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  葉沢 業久さん 「生きる目標の大切さ」
                            
 2006年9月30日

  一、カンボジア

 葉沢業久と申します。生まれはカンボジアですけど、現在は日本に帰化して日本人になりました。ぼくの体験談、戦争の体験と、日本に来てからのことをお話しいたします。

 ぼくは1969年カンボジアのプノンペンに生まれました。華僑といって、中国系カンボジア人で、カンボジアに住み着いてぼくで七代目です。中国の潮州には本家があって、家系図が残っているそうです。

 ぼくのもともとの名前は葉業○(金が三つの字)、イエップ・ニエップ・ヒムと言います。華僑は風水を信じていますから、占いの先生を呼んで、生まれた日時などから名前をつけるんです。一白金星とかあるじゃないですか。ぼくは金属が足りないというので、おじいちゃんが名前に金が三つある字をつけたわけです。
日本に帰化する時、風水によると葉っぱは水があるとより茂る、繁栄するようにという意味合いで葉沢という姓にしました。そして、名前は○という字は使えないので業久にしました。ぼくの先生が、業に久を加えたら昔の侍みたいな名前になっていいじゃないかと、つけていただいたんです。

 華僑には輩属というのがあります。一族の男は各代ごとに同じ字をつけ、どの字を使うかずっと先まで決まっています。子供にはその決まっている字を名づけるわけです。たとえば男の子が五人生まれたとします。五人とも名前の最初の字は同じ字をつけます。そして、その兄弟の息子たちには別の同じ字を使う。ぼくの場合だったら、業が名前の最初の字ですね。おじいちゃんの代だと仁、父は徳、ぼくの息子は長。孫はまだいませんが、どういう字をつけるかはもう決まっています。だから、一族が世界中に散らばっていても、名字と名前の最初の字を見れば、おのずと家系がわかってきます。

 ぼくの家は二十六人が一緒に住む大家族でした。住み込みのお手伝いさんも三人いました。家は三階建ての建物で、宮殿から百メートルぐらい離れたところにあり、シアヌーク殿下のおじいさんがぼくの曾祖父ちゃんと仲良くて、自転車で遊びに来ていたこともあったそうです。おじいちゃんは三菱の電気器具などを輸入し、カンボジアの大豆類などを日本に輸出する貿易の仕事をしておりました。父は映画の配給、たとえば香港映画の版権を買って、カンボジアで上映する、そういう仕事でした。伯父の一人はフランスの会社で経理をしており、父の妹の夫は伊藤忠商事で働いていました。

 ポル・ポト政権のことをご存じですか。1975年から三年八ヵ月の間に、150万から200万もの人が虐殺され、飢えや病気で死んだと言われています。そのころカンボジアの人口は約800万人でした。

 ポル・ポト軍がプノンペン市内に侵入したのは1975年4月17日、ぼくはまだ6歳でした。その時のことは今でもよく覚えています。二人の叔母さんと家の中でかくれんぼをしていた時のことです。家はメコン川沿いだから、メコン川がよく見えるんです。三階の小窓から外をのぞいていたら、首に赤い頭巾を巻いて黒い服を着たものすごい数のクメール・ルージュが、メコン川の対岸からカヌーのようなもので勢いよくこちらに向けて漕いでくるんですね。クメールはカンボジア、ルージュは赤で、クメール・ルージュとはカンボジア共産党のことです。
 ぼくはまだ小さかったからよくわらなくて、なんか面白いことが起きていると思ったんですよ。「すごいよ、見て見て」と叔母さんたちに言ったら、これはただならないことが起きていると。ちょうどポル・ポト軍がプノンペン市内に侵入するさなかだったわけです。

 ポル・ポト軍はあっという間に上陸して、市内を制圧しました。それまで内戦が続いていたし、ロン・ノル政権は腐敗していましたから、ポル・ポト軍を歓迎する人もいたんですね。しかし、それは間違いでした。「アメリカ軍が空襲してくるから逃げろ」などと嘘をついて、家から出るよう命令しました。外に出なかったら、手榴弾を家に投げ込んで爆破する。身分証明証を出せと言って、ポケットに手を入れたら撃ち殺す。ぼくの家族も恐くて、言われるままに着の身着のままで家から出ました。
 そうやって無理矢理すべての住民を農村やジャングルに連行したんです。プノンペン市内には二百数十万の人が住んでいたと言われるんですが、あっという間に無人の町になってしまいました。プノンペン以外の都市でも同じことが行われています。それが大移動といわれる強制連行です。それからぼくの悲惨な体験が始まったわけです。

 ポル・ポト政権は原始共産主義社会を作ろうとして、私有財産を認めませんでした。通貨を廃止し、すべての市場もなくして経済機能を完全に停止させたため、ものが不足して、日用品すら手に入りません。外国からの人道援助を断り、逆に食糧を輸出して軍事費にまわしたんです。それで食べ物がなくなり、多くの人が飢えに苦しむことになりました。

