多くの日本人が「犯罪が増加している」「凶悪事件が多い」「治安が悪化している」という不安を感じていると思います。
「内閣府が3日に発表した「子どもの防犯に関する特別世論調査」で、周囲の子どもが犯罪に巻き込まれる不安を感じている人が74%に上ることがわかった。子どもが被害者となる事件の頻発を受け、大人の間にも不安が広がっていることが浮き彫りとなった」(読売新聞2006年8月4日)
実際のところどうなのでしょうか。
1,犯罪は増加しているか
まず、犯罪が増えているかどうかということを見てみましょう。
犯罪の認知件数(犯罪の発生を確認した件数)は2000年から激増しています。もっとも、犯罪発生件数が増加したのではなく、警察の対応が変化したのが原因です。2001年の警察庁長官の訓示の中に、
「暴行・傷害等の粗暴犯は、認知、検挙ともに激増しております。国民のこの種事案に対する検挙要望が強くなり、積極的に届出をするようになってきたことが増加の原因として考えられます」
とありますように、1999年の桶川ストーカー殺人事件等への対応として、被害届を原則すべて受理する方向になり、困りごと相談等をすべて取り扱うようになったので、犯罪の認知件数が急増したのであって、犯罪の実数が増えたわけではありません。
少年事件が増えていると言われていることも同様です。
「少年非行が社会問題化し、人々の関心が寄せられ、強い対応が望まれれば、警察の検挙補導活動は活発化する。その結果、非行少年の検挙補導人員は増加することになる」
と浜井浩一は書いています。
実態はどうなのかというと、昭和30年代が主要7罪種(殺人、強盗、強姦、傷害、暴行、脅迫、恐喝)の事件発生率のピーク、その後次第に減少して90年から95年ごろが最低、97年からは微増に転じています。
人口動態統計の「加害に基づく傷害および死亡人員の推移」「年齢別加害に基づく傷害および死亡人員の推移」を見ると、他殺によって死亡する人の数は減少傾向にあります。
また、子どもを狙った犯罪が増え、全国各地で無差別に子どもたちが襲われているかのようなイメージがあります
。
ところが、小学生が殺害される事件(殺人未遂も含む)は、
1976年 1982年 2005年
100人 79人 27人
となっています。5歳未満、5歳以上10歳未満のいずれにおいても、傷害および死亡する子どもの数は減っています。
芹沢一也さんはこう書いています。
「問題とすべきはその内容だ。各種の統計データをつきあわせれば、その大半は家庭内での事件、つまりは家族・近親による虐待関係だと思われる。結論としては、家族・近親以外の他人に命を奪われる小学生の数は、年間ほんの数人にすぎないはずだ。「殺害される子どもたちが急増している」というのはじつのところ、実体のない捏造されたイメージでしかないのだ」(毎日新聞7月)
虐待で殺される子どもは年に50~60人います。交通事故で死ぬ子どもはもっと大勢です。見知らぬ人を警戒することも大切ですが、それよりも子どもが虐待されていないかを気にかけるほうが先決だと思います。
犯罪が増えているかどうか、結論としては、
浜井浩一「客観的統計からは治安悪化はまったく認められない」
河合幹雄「日本において、軽微な犯罪を数えれば、他の諸先進国と比較して、さして犯罪被害が少ないわけではないものの、殺人、強盗はじめ重大な犯罪に限定すれば、極めて犯罪は少ないと結論できる」
ということです。
ところが、犯罪が増えた、治安が悪化していると感じている人は多いように思います。
「2年前と比較して犯罪が増えたと思いますか?」という質問(2006年実施)
とても増えた やや増えた 同じくらい やや減った とても減った
日本全体 49.8% 40.8% 7.8% 1.2% 0.2%
居住地域 3.8% 23.2% 64.2% 5.1% 1.3%
つまり、多くの人が、「自分の周りでは治安はそれほど悪化していないが、日本のどこかでは治安が悪化している」と感じているわけです。治安の実態は悪化していないのに、体感治安が悪化しているということです。
それでは、どうして多くの人が治安が悪化している、犯罪に巻き込まれるのではないかと不安に感じるのでしょうか。
① マスコミ報道の影響
内閣府のアンケートによると、
