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  原 純子さん 「視覚障害と夫の死」
                          
 2004年1月31日

 初めまして。原純子と申します。年齢は57歳です。こういう会がありますということをお聞きして、何が何かわからずに皆様のお話を聞かしてもらおうと思って来さしていただきました。

 私も昨年の10月に主人を亡くしまして、まだ日も浅いもんですから、主人のことはお話しできるような状態じゃないんです。

 実は私は、はた目にはちょっとわからないと思いますけど、視覚障害者です。網膜色素変性症という、現代医学では治療法がまだ見つかっていないという珍しい、といっても全国には約2万人いると言われている病気なんです。
 30代の半ばにそういう病気だということが偶然にわかって、その時に将来失明するかもしれないとは言われなかったですけど、今の医学では治療のしようがない病気で、だんだんと視野が狭くなってくるとは言われました。

 もともと楽観的な、いい加減な人間ですから、自分じゃ何とかなるんじゃないかと、そのことはなんとか受け止めていたし、50歳すぎぐらいまではまあまあなんとか子育てもでき、3年前に主人が定年退職で会社を辞めるごろまでは、曲がりなりにも日常生活がおくってこれてたんです。

 ところが、そのころから急速に悪くなりまして、現在は2級の障害です。視野は普通は180度ありますけど、5度しかないんです。竹筒でものを見ているような状況で、自分の目の大きさしか視野がなくて、まわりは真っ暗です。見えるところもわずかの視力ですけど、あるポイントを絞って、自分が見ようと思ったら見えるという感じなもんで、説明のしようがないんです。

 家族でもなかなか状況を理解してもらえなくって、「なんでそれが見えるのに、これができんのや」と、よく主人にも言われて、「わからんものはわからんのよ」と言ったりしてました。

 今は一人で外へ出ることができませんけども、家の中のことは、長年してきた主婦業ですので、なんとか失敗しながらもやっております。


 これからは主人と一緒に余裕を持って生活してと思っておりましたら、今まで一度も病気をしたことのなかった主人が去年の2月に突然、これがまたあまりない膠原病に類する病気という宣告を受けまして、入院治療が始まったんです。

 主人はいつも私のことを気にかけてくれていたんですけど、私は目が悪いもんですから、病院にもあまり見舞いに行けない状態でした。

 合併症として出やすいということだったんですが、その二ヵ月後に肺の悪性腫瘍が見つかりまして、9月に入ってからは週単位で悪くなり、あっという間に亡くなってしまいました。

 今までが元気でしたし、精神的に強い人でしたから、主人は自分が死ぬんだということを亡くなる前の日あたりに自覚したと思います。私のことを心配しながら逝ったんじゃないかなと思います。

 主人はもともとほんとに元気な人だったもんですから、病気のことを皆さんにはできるだけ言わないようにしていましたので、亡くなった時には皆さん非常にびっくりされ、また知らなかったと言っては多くの方が来てくださったり、遠くの方からはお手紙やらをいただいて、そういうことで年末のぎりぎりまで大変でした。

 亡くなってから、多くの方の話を聞いたり、お通夜からお葬式という一連を通して、主人について知らないところがこれだけたくさんあったのかと驚きました。家庭の中で悪い部分を出す主人を見てはいろいろ不足を言ったり、我の張り合いでよく言い合いもしてましたけど、立派な人だったんだなとすごく誇りに思いました。そして、なんと一部分しか見ていなかったなと思って、すごく残念な気にもなりました。恵まれた幸せな結婚生活だったなとありがたく思ってます。

 そんなこんなで、自分のことで精一杯。やっと障害を受け入れられてきて、なんとか明るく生活できるようになった矢先、主人のことが去年一年ありましたので、今の気持ちがなかなか言い表しようがない、そういう現在の心境です。


 病気のことを知ったのは早かったんですけど、自覚症状が出て、「これはおかしいな」と思ってからだったら、50歳前ぐらいまではわからなかったかもしれないですね。もともと視野が狭かったのかもわからないんですけど、自分はこんなもんだと思っていたから、全然。徐々にでしたからね、その当時は。

 50歳になる前ぐらいからの十年あまり、主人の単身赴任や、子供が大学で出たりとかあって、一番ひどい時には四重生活しました。家庭の中でも経済的なこととか私の親の介護のことやらの心配事もありました。それと年をとっていくといったことなんかがあって、あのあたりから病状が急速に加速したんじゃないかなという気持ちもあります。