 そうして、大量虐殺を行っています。間違った自由思想に汚染されている者は根絶するという独自の政治理論によって、そんな無茶苦茶なことをしたんです。ロン・ノル政権時代の兵士はほとんど処刑しましたし、知識人や文化人、教師、留学生、お医者さん、技術者、金持ちといった人たちを虐殺しました。メガネをかけているだけでインテリと見なし、無差別に殺したんです。だから、ぼくのおじいちゃんは四年間、我慢してずっと口がきけないふりをしていたそうです。
 新たな開拓をするために移動すると嘘をついてトラックに乗せ、蚊に刺されるからその予防だと言って大量の睡眠薬をまいて眠らせ、前もって掘ってある大きな穴に放り込んで生き埋めにする。大勢を並ばせて、一人ずつ鈍器で頭や首のつけ根を殴って殺し、穴に掘り込む。子供の足を持って木にたたきつけて殺す。そういうことが日常的に行われるようになったんです。

 また、家族をばらばらにして、農村やジャングル、荒れ地で強制的に重労働をさせました。主に開拓や耕作、それからダムや堤防の建設などです。ろくな道具もなく、トラクターといった機械はありません。すべて人力です。ダムや堤防を作るのも、竹で編んだカゴに土をつめて、それをかついでいくわけです。もっとも、専門家が設計して作るわけではないので、せっかく作ったダムや堤防が崩れることがよく起こったそうです。

 まともな食事を与えられずに重労働をさせられるんだから、精神的におかしくなる人や、病気や栄養失調になって死ぬ人もたくさん出ました。田んぼといっても沼地ですから、泥の中に腰や胸までつかるんですよ。農業の経験がない人が一日中水の中につかって作業していますと、病気になりますよね。マラリアや赤痢になる。ところが病院は閉鎖されていますし、ほとんどの医者は殺され、薬もありませんから、病気になったら自然に治るか死ぬのを待つだけです。伝染病にかかって死ぬ人がいれば、狼、毒蛇、サソリ、ムカデなどで命を落とす人もいました。

 学校は閉鎖され、子供たちに読み書きを教えることすらしませんでした。どうしてかというと、国民を教育させずに無知のままにしたら、コントロールしやすいでしょ。頭がよくなったら、自分らの言うことを聞かなくなりますからね。

 ぼくの家族も大勢死んでいます。当時大学生だった父の妹二人、ぼくとかくれんぼうをしていた叔母さんです。母方は16人も死にました。母方の祖父母、母の弟一家、母の兄と娘、そして母の姉の夫と娘2人がなくなっています。11歳だった従姉はお腹がすいたので、食堂にあったサツマイモを盗んで食べたのが見つかり、米を入れる麻袋を頭からかぶせられ、蹴ったり棒で殴ったりの袋だたきにされて殺されました。もう一人の従姉は栄養失調で亡くなっています。ぼくも栄養失調で肌が黄ばみ、お腹がパンパンはれていたんですよ。

 ぼくの家族もプノンペンを出てからばらばらにされました。ぼくはおばあちゃん子だったので、おばあちゃんと引き離された時には、ものすごく泣いたことを覚えています。青年部隊に入隊させられた四歳上の姉とは、ポル・ポト派が政権を持っていた間に一緒にいた記憶はほとんどありません。
 ジャグルを開拓させて、ある程度したら違うところに移動させるわけです。ぼくも何ヵ所かを転々としました。最初一年間は両親と一緒にいたんですけど、両親が遠いところに連れて行かれて、週に一回、あるいは数ヵ月に一回戻って来ようになると、ぼくは6歳で、弟は3歳、妹は4歳でしたけれど、両親がいない間は誰も面倒を見てくれる人がいません。

 家は屋根がヤシの葉っぱで、壁は粘土を固めて作ってある粗末な小屋です。服は年がら年中短パン一丁、着替えはなどありません。暑くなったら湖に飛び込んで、上がったらそのまま。ずっと着っぱなしでした。
 食事はない時もあるし、あっても昼食だけです。広場には壊れたフライパンや鍋をいつもつるしていて、12時になったらゴーンと鳴らすんです。そうしたら、遠くで労働している人々が食堂に集まってくるわけです。円卓に大きな皿が置いてあるんですね。ご飯といっても、お米の粒がほとんど入っていないお粥です。村によっては毎日トウモロコシだけとか、カボチャの産地だったらカボチャだけ。それとかバナナご飯。スープといっても、大トカゲのスープなんですね。早い者勝ちだから、遅れた人には食べる物がありません。

