法則である。

 草原のライオンは、必要なときにしか狩りをしない。それでも、大きな獲物を手に入れるのは、たとえライオンといえども、容易なことではない。何日も空腹を抱えて、暑さと飢えに苦しむ日々もあるそうだ。

 では、人間はどうだろう。「長いものにはまかれろ」ということわざがある。「数は力なり」ということわざもある。
 人間界にも弱肉強食の論理が存在するが、どうやら人間界は、弱者が少数で、強者が多数のようだ。

 少数意見を重んじるのが、民主主義の原則というが、永田町あたりでは、原則というのは、はがし忘れた冬の冷やし中華のメニューのようなもので、聞かれれば、「ああそうだね」というほどのものなのか。

 郵政民営化法案をめぐって、政党内のいざこざが問題になっている。法案の内容そのものよりも、派閥議員として生きていけるかどうかという人間の浅ましさばかりが目につく。
 自らのいのちを犠牲にした議員もいるというのは何ともおぞましい限りである。
 人間界の種の保存もいのちがけという点では共通するのだろうか。

 
40の手習い   2005年7月 

 三十歳半ばをすぎた頃から、いろいろなことに興味をもつようになった。絵を描いたり、お茶を立てたり、ギターをひいたり、サックスを吹いたり、野球をしたりと。暇があるわけでもないのに、何にでも手を出したくなる癖があるらしい。

 しかし、こうした私には、これまでに挫折した趣味も多い。けっこう長くやっていたのが釣り。道具も揃えて、海釣りのあらゆるジャンルに挑戦したが、釣果は今一つの日々。

 その次に始めたのが囲碁。これも通信講座の上級までやったが、対戦してもちっとも勝てない。

 熱しやすく冷めやすい性格なのか。使わなくなった道具だけが物置きを占領している。何をやっても中途半端。格好だけはいっちょまえだが、ちっとも上達しない。

 四十の手習いで、いろいろとやってはいるが、どれもこれも人に自慢できるまでにはいたらない。自信喪失と劣等感だけがしんみり残る。

 でも、最近、発想を変えてみることにした。下手の横好きでいいじゃないかと。うまくはなくても、楽しんでやろう。無理をしないで、続けてみようと考えたら、気が楽になった。他人よりうまくやろうとか、人目をひいて、もてはやされたいという気持ちをもっていると、楽しいはずの趣味が苦痛になる。

 四十の手習いはまだまだ続く。いや、続いてほしい。いや、続けなければ。

 また肩に力が入ってしまった。
 

人間の価値って   2005年6月 
 
 先日、仕事で、ある農家を訪問する機会があった。その農家の方は、りんごを栽培して生計を立てている。

 りんごを育てる仕事は一年中続くそうだ。春の花の摘花作業、実がつけば実の摘果作業、そして、虫や病気に対する防除、袋掛け、等々、収穫に至るまで休みなく農作業が続く。

 しかも、収穫を間近に控えると台風のシーズンとなり、気の休まる暇がない。晴れが続くといえば水不足を心配し、雨が多いといえば日照時間を気にし、ひょうや霜の害に備える。りんごに限らず、農家の人の暮らしは、自然との共存と克服の毎日である。

 こうして細心の注意を払ってできたりんごは、農家の人にとってかけがえの無い逸品となる。世界中どこに出しても恥ずかしくない、甘くて美味しくて美しいりんごなのである。選ばれて選ばれて、大切に大切に育てられ、最後に残った逸品である。

 商品価値は手間ひまをかけた分だけ高価になる。志半ばで落ちたものや傷んでしまったものは、どんなに同じ味がしても、商品としての価値を失ってしまう。せいぜいジュースになることで、新しい価値を得るのが精一杯であろう。

 では、人間の価値ってどこで決まるのだろうか。容姿や性格、地位や財産、教養や学歴等々、価値の規準となるものはたくさんあろうが、はたして私たちはりんごと同じでいいのだろうか。

 たとえば、偏差値という数字でその人の学力をはかることはあるにしても、その数字がその人の価値を決めることにはならない。

 ある仏教学の先生が、仏教では、平等ということは他と比較しないで、その人の存在をはたらきとして認めることだ、とおっしゃった。

 勉強ができない子は勉強ができないというはたらきをしてる子であり、勉強ができないというはたらきをしている子がいることによって、勉強ができるというはたらきをする子がいるのだ。どちらも子どもであることに差別はない。