「不安になる理由(複数回答)は、「テレビや新聞で子供が巻き込まれる事件が取り上げられる」が85・9%と最多で、「地域のつながりが弱い」が33・2%、「子供が習い事で帰宅が遅い」が31・1%で続いた」(読売新聞2006年8月4日)
となっています。
体感治安が悪化している理由として、犯罪報道が90年代に入って増加傾向にあること、しかも「凶悪」というキーワードが付される記事が増加している、「警察だけでは対応できない」といったメッセージを流し続けるなどのマスコミ報道の影響が大きいです。マスコミがいたずらに不安感を煽り立てているわけです。
② 行政の対応
マスコミや政治における治安対策の議論、行政の多くの施策が治安悪化を前提に動いているそうです。そして、マスコミに後押しされて行政が制度変更を行うことで、治安悪化という実態なきイメージが固定化してしまったということがあります。
③ 被害者の発見
犯罪被害者は当事者でありながら忘れられた存在でした。ところが、90年代後半から被害者が声をあげるようになりました。被害者の思いが世論に影響を与え、治安に対する危機意識をよびおこしています。
④ 専門家の意見
地域安全マップ(防犯上の効果があるかどうか実証されていない)の小宮信夫は、
「私たちが抱く不安は、必ずしも犯罪それ自体ではありません。駅の周囲に若い人たちがタムロしている。酔っぱらいが大声で歌いながら道を歩いている。あちこちに落書きがある。ゴミが散らかっている。あちこちの窓ガラスが割れている。空き家が放置されっぱなし。でも、それらを放置しておくと、やがて犯罪に繋がるのです」
と言っています。これは脅しです。
このようにして、私たちは「犯罪は別世界の出来事と思っていたのが、もはや別世界の出来事ではなくなった」と思い込まされ、治安はいいにもかかわらず、体感治安だけが悪化してしまったわけです。
2,厳罰化について
① 重罰化
犯罪増加、治安悪化の不安から、日本は犯罪者に甘い、もっと厳しく罰すべきだという意見が強まっています。
しかしながら、日本ではすでに重罰化の傾向にあります。
「平成6年以降の全事件裁判確定人員の推移。罰金が減少傾向にあるのに対し、懲役、禁錮は増加傾向にある。平成10年以降、無期懲役の増加も目立つ」
「近年、3年を超える刑の言渡しが増加傾向にあるのをはじめとして、裁判所において言い渡される刑期が長期化している」
新受刑者の平均刑期
1994年 1999年 2004年
23・4月 25・6月 29・0月
「無期刑については、仮出獄までの服役期間が長期化する傾向が顕著に認められる。昭和期においては、在所16年以内で仮出獄になるケースが半数を超えていたのに対し、平成11年以降の5年間では、仮出獄を許可された46人中41人が在所20年を超えている」
無期刑は以下の通り
年次 確定人員 無期刑 無期刑仮釈放者
仮釈放人員 平均在所期間
1993 27 17 18年1月
1994 35 19 18年3月
1995 35 16 20年
1996 34 7 20年5月
1997 32 12 21年6月
1998 45 15 20年10月
1999 48 9 21年4月
2000 59 7 21年2月
2001 68 13 22年9月
2002 82 6 23年5月
2003 117 14 23年4月
2004 115 1 平均出ず
2005 134 10 27年2月
2006 3 25年1月
死刑も増えています。
年次 第1審死刑判決人員 死刑確定人員
1993 4 7(2)
1994 8 3(1)
1995 11 3(0)
1996 1 3(0)
1997 3 4(0)
1998 7 7(1)
1999 8 4(0)
2000 14 6(3)
2001 10 5(1)
2002 18 3(1)
2003 13 2(2)
2004 14 14(2)
2005 13 11(4)
2006 11 19(4)
くり返しますが、犯罪が増えているわけではなく、また無期刑や死刑が相当の凶悪な事件が多くなったわけでもありません。犯罪被害者の声やメディアを通した世論が検察官や裁判官にとっても無視できない存在となり、厳罰化への原動力ともなっているのです。
「重罰化を受けて、検察・裁判実務での求刑、量刑の全般的な引き上げが行われ、刑務所の過剰収容がさらに深刻化しつつある」