 ぼくも7歳ぐらいから労働させられました。牛糞を集めたり、稲狩りや田植え、そして牛飼いなどです。牛でもボスがいるんですね。朝になったら、そのボス牛の背中に乗って牛を十数頭連れ出し、草原へ連れて行くわけです。時々虎が現れることがあって、牛が襲われた時にはマンゴーの木によじ登って逃げたりしたこともあったんですよ。
 遠く離れたところで作業をさせられた時には、ぼくの食べ物は何もないですから、野生のくだものを採ったり、カニを捕まえたり、コオロギとかバッタとかトカゲとかを捕って、火をおこして焼いて食べてました。カエルは何千匹も食べましたね。蒸して丸ごと食べるんです。蛇は天日干しにして、焼いて食べると香ばしい。さつま芋やタロイモの皮などが食堂で捨ててあると、拾って食べることもしてました。

 不衛生な環境なので、病気になりますよね。赤痢にかかると下痢をして、体内から出すものがなくなると血しか出なくなります。それが赤痢という名前の由来なんですよ。
 ぼくが8歳の時に赤痢になったんです。その時、両親は別の村に行っていませんでした。ぼくは竹で作ってあるベッドに寝ころがって、ベッドのすきまから下痢を垂れ流し、脱水症状で瀕死状態になったんです。薬もないし、面倒を見てくれる人もいない。すごい高熱を出して、お昼の時間になっても食堂に行けません。食堂に優しいおばちゃんがいて「どうもヒム君、この二、三日見ないな」と気にかけてくださって、小屋をのぞいたんですね。そうしたら、ぼくが死にそうな状態なので、幹部の人に「食事をやらないといけない」と頼んでくださったんですけど、幹部は「食事に来なかったんだから食べ物はなしだ」と言うわけです。
 そんな状況の中でも、人の愛情をものすごく感じることがあったんです。同じくらいの年の子供がね、奪い合って手に入れたトカゲの肉をしゃぶりにしゃぶって、だけども自分では食べずにぼくのところに持ってきて、「食べなさい」と竹のベッドの隙間から差し出してくれたんですよ。
 幸いにも赤痢が治ったのは、村人の知恵なのでしょうか、グァバの木の皮を煎じて、それを煮つめたものを飲ませてくれたんです。ものすごく渋くてにがい。それを飲んでかろうじて助かりました。蛇にかまれて死にかけたり、川で溺れかけたりしたこともあります。

 皮膚病がはやったこともあったんですよ。牛の背中に一日中座るでしょう。太ももとかおしりが牛の背中でこすれ、牛からうつった伝染病でニキビみたいなおできができるんです。ゴルフボールぐらいの大きさで、それが膿んでうつるんですよ。頭から首の後ろ、背中、おしり、あちこちにできて、それが夜になったらものすごく痛むんです。一時期すごくはやってですね、それで命を落とした子供が結構いました。
 できものが痛くて、ぼくと妹弟はお腹がすいているし痛いしで、夜になったら泣くわけですよ。両親は一日中、強制労働で疲れて果てて早く寝たいじゃないですか。だけど、ぼくたち小さいからわからないでしょ。ぼくたちが泣くと、寝むれないので父が八つ当たりしますよね。そんな時、母がぼくたちをかばってくれ、食べずに残して乾燥させたご飯をおかゆに戻して、ぼくたちに食べさせてくれたこともあったんです。
 そのできものはニキビの角栓のようなのが真ん中に生えているんですよ。父は少し医療ができましたから、カッターナイフをお湯で消毒して、村の子供たちのおできを切って太いローソクの芯みたいな角栓を出してあげました。ぼくが水疱瘡になった時にも、父がココナツの中にある水にミミズをつけておいて、その水を飲ませてくれたら治ったんですよ。

 ポル・ポト政権は子供を洗脳教育し、親を密告させることも強いていたんです。政治の不満を口にしただけで、一緒にいた人がある日突然いなくなったりすることもありました。その影響で、「今でも人を信じ切れない」と言う人がいるくらいです。父も密告されてブラックリストに載せられたそうです。そうなると間違いなく近い内に殺されるんですけど、ベトナム軍が侵攻してきたので助かりました。

 1978年12月25日にベトナム軍がカンボジアに侵攻しました。そして翌年の1月7日、ポル・ポト軍はプノンペンから脱出し、親ベトナムのヘン・サムリン政権が誕生したのです。そこで、ぼくの父がリーダーになって村から逃げようと、牛車を何台か集め、食べるものをつめて、他の家族と一緒にプノンペンに向かい、昼夜を問わず国道沿いに逃げました。途中でポル・ポト軍の兵士に出くわして殺された人もいれば、虎やムカデ、サソリ、毒グモ等で命を落とした人もいます。ベトナム軍の空襲にも遭いました。
 親からはぐれたショックで頭がおかしくなってしまった子供やおねえさんがいて、大きい声で叫んだりするんですよ。みんなで一緒に逃げているわけですから、そんな大声を出されてポル・ポト軍の残兵に気づかれたら、みんな殺されちゃうからね、仕方なく牛車に縛りつけて、口にものを詰めて静かにさせたということもありました。