 りんごも本来は、ジュースになろうが、高級店に並ぼうが、りんごという果物のはたらきに違いはない。結局はそれを買う人間の価値観が問題なのだろう。

 真に人を見る目をもちたいものである。


自由と放任、強制と矯正   2005年5月 
 
 最近、電車などでよく目にする光景。母親の子どもに対する態度には、二つのパターンがある。

 一つは、子どもが車内を走ったり、靴をはいたまま外の景色を見ていても、雑誌や携帯に目を向け、知らん顔の親。もう一つは、子どもの行動をつぶさに観察し、いちいち注意をする親。大きくわけると、子育てのパターンにはこの二種類あるのだろうか。

 しかし、そのどちらの母親の子どもも行く末が心配である。放任された子どもは、時と場所を考えて自分の行動を使い分けることができなくなるだろう。強制された子どもは、いつも母親の顔色をうかがい、自分で判断することができなくなるだろう。

 子どもには発達の段階に応じて身につけなくてはいけないことがある。適時性というのだろうか。その時期を見過ごしてしまうと身につくことが身につかなかったり、時期にあわないことを教えようとすると発達に歪みが生じることがある。

 しっかり大人が抱き締めて育てる時期、手を離して見つめる時期、転んでも自分で歩かせる時期があることを知ってほしい。

 最近の若者をみていると(こうした物言いはすでに私自身を見失っている物言いであるが)、自分のことが自分で決められない人間が多くなったように感じる。転ばぬ先の杖ではないが、失敗をさせない、失敗をゆるさないということが、子育ての中で大きなウエートをしめていないだろうか。

 最近は、ほとんどが紙おむつ。濡れて気持ち悪いという感覚が赤ちゃんのころから育たなくなっているという。また、あまりにも汚れに敏感になりすぎた結果、あらゆるものにアレルギー反応を起こすようになってきた子どもが増えている。

 環境ホルモンのせいだとか、社会の構造が子どもの発達に悪影響を及ぼしているとかいう。確かにそういったことが遠因ではあろうが、身近な子育てのなかに多くの原因があるように思う。

 放任ではない自由、強制ではない矯正というバランスある子育てが求められている。


巨大ショッピングモール   2005年4月 
 
 春休みとなり、家族で旅行に出かけた。楽しみにしていた旅行なのに、天気はあいにくの雨模様。さっそく予定していた遊園地を翌日にまわした。

 さて、雨の中一体どこに行こうかと思案の末、宿の人の話を聞いて、新しくできたという巨大ショッピングモールに行くことにした。わざわざ旅先に来てまでも買い物なんかしなくてもとも思ったが、雨に中の旧跡めぐりなんて子どもには、ブーイングのたね。ほしいものを一つだけ買ってもよいという条件で、商談成立。

 畑やビニールハウスを横目に走ること三十分。突然視界に巨大な建物が出現した。都会に住んでいると、逆にこんなに大きな建物に出くわすことに驚きを感じる。ノアの方舟とかスペースコロニーといった感じ。

 中に入るとそこには一つの町が形成されている。まず驚いたのは、広さである。店の中というよりも、歩行者天国の新宿を歩いているような気分になる。まさに店内は街路である。一角にはレストラン街があって、世界の料理が味わえる。

 大規模な店鋪と小売りのテナントが共存し、それぞれの特色を生かして調和を図っている。たいていのものはそろえることができ、子どもを飽きさせない工夫もあちこちにあり、巨大なアミューズメントが階ごとに仕掛けられている。駐車場は3500台。県内だけでなく他県からも買い物に来ている。

 ふと思い出したのが、「インディペンデンスデイ」という映画だ。巨大な宇宙船がやってきて都市を壊滅していく話。

 のどかな田園風景にそびえたつこの巨大なスペースコロニーは、まさに巨額の富を吸い尽くす異星人の宇宙船のようだ。田舎にない都会の雰囲気は、訪れるものをセレブな感覚へといざなう。

 不思議な空間に私たち家族もいつの間にか餌食にされていた。


花粉症   2005年3月 
 
 3月を迎えた。街ではマスクをした人を見かけるようになった。毎年この時期になると、憂鬱になるのは花粉症。春一番に乗ってやってくるのは、甘い香りではなく、あの黄色い杉花粉。