厳罰化によって刑務所は受刑者で一杯になり、新しく施設を作らなければいけない状況です。しかし、凶悪犯ではなく、精神障害者や知的障害者、高齢者や仕事を失った外国人など、社会的弱者で溢れかえっています。社会から排除された人、福祉行政では救済できない人たちが刑務所に入らざるを得ないというのが現状なのです。
「アメリカの研究でも福祉予算の比率が相対的に低く、弱者を切り捨てる不寛容な社会(州)ほど、刑務所人口比が高いという研究がある」
「所得格差が少なく、社会保障費の割合が高く、人や社会に信頼感を持っている国ほど、刑務所人口が少ない」
「相互に信頼がない社会ほど、厳罰化を指向し、刑務所を社会的弱者であふれさせるのである」
② 重罰化の問題
では、刑罰を重くすれば犯罪は減るのでしょうか。
2004年に開催されたアメリカ犯罪学会では、
「重罰化には統計的に有意な犯罪抑止効果はなく、刑罰の確実性についても抑止効果は期待できないという結果が報告されていた」
そうです。浜井浩一さんは、
「厳罰化に犯罪抑止効果のないことは、最先端の犯罪学では常識になりつつある。
厳罰化によって職や家族を失い、ホームレスや犯罪者になる危険性のほうがずっと大きいのである。社会にとって、かえってリスクが高まる結果となるのだ」
と言っています。
厳罰化は犯罪の抑止にはならないし、刑務所の新設が余儀なくなっているわけですから、税金の無駄遣いになってしまいます。
「この治安悪化神話が事実なき「神話」であるにもかかわらず、さまざまな行政の施策に取り込まれ、人々の自由を制限し、コストを増大させる根拠となっていることだ」
そして、そこには国民の税金が大量に投入されることになる」
06年度予算、子どもの安全に関する各省庁分の事業のみが大幅増となっています。文部科学省26億円、警察庁4億7000万円、法務省3億5000万円など。
あるいは、学校に警備会社から警備員が配置され、塾や習い事の行き帰りの送迎ビジネス、GPS付き携帯電話など、安全ビジネスに文房具会社、情報システム会社、ランドセル販売会社が参入しているなど、実態なき犯罪不安に駆り立てることによって、セキュリティ産業が栄えることになっています。
厳罰化するよりも、犯罪者をいかに社会復帰させるかを考えていくほうが根本的な問題だと思います。
3,犯罪不安社会
犯罪不安社会は決して住みよい社会ではありません。芹沢一也さんはこう言っています。
「日本のどこかで子どもが殺されるような事件が発生すると、メディアの報道を介してそれが住民たちにさらなる不安を呼び起こす。その不安がセキュリティのさらなる強化を求め、コミュニティの再生を合言葉に住民たちを防犯活動へと駆り立てる。だが、そのような活動は安全や安心をもたらすものではまったくなく、逆に不審者への脅威に敏感になることでかえって不安を高めてしまう。そして、つねに燻り続けているこの不安の火種が、さらなる凶悪事件とともに燃え上がるのだ。
こうして社会は不安と治安の終わりなきスパイラルに巻き込まれる」
以前は、幼女連続殺人事件や酒鬼薔薇事件といった話題になる犯罪が起こると、批評家、学者などなど多くの人が、犯人の生い立ちや社会背景、動機などをもとに教育論、家族論、社会論を盛んに論じていました。
ところが1998年に起きた、中学生が注意した女性教師をナイフで刺殺した事件あたりから変わってきます。普通の子でもキレたら何をするかわからないというように、加害者は理解不能な不気味な存在となったのです。社会は犯罪者を理解しようとしなくなったわけです。
凶悪な殺人事件は単に不気味なだけであり、犯罪者は理解不能(「理解できない」というよりも「理解すべきでない」という感じか)な恐怖の対象となりました。メディアの中で怪物化していったのです。そうして社会は犯罪者を憎悪するようになり、厳罰を望むようになりました。
厳罰化を求める声がどうして高まっているのかについて、芹沢一也さんの説明にはなるほどと思わされます。
たとえば宅間守です。
「かつてであれば、その不幸な家庭環境は数奇な生涯と併せて、悲惨な境遇を過ごさねばならなかった宅間への、社会的な同情や共感を掻き立てたかもしれない。だが、メディアは「怪物」「悪魔」として激しく非難、宅間守を「人格障害」として切り捨てた」