 国境を越えてタイに逃げた人も大勢います。その途中、地雷を踏んで命をなくした人がいっぱいいたんです。ぼくの伯父さんの一人はタイの国境を越えた時に地雷を踏んで、足をぶっ飛ばされたけれども生き残りました。地雷を踏んだとわかって、身を伏せて片足を犠牲にして助かったんです。

 山を越え、川を越え、牛車が道路の轍にはまり動けなくるなど、本当にいろんなことがあったんです。ぼくたちは二ヵ月ぐらいかかってやっとの思いでプノンペンにたどり着くことができました。そうして、もともと住んでいた家を父が見に行ったんですよ。そしたら三階建ての建物は跡形もなく、バナナやサツマイモの畑になっていたんですね。仕方なく空き家を探してとりあえず住んだり、ある時は竹や葉っぱで屋根を作って住んだりもしました。
 伯父たちももとの家があったところに集まり、生き残った一家がそろったわけです。ぼくの姉は栄養失調で歩けなくなっていたところを、たまたま叔父さんに出くわしたそうで、叔父さんに背負ってもらって無事に家族と一緒になることができました。

 ぼくたちは牛を十頭ほど連れだして村を出たんです。ところが、ある朝、起きてみると牛を盗まれて、足の悪い牛だけが残っていました。その牛を草原に連れ出した時、牛が地雷を踏んで吹っ飛んで死に、ぼくはかろうじて助かったということがありました。市内にはポル・ポト軍の残兵が略奪をしたり、手投げ弾を投げ込んで人を殺したりしてましたし、せっかく苦労して四年間を生き延びたのに、今になって死んでしまったらたまってものではない、海外へ脱出しよう、と大人たちが相談し、それならベトナムに逃げようという話になったわけです。

 けれども、メコン川を渡るのに船主に代金を払わないと渡れませんからね、牛車や牛を売り、母が隠し持っていた貴金属を売って代金にしました。母は戦前に持っていた金の装飾品、指輪やイヤリングを布で縫った細長い袋につめ、腰に巻きつけてずっと隠していたんです。
 一度に全員がベトナムに向かうのは無理なので、三組に分かれて、まずおじいちゃん、おばあちゃんとぼく、そして叔父さんの家族がベトナムに逃げました。両親と兄弟たちはあとから出発しました。プノンペンには半年ぐらいいたでしょうか。

  二、ベトナム

 ベトナムに着いてから三ヵ月か四ヵ月たったころ、ホーチミン市にある日本軍が作った団地を借りて住んでいたんですよ。家族のみんながそろってから、その団地を買うことにしたんですね。ところが家主が悪くて、お金を渡しても権利証をくれない。あれこれしている間に、ベトナム政府がカンボジアからの不法入国者を国連の難民キャンプへ収容することにしました。

 夜中にノックがあったのでドアを開けたら、兵隊が拳銃を持って入ってきて、「荷物をまとめろ」と。トラックに積み込まれて、そのまま国連の難民キャンプに強制的に収容されたんです。
 その時、おじいちゃんは白内障で手術をしないと失明すると言われていたんですね。団地の階段をおりていく時、父がね、「おじいちゃんを連れて逃げなさい」と言うので、ぼくはおじいちゃんを連れて逃げたんですよ。ホーチミン市内に住んでいた父の弟のところに行き、おじいちゃんはそこで手術しました。ぼくは両親や兄弟が入れられているキャンプにあとから入ったわけです。

 難民キャンプはホーチミン市から離れたところにあって、何時間もかけてやっとたどり着くところなんです。条件がものすごく悪く、住まいはヤシの葉っぱで作った屋根と、ワラと泥で固めた壁、竹のベッド、床はなくて、赤い粘土の地面は雨が降ったらつるつるでこける、という状態です。電気はないから、灯油でランプをともすわけです。服を買いかえることはほとんどないですね。庭先でトマトやピーマン、イモなどをいくらか植える程度のことはしてました。キャンプから出かける時は申請しないといけないし、帰りが遅れたら草刈りとかの罰則があるんです。
 おまけにすごく不衛生で、上流に住んでいるベトナム人が水牛やカモ、アヒルを放し飼いにしているので、その糞や尿の混じった水がキャンプに流れてくるんです。そのにごった泥のような水を飲料水、洗濯、シャワーなどの生活用水として使っていました。それに、どうしてかわからないけど、年に二回ほど川の水流が変わるんですよ。半年は酸っぱい水が入ってきて、もう半年間は海水のようなしょっぱい水なんですね。ですから、胃をやられる人もいて、父も胃を悪くしたので、雨水をためて父専用にしてました。でも、戦争の時も、道路の水たまりや田んぼの水をそのまま飲んでいましたからね。