 もうかれこれ二十年近くの付き合いであろうか。私は春を鼻で感じる。ムズムズ、ズルズルくると、来たなという感じである。

 こんな病気は子どもの時にはなかったように思う。いつごろからこんなおかしな病気が流行りだしたのだろうか。

 杉の花粉は、若い雄花の咲く雄の杉から出るそうだ。昔は、春になっても杉の花粉がこれだけ多く飛散することはなかったという。

 日本が高度経済で発展し、都市に人口が増えると、山を切り開いて住宅を建てるようになった。東京も数多くのニュータウンができ、地下の高騰ともあいまって、郊外の山林が住宅地化した。

 山間部の杉は住宅材として使われ、新しく植林もされたが、市場経済は高い日本の木材よりも安い外材を輸入するようになり、林業は廃れ、山が荒れた。

 住宅の柱や梁にしようにも、若い杉や檜は枝打ちをしないと木が曲がってしまう。枝打ちをする人が少なくなったので、間伐もされず、荒れ放題に伸びた杉の木は、新しい花を咲かせ、人間に復讐している。

 国はようやく国家の緊急課題として花粉症の対策に乗り出すようだが、にんまりしているの製薬会社ぐらいのものか。

 ヘックション。ズルズル。あー、いやだ。


バレンタインデー   2005年2月 
 
 1月も半ばを過ぎるとスーパーやデパ地下(デパートの地下食品売り場)では、チョコレートの山が見受けられるようになる。さまざまなかざりやリボンに彩られたかわいいチョコレートたちが、今か今かと出番を待ってならんでいる。

 2月14日はバレンタインデー。カトリックの祝日で、女性から男性に愛を打ち明けることが許される日であるという。

 カトリックというと、女性は良妻賢母で、不倫は許されない。純血を守り、夫に尽くすというイメージが強い。日本にも男尊女卑の差別があったが、洋の東西を問わず、女性への風当たりは強かった。仏教にも五障三従の思想がみられ、女性は女性のまま成仏できないとされた。

 しかし、そんなことはどこ吹く風。現代の女性はたくましい。本命、義理チョコ使い分け、思いの男性をゲットしようと作戦を練っていることだろう。今年も世の男性は甘い言葉と甘いチョコに翻弄されるのだろうか。

 海老で鯛を釣るという言葉があるが、男には本命なのか義理なのかの判断は難しい。甘いチョコで高価なブランド品を釣られないように、義理チョコ諸君はくれぐれも甘い誘惑にご注意の程。

 「バレンタインデー」という言葉を辞書で引いたら、その次の言葉は「破廉恥」という言葉であった。ウーン。

 キャッシュレス   2005年1月

 最近、財布の中味が賑やかになった。といっても、お札が厚くなったということではなく、持ち歩くカードが増えたということだ。キャッシュレスで、カードで支払うことが多くなったからだ。

 確かに現金を持ち歩かないということは、いざというときにはありがたいこともある。以前に、銀行のキャッシュコーナーでお金を引き出すのを忘れて、連休に入ってしまったことがあったが、スーパーでもカードが使えたおかげで助かった。

 しかし、お金を払わないでものを買うという感覚は、慣れると怖いものがある。現金で買おうと思えば、やはりよほど品定めをして、買える範囲でいいものをゲットしようとする。カードになると分割あり、リボ払いあり、しかも、つぎの給料日にはお金が入るだろうという、ない袖まで当てにするので、つい買い物が衝動的になる。一つ一つの買い物は額が大したことなくても、積み重なってくると、明細を見て愕然とすることがある。

 近ごろは、キャッシュバックのカードがあるし、レンタルのカードにクレジットがついてくるものが多い。何とか貯金の金を吐き出させようと懸命なのだろう。

 しかも、キャッシュレスにつづいて、カードレスにもなってきており、携帯電話がカードに代わって、航空券の予約や支払い、商品の購入などを可能にしている。

 現金にせよキャッシュレスにせよ、いずれにしても庶民のお金は出ていくばかりだが、災害にあわれた人のことを思うと、使い道をよくよく考えないとと反省させられる。義援金もキャッシュレスでできるんですよ。問題は出すか出さないかですが。