「社会から排除すべき異常者」となった犯罪者はただ抹殺されるだけです。これは宅間守といった殺人犯だけのことではありません。不審者とされる人も同じ扱いを受けて排除されます。
芹沢一也さんはこのように論じます。
「感情移入する対象が加害者から被害者に移り」、「犯罪者が社会の危険な敵となった時」、「身の回りで犯罪は多発してはいないのに、住民たちは「自分もいつ、こうした被害者になるかもしれない」という不安を抱き始めた」。
住民たちが防犯活動に立ち上がりましたが、現実に生み出されているのは地域の連帯ではなく、「子どもに声をかけたら不審者扱いされるという「相互不信社会」なのだ」
では、不審者とは誰のことなのでしょうか。不審者とは自分たちとは違う異質な人、たとえば失業者やホームレス、障害者、自閉症、外国人など社会的弱者、少数者が不審者です。
「子どもの安全をスローガンにして相互不信社会が生まれつつあり、それが社会的な弱者を不審者として排除することにつながる」
「医者から「自閉傾向がある」と診断された川崎市の男性Bさん(28)の家族は悩んでいる。
Bさんは子どもが好きで、道で見かけるとほほえんで見つめる。にこにこしながら独り言を言ったり、ぴょんぴょんはねたりすることもある。(略)
昨年12月の夜、近所の住人という男性4人が訪ねてきた。「見つめられた子どもたちが怖がっている。何とかできないか」」(「朝日新聞」2006年1月25日)
Bさんは長年、通っていた水泳教室を辞めさせられた。近所で不審者騒ぎが頻発し、「みんなが怖がっている。辞めてほしい」と告げられたからだ。
自分たちの生活を脅かす怖れがあるものは排除しようという気持ちは、在日や被差別部落、あるいはハンセン病といった差別問題ともつながってきます。特効薬ができてハンセン病が治る病気になっても、依然として患者を差別して隔離する政策を続けました。そして我々もハンセン病患者が差別されたままであることに関心をもたず、そのままの状態に放っていました。
こうした排除の感情は犯罪者に対するものと同じだと思います。
治安悪化に対する不安は迷信と似ているように思います。迷信とは自分が作り上げた思いにおびえているだけのことです。もともと実態がないのにおびえているわけですから、何かすればするほどかえって不安は増します。
同じように、犯罪の増加という実態はないのに、治安悪化におびえ、犯罪に巻き込まれるのを怖れているわけですから、どのような防犯活動をしようとも、厳罰化が進もうとも、これで充分だということはありませんし、安心することはないでしょう。
犯罪をなくすことは不可能です。あらゆる犯罪者(予備軍も含めて)を刑務所に閉じこめ、片っ端から死刑にしようとも、必ず犯罪は発生します。自分や家族が被害を受けるかもしれませんし、加害者になる可能性だってあります。
「不安と治安の終わりなきスパイラル」からいかにしたら脱することができるのか、その道をCAP(子どもへの暴力防止プログラム)が示しているように思います。市場恵子さんのお話によると、CAPは1978年にアメリカで作られたプログラムです。
オハイオ州で、小学二年生の女の子が登校中にレイプされた事件がありました。地域はパニックに陥り、人々がとった態度は「子どもを守る」ということでした。親は四六時中、子どもに付き添い、地域の人たちは監視を強化するようになりました。
ところが、監視と保護を強めすぎると、子どもは無力化されてしまうのです。つまり、子どもはおびえて自信を失い、子どもはおとなに守られる弱い存在だと思い込み、自分で何ができるか考えられなくなる。そういう状況では不安感が高まるから、子どもたちの中には夜驚症・夜尿・チック・保健室へ行く子が増えるなどいろんな問題が生じました。
小学校の先生が「このままではいけない。何とかしなければ」と考え、子どもに「セルフ・ディフェンス・トレーニング(護身術)」を教えることを思いつかれたのがCAPの始まりです。
浜井浩一さんは
「犯罪は正しく恐れ、その上で、効果的で副作用の少ない、人々の生活に優しい犯罪対策を考えるべきであろう」
と書いています。不安を抱えてヒステリックになることは、かえってマイナスになります。犯罪は正しく恐れながらも、社会の中でどう生きていくかを学んでいかなければいけないと思います。
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