難民キャンプでは仕事も収入もないですから、国連の配給で生活しているわけです。たとえば、一家族に一ヵ月に米何キロ、灯油を何リットルとか、塩をいくらとかの配給があります。キャンプにいたら配給があるから、何とか生活だけはできる。将来の夢はないけど、出るに出られない。結局、そのキャンプには三年ほどいました。

 最初、ぼくの家族はフランスに行くことにしていたんですよ。というのが、フランスに留学していた叔父さんと連絡が取れて、入国手続きをしてくれたんです。ところが、叔父さんは大学を卒業したばかりで経済力がないから、なかなか許可がおりない。

 あれこれしている間に、タイのキャンプに渡っていた叔父さん、以前伊藤忠に勤めていた叔父さんですけど、この叔父さんにたまたま日本人の記者が取材したんですね。外国に知り合いがいないと、一生キャンプにとどまっていないといけない。だから、叔父さんは日本人の記者に「私は伊藤忠に勤めていた。ぜひ日本に行きたい」と必死に訴えたわけです。その記者の方は叔父さんのことを記事にされたんですね。そしたら、伊藤忠の関係者が叔父さんの家族を日本に呼び寄せてくれたわけです。それから叔父さんがぼくたちの日本への入国手続きをしてくださって、それまでのキャンプから条件のいいキャンプにやっと移れました。

 難民キャンプには国連が作った学校があって、ぼくはベトナム語での授業を強制的に受けてました。そこでは算数の足し算、引き算程度を習ったですね。海外に出るためには語学が必要だということで、英語、フランス語、中国語なども学びました。難民キャンプにいる語学ができる人に、四、五人が「教えてください」と頼むわけです。月謝を払うにもお金がないから、母が持っていた貴金属を切り売りしました。

 難民キャンプでは仕事がないから、大体おそくまで寝ていますけど、ぼくは朝早く起きていたんですよ。5時には起きて、キャンプを二、三周走り、そして川の水を浴びて、庭に手作りの机を出して勉強する。そして、朝9時から10時まではベトナム語で勉強して、10時から11時までは中国語、昼からはフランス語、英語といったスケジュールで毎日勉強していたわけです。習うのは一日に一時間だけですからね、必死になって勉強しました。
 キャンプの中にはラジオもテレビもないし、勉強するといっても教科書もないわけですよ。先生が持っている本、一冊しかありません。それを字の練習のつもりで書き写していました。漢字一文字を四、五枚書かされるんですよ。あの時は、こんなことやっていてはたして使い物になるのだろうかというのが正直な気持ちだったですね。
 弟はやんちゃで、あまり勉強せずに遊んでいたので、母は毎日怒って、「勉強しなさい」とよく言ってました。だけど、父はあまり怒らなくて、今でもよく覚えているのは、「お前が勉強するかどうかは俺のためじゃない。お前自身のためだ。俺はお前に残せるものは何もない。勉強させることしかできない」と言っていたことです。

 語学を学んだこつは、歌から入ることですね。まず自分の好きな歌のメロディーを覚えるんです。ぼくはテレサ・テンの歌が好きだったですね。ゆっくりした曲が多くて、歌詞がわかりやすい。メロディーの次は発音を覚える。発音さえわかれば、自分の好きな歌だから頭に入ってくる。そして歌の歌詞を写す。それで自ずとわかってきて、意味を理解していく。最初は意味がわからなくてもかまいません。
 それから朗読。たとえば、ホテルの客とボーイの会話が英語の教科書にあるとしますね。それを写して、全部暗記する。翌日、学校へ行ったら、先生とその会話のやりとりを本を見ずにするんです。最初は暗記できないと思ったのですが、毎朝大きな声で朗読して、何回もくり返していたらできるようになるんですよ。
 それと、先生の言うことを自分でくり返す。「今日は何々をします」とか先生が言うでしょう。声に出したら迷惑になるから、それを口の中でくり返します。
 あるいは、先生が新聞を読んで、それをそのまま書き写す。この練習のおかげで、今では英語、フランス語でしゃべるのを聞いて、そのまま書き記すことができます。ぼくの勉強の仕方はそういったことでした。

 あれこれしている間に、先ほど言った叔父さんが広島で就職して、何年後かにホーチミン市にいたおじいちゃん、おばあちゃんと叔父さんの家族を日本によんだんです。その叔父さんも広島で働いて、そうして今度はぼくたち家族をよんでくれました。そこでやっと日本への入国許可がおりて、日本へ行くことができました。結局、ベトナムには八年間いました。

 呼び寄せる人がちゃんと仕事をし、収入があって、生活態度が真面目でないと、日本政府は入国を受けつけません。叔父さんたちが真面目にがんばって、転職せずに勤めたおかげで、ぼくたちが日本に来ることができたわけです。
 ぼくたちも母の姉一家をよんだんですよ。日本に来て何年かして、生活が安定し、貯金もできたので、伯母さんたちをよぶ申請をしたんです。政府がこれなら大丈夫というので、許可がおりて、伯母一家を難民キャンプから呼ぶことができました。