 
 たばこ   2004年12月

 道ばたに転がっている吸い殻をよく見ると、たいてい同じ場所に何本も種類の違ったたばこが落ちている。たいがいが側溝の細いすき間のあるふたか、ガードレールの植え込みの近くだ。無造作に捨てられている吸い殻を見ると、日本人のモラルの低さをひしひしと感じる。

 私は禁煙を始めて、ようやく一年がたとうとしている。以前は煙の香りがすると、自分もポケットのたばこに火をつけて、煙をまき散らしながら、側溝にポイ捨てしていた。

 しかし、自分がやめてしまうと、これほど嫌なものはない。今までいい香りだと思っていたあの煙のにおいが、遠くからにおってきても鼻につく。前を歩くおじさんが歩きたばこをしていると、速度をあげて追い抜きにかかる。最近では、たばこのにおいのする場所を避けるようにもなってきた。

 禁煙としては大成功であろう。何で今まであんなものを口にしていたのか。たばこの麻薬性とでもいうのだろうか。副流煙が他人の健康に影響をおよぼすと指摘され、喫煙者は半ば犯罪者のように次第に隅に追いやられている。

 人間とは勝手なもので、自分の都合で必要なものと不必要なものを選んで使っているが、たばこを吸う吸わないにかかわる考えや感じ方は、まさにそうだろう。

 最近、近くのタバコ屋のおばさんがよそよそしくなった。販売機でたばこを買わなくなったのに気がついたのか。何となく遠慮しながら朝のあいさつをして通る。清々しい朝の空気をいっぱい吸い込んで。


 
セルフ   2004年11月 
 
 最近、車で町を走っていると目につくのが、セルフという看板だ。ガソリンスタンドのほぼ半数はセルフサービスになってきている。私はまだ自分でガソリンを入れることに抵抗があるので、セルフのスタンドには消極的である。

 父親が昔、タンクローリーの運転手をしていた時、誇らし気に危険物取扱者の免許証を見せて、これがないとガソリンスタンドはできないんだと話していたことを思い出す。

 しかし、バイトのお兄ちゃんがガソリンを給油していることを思えば、自分にもできるのだろう。でも、もしも失敗してまき散らしたり、引火でもするようなことがあったらどうしようと考えてしまう。以前に、洗車機のセルフができて、それもまちがったらどうしようと躊躇していたが、今では、ガソリン代が馬鹿にならないので少しでも安いセルフスタンドを探して入れる主婦も多い。

 話は変わるが、ファミレスでもセルフのサラダバーやドリンクバーが目立つようになった。バイキング形式のファミレスや回転寿司の店もまさにセルフそのものだ。コストダウンするためには、セルフがもっとも人件費のかからない商売の仕方なのだろうが、どうしても味気なさが先に立つ。

 セルフは、人に気兼ねなく、何でもほしいものを自分がほしい分だけ、しかも安く手に入れることができるという便利さはある。しかし、選択したものに対する責任は自分が負わなければならないということも出てくる。

 インターネットが社会の中で大きな役割を担うようになり、通販の会社がプロ野球球団を経営するまでにいたった。セルフによる自己選択と自己責任という構図は、世界のグローバル化とともに人間社会に急速に伸張しつつある。そのもっとも最たるものが、セルフキル=自殺である。年間3万人の自殺者が出る。人間は自分の死をもセルフするようになったのか。

 セルフという言葉には大きな落とし穴がある。それは自立と孤立の問題である。本来のセルフとは自立を促すものだと思う。しかし、人間同士が関わるデメリットをできるだけ排除していこうとするセルフの考え方は、無駄を省き、効率をよくすることにはちがいないが、社会を分断し、人間を自立から孤立へと追いやっている。

 自分でできるようになることと、一人で何でもすることとは微妙にちがう。人間の社会の中で、人が関わり合う場面が少なくなればなるほど、世の中は不安定になっていくように思える。今日もまた、セルフの看板を避けて走ってしまう。

サプリメント   2004年10月 
 
 数年前からコンビニの店頭に見なれないコーナーができていることに気づいた。口臭を予防するガムやのど飴を売っている棚の近くに、半透明のプラスチックの瓶が並んでいる。見るからに“薬”のイメージである。棚にはサプリメントの文字がある。