 けど、その時は無我夢中で、ほんとに頑張ったんですよ。四重生活の時でも一日でもご飯を食べなかった時はなかったし、病気もしなかったし、何とかなりましたけど、いろんな無理をしたことが、あとでホッとした時に出てきたような気がしますけど、これも仕方のないことです。

 突然視覚障害という状況になり、即生活に困るようなことではあり、極端に不自由になりましたけど、いろんな方との出会いがありまして、多くの人に助けていただきましたし、今もいろんな人に支えてもらっています。またここ最近は、自分と境遇が同じ視覚障害者の人との大きな輪が少しずつできつつあります。

 目がどんどん悪くなったころは、とことん落ち込むところまで落ち込んで、外に出られない時もありました。どん底の時は一日不安な気持ちでいるのはよくないと思っても考えてしまうし、生きとっても仕方がないという思いがすごくありましたし、この先みんなに迷惑かけて生きていかなきゃいけない思うのが、すごくつらいなあと思いました。
 けど、どん底まで落ちて、それを通り越して、やっぱり同じ生きているんだったらこれじゃいけないという思いが出てきたということ、それから家族から怒られたり、慰められたり、あるいはいろんな人との関わりの中で癒されてきたような気がします。

 視覚障害者の集まりで自分よりもっと状態が悪い方を見て、将来はああいうふうになるんだなというのが、今は勇気をもって受け止められますけど、最初は自分もこうなるのかと思うとものすごくショックでした。

 今は視覚障害者の会へどんどん出ていくんです。皆さん段階があって、家に閉じこもりきりで、今日初めて出てきましたという人だと、涙ぼろぼろでお話しされることがよくありまして、みんな同じ段階を経ていくんだなあと聞かしてもらっています。どん底の時にいくら声をかけてあげても届かないことが、自分の体験でよくわかってますから、ただ聞いていくしかないですよね。

 私は最初は近所の方やお友達にも自分の病気はこういうふうなんだということを、なかなか自分からは素直に言うこともできませんでした。ここ何年か前から「こういう状態なんで助けてくださいね。顔が合っても知らん顔していると思うんで、外で見かけたら逆に声をかけてくださいね」と、やっと言えるようになれました。

 人前で「こうなんです」と言えるまではもがき苦しみして、それを自分が外に向けて出せるようになったころから、自分の心がだんだん開いていったような気がします、今思えばね。ですから、自分一人で心の中にためていてはいけないなということを思います。

 そうして少しずつ心を開いて、皆さんにお願いできるようになったら、いろんな人との出会いもあります。外に出る時にはガイドヘルパーさんと言って、外出を助けていただく方がありますけども、私の場合は三人も四人もいて、そういう方と一緒に旅行ができるまでになっております。
 そういったことから、救われるということは人との関わりの中で救われていくんで、自分一人だけで救われるということはないんだなということを教えられたように感じます。


 そうした人とのふれ合いのほかに、生活もせっぱ詰まったというか、いろんな不自由な面が出てきましたから、これじゃいけないという思いもありました。家族は困りますよね。まだなんとか家事ができるんで。

 悪い状態の時は「できなくなった、できなくなった」の連続で、できてた自分ばっかりを考えてしまうんです。もうそこには帰れないんですけども、それしか頭になかった時がつらかったですね。

 でも、これからも生きていかんといけないし、できるだけ家族に負担や心配をかけたくないし、ということで、できてたことが半分になっても、まだ半分できると思えるようになってきたんです。

 全くどうしようもなくできなくなったこともあります。でも、ちょっと工夫すればできるようになるものもあるし、いろいろな便利なものも出てます。同じ障害を持っとられる人の集まりに出ると、情報をいろいろもらうんで、それを自分で工夫したりしてできるだけやろうとしています。できないからとあせったらいけませんよね。

 家の中でもつまずいたり、ドアが開いているのに気づかなくてぶつかったり、ほんとにもうちょっとした段差で転んだりしますからね。「とにかく気をつけて転ばないように」と自分に言い聞かせているんですけど、ある瞬間、パッと忘れてから、今までの調子でやったりして、あっと思ったら失敗してて、何が起こったか、一瞬わからんで、痛みだけが残って、状況が把握できないことが時たまあります。

 そんな失敗しては怒られていたんですけど、失敗することによって、どうしようかという工夫が出てきますからね。そのへんがいろいろ葛藤があります。今ほんとに動き出したとこみたいな感じで、いろいろ失敗の連続です。これからもっともっとこういう失敗が多くなると思うんで、怪我のないようにしなければいけないと自分に言い聞かせて、心して生活しています。