  三、日本

 1987(昭和62)年7月29日に日本に来て、神奈川県の難民定住促進センターに入りました。そこは外国人が日本に定住するために六ヵ月間、日本語を三ヵ月勉強して、もう三ヵ月は生活習慣を学ぶための施設です。日本語を「あいうえお」から勉強し、洗濯機の使い方から、電話のかけ方、バスの乗り方、手紙の出し方、それら生活習慣を学んで、修了式が行われます。そして、ほとんどの人が就職することになるわけです。

 日本に来た当初は「おはよう」すら言えなかったですから、何もわからない状態でした。いろんなことが驚きだったです。毎日のように地震があって、それまで地震を経験したことがなかったから、もう恐かったですね。食堂はぼくたちにとってはなんだか変な匂いがして、最初はなじめませんでしたね。ご飯も慣れるまでに時間がかかりました。日本のお米は柔らかいじゃないですか。向こうのご飯はぱさぱさなんですよ。ご飯にスープをかけていただきますから、ねちゃねちゃだと合わないわけです。ところが今では、父は「日本米がおいしい。カンボジアに帰るとご飯が食べられん」と言いだすんですよ。おかしいですよね、人間は。

 勉強の時にビデオを見せられことがありました。ぼくたちは早送りや巻き戻しをそれまで見たことがないから、すごく早く動くのが滑稽で、みんな大笑いしました。
 それとか、「はい」と日本では返事をしますけれ、広東語では女性性器を指す言葉で、「くそったれ」という意味にも使われ、ケンカをする時によく言うんです。ところが日本語の先生、女性ばかりですので、返事をされる時には丁寧に「はい、はい」と言うわけですね。ぼくたちは広東語の意味しか理解できないから、笑いが止まらなくて。
 「おっちょこちょい」もカンボジア語では滑稽な意味になるんです。父がノートや鉛筆を忘れては、先生から「おっちょこちょいですね」と言われると、みんな笑うわけですよ。お父さんはどうして怒られるのかと思っていてね。

 とまどったのが、自分より年上としてお呼びすることが日本ではよくないことになりますよね。たとえばカンボジアなどでは、初めて会った人に対して、「お兄さん」「お姉さん」、ある程度年上だったら「おじさん」「おばさん」と言います。それが敬語に当たる言い方になるわけですよ。それで、「おばさん」とか「お姉さん」と言ったら、怒る、怒る。でも、ぼくたちにはなぜ怒るのかがわからない。
 今でも困っているのが、タテマエと本音の使い分けと見分け方です。タテマエと本音の違いにはとまどいました。「うちに遊びにおいでよ」と言われて、本当に行ったらびっくりされ、「マジに来たか」という感じなので、ぼくのほうがびっくりしたこともあります。

 そんな毎日をすごしているうちに、あっという間に六ヵ月が過ぎて修了式になり、一般社会に出て就職となります。その時、ぼくは18歳だったけど、日本に入国する時には16歳と嘘の年齢にしていたんです。それは難民キャンプにいる者の常識なんです。なぜなら、いざ海外に行った時に学校に入れるような年齢設定にしておくわけです。
 ところが、ぼくは日本語があまりできないから学校には行けないし、かといって就職するにしても16歳だと難しい。そういうことで、どうしたらいいでしょうかと、所長に事実を話して相談したら、本当の年齢にしたほうがいいということで、訂正して18歳に戻していただきました。

 幸いにして就職先がすぐ見つかり、1988(昭和63)年1月6日に広島の川田鉄工所(現在のカワダ鉄工)に入社しました。叔父さんがそこに勤めていたし、ちょうどバブルの時期ですごく忙しく、働き手が足りないので、外国からの出稼ぎを雇っていたわけです。入社して二年ぐらいして、ある程度日本語ができるようになれば学校に行ってもいいという約束で入ったわけです。

 寒い冬は生まれて初めてなんですよ。カンボジアやベトナムは寒くても二十度くらいですからね、まず寒さがつらかったです。そして、仕事は機械現場です。一個五キロから七キロぐらいの重たい鉄を一日六百個ぐらい作るわけですよ。一つ作るのにそれを二十メートルぐらい持って歩かないといけない。慣れないものだから筋肉痛で痛くて。一日中ゴム手袋をつけて作業をし、手袋を脱いだ時には指が痛くて動かない。いくらつらくても、両親には心配かけたくないので何も言えず、夜になると布団の中で泣いていました。

 当初の給料は手取り五万円程度でした。五万円というとカンボジアでは年収ですよ。最初は金銭感覚がわからないから、「うわあ、すごい」と思っていましたが、働き始めて同僚と会話するようになって、「あなたのお住まいの家賃いくら」と聞いたら、「八万」とか言うわけです。「ええっ」と思って。ぼくの給料は五万円、どうやって生活するのと。