 一体これは何だろうと思っていたところ、職場の同僚がその瓶をもっていた。一体何なのかと質問したところ、「ああこれかい。これはビタミンCだよ」という答えだった。これを飲むと風邪をひきにくくなるという。

 ビタミンCといえば栄養素の一つで、たしかに身体に良いことはよく知っている。彼は1日何回か、疲れた時に3錠ほど飲むと調子が良いと言う。

 サプリメントとは、英語でDietary Supplement、栄養を補助する食品という意味だそうだ。サプリメントにはさまざまな種類がある。ビタミンC、B、Eをはじめ、カルシウム、鉄分、亜鉛、アミノ酸、DHA、コラーゲン、グルコサミン、プロテイン、プロポリスなど、人間の生活に必要な栄養に関わる成分のほとんどといっていいほど、いろいろなものが開発されてきている。

 人間の細胞はお母さんのお腹の中で60兆個にもなっ て生まれてくる。その60兆個の細胞が毎日タンパク質を作り、そして、私たちの身体を構成していく。

 しかし私たちの身体は新陳代謝を繰り返し、3年もたてばほとんど新しい身体に生まれ変わるという。つまり私たちの身体は、その間に口から食べた物によって作られているというわけだ。そこで、偏りが起きないようにと、サプリメントが必要になるという発想が生まれてきた。健康ブームとも重なって、こうした栄養補助食品は飛ぶように売れている。

 かくいう私も、サプリメントまではいかないが、身体に良いからと野菜ジュースとヨーグルト、緑茶とウコン茶を毎朝とっている。しかし、これが義務のようになるといささかつらい。

 仕事でストレスをため、やけ酒をのみ、愚痴を言っている反面、身体に良いものをといって飲んでいるサプリメント。

 我が身を振り返って考えた時に思い出した親鸞聖人のお言葉がある。
「くすりあればとて、毒をこのむべからず」

 これは、悪人が救われるというのなら悪いことをしたほうがいいではないか、という考えをいましめたお言葉であるが、現代に生きる私のあからさまな姿をぴったり言い当てられた言葉に聞こえた。あなたはいかが。

メダル   2004年9月 
 
 アテネ五輪もいよいよ終盤を迎えている。今回のオリンピックでは、日本選手の活躍にめざましいものがあった。谷亮子の金メダルに始まり、メダルの数もすでに前回のシドニー五輪をはるかに越え、30個を越えた。今までメダルが取れなかった競技種目でも、続々とメダルを獲得している。

 この夏はだいぶ寝不足の顔が目立ったが、華々しい日本選手の活躍に、疲れを感じることも少なかったのではないだろうか。

 こうした活躍の陰には、各選手の努力はもちろんのことだが、スポーツ振興に各スポーツ協会や、それを資金的に支援した企業やマスコミのバックボーンがあったことは事実である。金をかければメダルも夢ではない。

 しかし、夢をめざして活躍しようと努力してきた選手たちの思いとは裏腹に、商品化される選手たちのプレッシャーはいかほどのものだろうか。

 そして、華やかなメダル獲得者の陰で、努力及ばず姿を消した選手たちや、日本の選手とともに競い合った外国選手たちへの賞賛も、マスコミではほとんど取り上げられなかった。そればかりか、ドーピングに対する追及や審判に対する度が過ぎるともいえる抗議の模様があからさまに放送されている。作為的な映像によって、スポーツとはちがったナショナリズムが扇動されることの恐ろしさを感じる。

 勝負は時の運。国家の威信をかけて競技を行い、勝つものと負けるものが出ることはオリンピックのもつ厳しい一面である。しかし、国境を越え、スポーツを通して友情の輪、平和の礎を築くことが、オリンピックの本来の目的ではなかったか。

 メダルの数や勝敗だけが強調されるオリンピックの風潮に、嫌気がさしながらも、しっかり夜更かししてしまう自分。結局は同じ穴のむじななのだろうか。

 なつやすみ    2004年8月
 
 うだるような暑さ。東京は39.5℃を記録した。ハンカチで額から落ちる汗をぬぐいながら駅に向かう。普段とちがうのは、朝の人並みに学生がいないこと。そう、今は夏休み。大きな入道雲に蝉の声。ぎらぎらと朝から照りつける太陽がうらめしいほどまぶしい。少しでも日陰を見つけて歩こうとするが、クーラーの室外機の熱風に押し戻される。