 お友達が「どうしよる」と声をかけてくださるんで、「ちょっとこういう用事があるから、一週間のうちのいつでもいいからちょっと時間を作ってもらえる?」と頼んだら、「いいよ」と助けてくださるんです。
 そういうふうに、こういう用事をしてもらいたいと具体的に頼むと、向こうも助かると言ってくださるんです。漠然と何かしてあげたいけど、どうしたらいいかわからんということらしいので、声をかけてくださったら、すぐ甘えてお願いするようにしてます。

 面倒を見てもらうということは相手に負担をかけることだからと、最初はあまり甘えすぎてもいけないかなと思って、謙遜のつもりで断ったりもしてたんです。けども、言った側は何かお手伝いをしたあげたいという思いがあるのに、断られたらもう何も言えなくなるらしいですね。

 それと、誘ってくださるのに出ていかないと、そのうち声をかけてくれなくなるんじゃないかなと、私のほうも考えてしまうんですね。だから、声をかけてもらえるうちが華だと思って、せっかく声をかけていただいた時は甘えて、今日でなくてもいいんだけど、いついつごろまでにこういう用事があるんで、お願いできるかねと言えば、向こうで時間を作ってくださるんです。
 
「そんなに「すまんね、すまんね」言わんでもえんよ。ちゃんとあなたから得るものはある」とか、「そんなに自分を引け目に思わんでも、一緒に行動することであなたから教えてもらうこともあるし」とかおっしゃってくださることがあるんです。

 近所の方、お友達、それから身内の者、ほんとに心から心配し、いつもみんなに念じられているなと私は思います。主人もなんとか私を助けてやろうと思って、いつもまわりにも言っておりました。主人は入院している時も、私のまわりにはいい人がおってくださるんで安心はしてると言っておりましたが、そうやっていい人に恵まれるということが、また当たり前じゃないんだなと思うんです。

 今はあまり困ったことはないようになりました。できるだけそうやっていろんなところへ出て、それは全部人の手を借りないと出られませんけども、できるだけ声をかけてもらったら、外へ出て行くようにして、自分の気持ちを転換するようにしながらやっているようなことです。

 どこでも誘われたら行こうと思ってまして、今年になって友達と「ラスト・サムライ」という映画を見に行ったんです。半分以上は見えなかったですね。大体が暗いし、わからなかったですけど、でも見に行こうという気持ちが大事じゃないかなと思ってます。この間は比治山へ歩いていこうというので行きました。
 山に登る会もあって、もう2年ぐらい前から入っているんです。ガイドさんがついていてくださって、晴眼者の方でボランティアしたいという方とで百名ぐらいの会なんです。今年はああいう空気が違うところへ行ってみたりとかしてみたいと思っています。


 私も少しでも皆さんに感謝する気持ちを忘れないようにして、素直な気持ちで助けていただきながら、あまり頑張らずに、そうかといってあまり甘えすぎてもいけず、そこが非常に難しいところなんですけど、そういう気持ちをありがたく感謝しながら、今の調子でなんとか明るく生きていきたいと思います。私が明るく過ごすことが主人も喜ぶのではないかと思っています。

 主人のことはまた新たな大きい試練なんですけども、これからはいろいろ努力して身につけていかなきゃいけないことが山ほどありますし、こういう私がいることで子供の結婚がうまくいくかしらと、いろいろ悩みはつきません。

 けどまあ、ありのままでいるしか仕方ないなと思って、何もかも受け入れてできるだけ明るく過ごそうと思っておりますが、一人になるとやはり悪いほうに考えがちでいけません。年末はさすがに寂しかったですね。

 こないだ「死亡が確認されましたので」と固定資産税の書類が来まして、ああいう書類を見たら、つくづくと「ああ亡くなったんだな」と思いますね。普段はなんかそれこそどこかに出かけとるんじゃないかと思ったり、病院に行けば会えるんじゃないかと思ったり、なかなか現実味がないというか。

 いろんな日があるんですよ。時々があーっと落ち込んで、涙、涙で過ごす日もあります。ちょっと頭がかすめたら、涙がぶわーっと出てくるんですよね。けど、わりとけろっとしている時もあるし。悲しい時には泣く。それを「これじゃいけない」とか思わないようにして、ありのままでいたいと思います。


 とりとめもない話ですみません。皆さんのお顔もぼおっとしか見えていないようなことなんですけども、今日は皆さんの体験や家庭のことをありのままに話されている姿に感銘を受けました。これからもよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

(2004年1月31日にひろの会でのお話をまとめたものです)