 ある日、新入社員が入ってきたんです。三ヵ月の研修期間を終えたら係長とか主任になるわけです。ところが、現場の係長は二十五年の大ベテランで、現場では何でも知っているし、仕事はすべてこなせる。それなのに係長にしかなれないんです。おかしいなと不思議に思って同僚に聞いたら、「あの人は中学しか出ていないから係長以上にはなれない」と言われました。その時は本当にショックでした。ぼくも勉強をしないといけない、学校に絶対行こうと、あらためて思うようになりました。
 
 そこで、ぼくたちの世話をしてくださったボランティアの方に相談したんです。そしたら、「難民のあなたが日本に来て、ご飯を食べることができ、仕事もさせてもらえて、それ以上何を望むのか」と言われました。ぼくはびっくりして言い返そうと思ったんですけど、祖父母に「あの方にはお世話になっているから、無礼なことをしてはいけない」と言われたので我慢しました。その時点で、絶対に学校へ行ってみせると心に誓ったわけです。
 違う方に相談したら、昼間は働いていますから夜間の学校しか行けないので、観音中学に夜間があることを教えていただきました。

 面接と簡単な試験を受けて入学の許可がおり、一九八九(平成元)年、中学生になりました。ぼくは二十歳でした。朝七時半に家を出て、八時から仕事、五時に終わって、それから学校に行くという、忙しい毎日でした。試験の時はプリントを機械にはりつけて、仕事をしながら暗記をしたりして勉強しました。
 卒業が近づいたころ、先生から「高校受験をしてみたら」と勧められたんです。当初は中学校さえ出ればいいと思っていたんですけど、海田高校の夜間に入学することにしました。今までと同じように、働きながら学校に通うという毎日でした。高校では生徒会長をしたんですよ。

 21歳ごろだったと思いますけど、県警から鉄工所に依頼があって初めて司法通訳をしました。それ以前にも公民館などで通訳をしたことはありました。ちょうどそのころ、アジア大会があったので、そこでもボランティア通訳をしました。地域貢献という名目で安芸区の一日区長を体験させていただいたり、ラジオやテレビ、新聞の取材を受けたこともありました。学校から帰ると、テレビカメラが待ちかまえていて、ご飯を食べるのや、風呂に入るのを撮られるということもあったんです。夏休みには自動車免許を取りました。

 高校には四年間通い、今度は「大学を受ける資格があるから」と先生に大学進学を勧められたんです。私立は自分の給料じゃとても行けませんから、広島大学を受けようと思いました。推薦入学を受けるので、担任の先生に小論文の指導を受けたり、数学は基礎がないので中学の時の先生が特別に指導してくださったりしました。

 受験当日、三時間前に家を出たんです。家から三十分ぐらいで広島大学に着くんですけど、ぼくは方向音痴だし、自動車の免許は取ったばかりだから早めに出たんですね。ところが事故に巻き込まれて、全然動かない。やっとセブンイレブンから大学に電話をかけたら、「もう試験は終わっている。みんな帰った」と。冷や汗が出て、「どうしよう。ぼくの人生はこれで終わったのですか」と思わず口に出て、「どうにかなりませんか」とお願いしたら、「どうもならん」という返事です。「どうにかできませんか」とさらに頼んだら、「何とも言えんけど、来るだけ来てみんさい」と言われて、のこのこ行ったわけですよ。そしたら、誰もいないんです。たまたま大学の教官の方が同じ渋滞に巻き込まれていたので、何とか理解していただけて、ぼく一人だけ受験させてもらいました。
 大きな講堂にぼく一人だけぽつんと座り、試験官が五人ぐらいいる。あきらめ半分で、ともかく大学受験しただけでもええわと開き直って答案用紙を出しました。受験が終わって高校に帰ったら、担任の先生やみんなに怒られてね、「お前、百点とっても受かるわけない」とか「前代未聞だ」とか言われました。

 問題は結構できたから自信はあったんですけど、遅刻しているからだめだと思って、合格発表の日には仕事に行きました。そしたら、夕方に職場の主任が走ってきて、「ヒム君、受かったで」と言うわけですよ。「えっ、何のことですか」、ぼくは発表があるのを忘れていたんです。「大学だよ、大学」「嘘でしょう!」。からかわれていると思ったんですよ。「嘘じゃない。新聞記者から電話があった」と。仕事を終えて高校に行ったら、校長室で記者会見が待っていました。

 大学に入学した1995(平成7)年に、日本に帰化しました。帰化を申請して三年ぐらいかかりました。早いほうなんですよ。十年も申請してもおりない人がいるぐらいですから。というのが、ものすごく厳しい。何回も呼び出されました。勤めていますから、そのたびに仕事を休まないといけない。そして家族全員で行ったら、「次回にこれを持ってこい」です。いっぺんに言わないんですよ。それを持って行ったら、今度は「別のものを持ってこい」。しょっちゅう休んで行かないといけない。
 おまけに、ぼくたちのように何もかも失った人に対して、「祖父母の結婚証明書を出しなさい」なんて言うんですよ。命があるだけでも幸いなのに、そんなものを出せと言われてもどうしようもない。ある時なんか、「あなたの出生証明書がない。だったら、あなたは親の子供かどうかわからないじゃないですか」と言われました。カツーンときて、「血液検査でもしなさい」と言いたかったのですけど、でもそこで口答えしたらますます無茶を言われるから我慢したこともあります。だから、たいていの人はあきらめて、途中で投げてしまうんです。