 普段より静かな通勤の道すがら、いつもと違う方向に自転車をこいで走る子どもたちがいる。背中にNのマークのついている、ランドセルのようなカバンを背負い、私立中学の進学を目指す小学生たちだ。

 夏休みといえば、麦わら帽子をかぶってランニングに短パン、手に虫取り網をもって、自転車をこいでクワガタやセミを獲りに行くというのが、少年時代の楽しみだった。海や川で一日の大半を過ごした。始業式には日焼けのあとを競い合った。

 現代の小学生の中には、夏休みの朝から塾の受験勉強に行くことに何の疑問をもたない子どもたちがいる。自分の未来を価値ある人生にするために、今を犠牲にする。二度とない少年時代に思い出をつくれない人生に、どれほどの価値ある未来が保証されているのだろうか。

 子どもは大人にとっても老後の人生の安定を保証する担保になっている。親にとっての最大の投資は子どもの成功である。受験もその一つであるが、最近では勉強だけでなく、バイリンガルやスポーツ、エンターテイメントの世界でも、子どもの才能を開発することに躍起になっている親がいる。

 夏休みという子どものための限られた自由な時間が、子どもの自由を奪う非情な時間になりつつあるのは寂しい。

 流れる汗をぬぐいながら歩くそばを、今日も軽快に走り去る子どもたち。大人も子どももまだまだ暑い夏はつづく。


 ケータイ   2004年7月
 
 「カチカチ カチカチ」右どなりから聞こえてくる音がやけに気になる。しばらくすると、左からも「カチカチ カチカチ」という音が聞こえだした。携帯電話のメールを打つ音である。

 右どなりのOLも左どなりの女子高生も、無言でつり革をつかみながら、きれいにマニキュアをぬった親指で器用にメールをカチカチ打っている。その速さはとうてい私の及ぶところではない。まったくまわりを気にすることもなくケータイの窓を注視して、親指が文章を考えているかのように、電波の先にいるであろう相手とのやり取りに熱中している。

 都会の生活にケータイは欠かせないアイテムになっている。持ち運びに便利な「電話」から「電子メール」に。インターネットによる情報の入手から、ものの売り買いまで。最近はテレビ電話の機能を備えているすぐれものまで登場した。人間が苦労して築いてきた人間関係なるもののコミュニケーションは、ほとんどがこのケータイでできるようになった。

 先日ある聞法会で、お年寄りの方がおもしろいことを言っていた。
「最近は、みんな一生懸命、お位牌をもって熱心なことですね」
と。はじめは何のことやらと思ったが、話を聞けばケータイでメールを打つその姿が、その方にしてみれば、位牌をもったお葬式の姿に見えるそうである。

 思わず吹唾(ふきだす)。何気ない日常生活の中を、私たちの目には見えない声なき愛憎怨妬の言葉が空を飛び交っている。「カチカチ、カチカチ」と無言の儀式が今日も始まる。


通勤電車   2004年6月 
 
通勤ラッシュの電車に乗ると、いろいろな音が聞こえてくる。CDを聞いている人のシャカシャカという音、眠っているおじさんのいびき、高校生たちのうわさ話など。朝の満員電車には、さまざまな人生を背負った人が乗っている。

通勤電車は毎日だいたい同じ時刻の電車、乗る場所も一緒のことが多い。知らないうちにお互いが顔見知りになる。しかし言葉をかわすことはない。

私などはきれいなOLばかりが気になるが、不細工な私の顔を気にしている人もいるのだろうか。毎日会っているのに、通りすがりの人たち。都会の人間は大勢の人に囲まれながらも孤独に生きている。

「袖すりあうも多少の縁」ということわざがあるが、今日はあの人がいないと思うと気になる。せまい車内を探るように見て、となりのドアの前にいる姿を見つけると、なぜだかほっとする。

東京では電車がときどき止まることがある。何かあったのかな。車内が不安と苛立ちに満ちてくる。人身事故とアナウンスの声。また一人逝ったか。厳しい現実に生きる仲間がまた一人都会の片隅から消えていった。シャカシャカという音の中で、やりきれないため息をつく。