 結婚したのもこの年です。帰化する前ですけど、ぼくの仲人の方に通訳としてベトナムへ一緒に行ってほしいと頼まれたので、ぼくのビザを申請しに入管へ行ったことがあるんです。そしたら入管の人が「旅行に行きたいんなら、そのまま帰ってしまえばいいじゃないか」と言うんですよ。「それはないでしょう」と怒ったら、奥から上司が出てきて謝ってくれました。たぶん、ぼくが日本語できないと思ったんでしょうね。

 大学に入学した年に仏壇店に入社しました。ベトナムや中国に進出しているから、ぜひぼくに来てほしいと誘われたんです。入社二日目でベトナムへ出張ですよ。すごく気に入っていただいたんですけど、大学を卒業する時に、仲人の方が婿さんの勤めている金型プログラムの会社を紹介してくださったんです。最先端技術を一から教えてくれるというし、給料もいいですから、勉強させてもらおうと思って入りました。
 ところが、それがまた地獄の毎日だったんですよ。だって、それまでパソコンを触ったこともなかったですから、毎日怒られっぱなし。普通の人が十分でできることをぼくは二、三時間かかる。コンピュータ言語ができないから動かない。それでも何とか一人前になりました。そしたら、マツダを希望退職して辞めたプログラムの専門家たちが会社にスカウトされて入ってきたので、いづらくなって辞めました。

 そして人材登録銀行に登録したんです。ある日、貿易会社から来てほしいという連絡がありました。中国に鉱山を持っている会社です。面接に行ったら、「中国で詐欺に遭って裁判をしている最中だから、最低の給料でスタートさせてくれ」と言われ、いくらか聞くと、十八万円の給料という話でした。募集では基本給は三十七万円だったはずなんですけど、でもぼくの能力を必要とされているならまあいいやと思って入社しました。
 現地の人事、管理を全部手がけ、裁判を担当して、大変だったですよ。一年ぐらいかかって裁判に勝ち、会社の名誉と財産は取り戻したけど、会社の経営者がよろしくなかったんです。現地での評判が悪いし、人づかいも荒い。半年も給料をもらっていないのにこき使われる。それなのに社長は好き勝手なことをやっている。それでその会社を辞めて、独立して三金貿易という会社を平成十六年に立ち上げました。貿易と通訳と翻訳の会社です。

 今まで司法通訳をし、いろんな会社に勤めたことで、自分の語学のレベルがどの程度なのか自信がつきました。それで、一般の貿易をやって、司法通訳をやり、企業の通訳もやれば何とか生活できるだろうと会社を立ち上げたわけです。現在は、県警、検察、裁判所、弁護士会、刑務所、入国管理局の通訳をしております。主にベトナム語、中国語、カンボジア語です。英語、フランス語もできます。
 なぜ三金貿易という名前にしたかというと、元の名前の?という字を使おうというので三金貿易にしたわけです。金持ちになりたいからそういう名前にしたのではと誤解されることもありましたが、全然違います。

 会社を始める少し前に離婚しました。ぼくが海外に出張している間に、育児放棄するし、ローンの支払いをしていない。おまけにいつの間にかローンを組んで借金を作っている。これではやっていけないので、別れてもらってマンションをあげました。子供は三人いて、長男はぼくが引き取り、長女、次女は元妻が育てています。

 ぼくの両親と姉夫婦は、西条でカンボジアとベトナム料理の店をやっています。家族全員が川田鉄工所に勤めていたんですけど、母が戦争中にずっと水の中につかりっぱなしで重労働をしていたために、子宮下垂ですか、病気になったんですね。それが長年の持病になり、日本に来ても仕事はずっと立ちっぱなしでしょう、つらくてできなくなったんです。料理店を開いたら少しは自由がきき、楽になるのではというのがきっかけで店を始めました。母がカンボジア料理を作り、姉の旦那さんはベトナムの華僑ですので、ベトナム料理も作っています。両国の関係友好を願って日々健闘しています。

 ぼくは日本に来た時から教育の大切さを知り、将来はカンボジアの恵まれない子供たちに学校を作り、教育を受けさせたいという願いを抱いております。夢の実現のために毎日奮闘しております。どうもありがとうございました。

(2006年9月30日に行われましたおしゃべり会でのお話をまとめたものです。山田寛『ポル・ポト〈革命〉史』を参考にしました)